夏期休暇に閉じ籠められたキミを解放するボクの時間旅行
宵澤ひいな
2015年の夏期休暇
義務感で何となく受けた講義の帰りに、必ず立ち寄る場所がある。
地下鉄の7番出口の階段を上がり、プラタナスの街路樹を東に徒歩20分。
地上に出てからの距離、バス停ふたつぶんを、ボクが決まって歩く理由。
「十字路まで歩くと、ソラの弾くピアノの音が聴こえてくる。
その瞬間を確かめたいから」
どうしてバスに乗らないの?
ソラに
するとソラは
そして、しばらくのあいだ、ピアノに向かい、即興演奏を聴かせてくれる。
ボクはソラの弾くピアノの音が好きだ。
その音がボクの耳に届いているうちは、ソラが生きているということだから。
桜の季節から、ボクらは放課後を共にするようになった。
ソラは、すべてに冷めた瞳をしている少年で、
ボクと同じ17歳だなんて思えない。
いつも
彼の疲れた様子は、あきらかに年相応のものではなかった。
ソラは生きることに疲れていて、学校に出てくる気力も失って、
教室の彼の席は決まりごとのように空いている。
*☼*
夏の夕陽が
舞台の暗幕のような重々しいカーテンの下がる部屋、ソラの昔の自室だ。
現在、ソラの家庭は、列車で2駅離れた市街地に越している。
親の事情で……ソラは引っ越しの理由を、饒舌には語らない。
「
太陽の傾きに伴って、88音の鍵盤にも、夕陽が反射するらしい。
けれども今までは、淡いオレンヂ色の
「
ソラを傷付ける現象から
物の見分けのつくぐらいの
ソラは微小なスタンドの
ソラの顔は、闇に呑まれそうに見える。
そして、いつもの会話が始まる。
ボクがソラの寝台の横に、
「やっぱり睡眠薬が、いい。致死量を持っているんだ。
それがあるから安心できる。宝物だよ」
「綺麗な
「駄目。破壊力が弱いもの。この程度の傷しか与えてくれない」
ボクの視界に、ソラの傷付いた
幾重にも切られた跡が残っていた。
ソラは生きるために手頸を切る。
決して本気を出さない。傷は浅いものばかりだ。
ピアノを弾く神経に響くような深い傷は無い。
「そんなに何度も切って、疲れない?」
「手当てが
だから睡眠薬。眠っているときが、いちばん幸せ」
「学校には、もう出てこないの? 明日から新学期だよ。
これ以上、現実を
「明日は、登校するよ。だから早く眠る。ほんとうに、今日で、おわりにする」
今日を限りに、何をも生まない休暇にピリオドを打つ。
ボクはソラの言葉をそう解釈した。
ソラの家庭は放任主義で、彼が旧宅に泊まろうと、学校を休もうと、
たいして気に止めない。
「自由にしなさいと
まだ自分で自分のことを決められないときからね。
自由にしろ。
それって、勝手にしろってことと、どう違う?」
「過干渉よりマシさ」
「そうかな。死のうと生きようと、どうなってもいい。無言の圧力だよ。
疲れた。ボクは、もう、ほんとうに疲れた」
手持ちの合鍵を
合鍵を
*☼*
こどもの日。ボクがソラの禁断の儀式を知った日。
5月。日照時間が伸びきる前の、うららかな平日。
明るいうちは気兼ねなく、音を鳴らせると
ソラのピアノの音は聴こえなかった。
彼の旧宅は防音壁ではない。
近所迷惑にならないように、明るいうちだけ鳴らせるピアノ。
昼間なのに聴こえない。今日は気分が乗らないのだろうか。
室内は、微かなエアコンの作動音に充たされていて、
ソラは、陶酔したような表情で、ナイフと戯れていた。
合鍵を渡して、すぐに、こんなことをするなんて。
ボクに、
真っ白い腕の内側に、真っ赤な血のアクセントが、とても似合っていた。
カーマインの絵の具を絞り出したような、芸術的な
だから、見とれて、言の葉を失った。
「
ほんとうのボクを見て、ぶつかって欲しいんだ。
聴こえない?
この心の叫びが、キミには聴こえない?
「
見ていてあげる。ソラが死なないように、見ているよ。
*☼*
はじめて、ソラの破滅的な儀式を見たとき、危険だと思った。
一歩、踏み外せば、どのみち蚊帳の外。
黙認していたのは、ソラが危険な儀式に身をやつす姿が美しく、
その儀式を制止すると、余計に困難な事態を招くと感じたから。
級友は、ソラと放課後を共有するボクを、しだいに遠巻きに見始めた。
それからはボクも、学校に憩いや楽しみをおぼえなくなった。
つまらない。けれども通うことを放棄できなかったのは、
ボクに、未来を意識する心持ちが残っていたから。
ソラが持っていなかった、持とうとしなかった心持ちだ。
いまどき、睡眠薬で死に至る人を
「疲れた。ボクは、もう、ほんとうに疲れた」
繰り返していた口癖に惑わされて、ボクは、
「早く眠る。ほんとうに、今日で、おわりにする」
と
あの夏の、おわりにキミを閉じ
合鍵で過去の扉を閉ざしたボクが、未来への扉を開いてゆく。
ピアノの音は、もう聴こえない。
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