均衡

 四月が訪れ、新たな学年が始まると気分は春になる。東川の町もだいぶ暖かくなってはくるものの、まだまだ雪景色だ。雪の残る入学式を終え、深雪たちの後輩が入学してくる。実咲も新入生として同じ高校へ通うようになった。真新しい制服をきちんと着て期待を不安の入り混じった顔をしている新入生。ちょうど一年前自分たちもこんな風に見えていたのだろう。深雪はあれから一年しか経っていないという感覚と、もう一年も経ったという感覚の間をメトロノームみたいに揺れていた。


 部活動が解禁になって体験入部期間がスタートすると校内はにわかに騒がしくなる。勧誘合戦が始まるのだ。深雪は一年前のことを思い出していた。様々な部活の熾烈な勧誘合戦。その戦線から完全に離脱してまるで他人事のようだった写真同好会の朝妻。あの時、自分ならもっと積極的に勧誘するのに、と思ったことを思い出す。でも今年、深雪はもう風音と実咲という二人と一緒に写真甲子園へ挑むと決めていた。深雪の勧誘熱は既にもうだいぶ冷めた状態にあった。


 勧誘合戦の初日、喧騒の中心からだいぶ離れたところにある写真同好会の部室で、深雪はやってくるはずの実咲を待っていた。朝妻は去年とほとんど変わらない姿勢で人形の写真を撮っている。風音はまだ来ていないようだった。


 深雪は春休みの間に撮影したデータを整理しながら二人を待つことにした。休み中に撮影したデータはおよそ三百枚ほどになっていた。実咲も言っていたように一日二十四枚という制限は実際にやってみるとむしろ多すぎるぐらいで、二十四枚に届かない日の方が多かった。そのデータをサーバにコピーして整理する。全カットをコピーしたうえで、応募作品の候補になりそうなものを抜粋する。深雪はその作業に没頭し、しばらく時間を忘れていた。


 ふと、風音も実咲もやってこないことに気づいて時計を見上げた。もう四十分ほど経過していた。当然のように入部希望者も一人も来ない。今日初めてここへ来るはずの実咲はともかく、いつもやってくるはずの風音も来ないのはおかしい。なにかあったのではないかという不安がよぎる。


 静かな部室を出て騒がしい廊下を進み、教室へ戻ってみる。風音のクラスを覗いてみたけれどそこに風音の姿はなかった。一年生の教室も覗きに行ってみる。授業が終わった直後には様々な部活の勧誘が殺到していたその付近も、今はもう落ち着いていた。どの教室にもすでに生徒の姿はなかった。実咲はどこへ行ったのだろう。そもそも今日実咲が登校していたのかどうかもわからない。カンバスでメッセージを送ろうかとも考えたけれど、なんと書けばいいのか思いつかなかった。


 風音も姿を見せないのだからきっと何かあったのだろうと深雪はほとんど確信した。実咲になにかあり、風音がそれに付き添っている。その可能性が一番濃厚だと思った。もしそうであれば、風音はきっと連絡をくれるだろう。深雪にはそれを待つ以外の選択肢はないように思えた。


 深雪は帰宅してからもずっと電話を気にしながら過ごした。床に入ってカンバスを開き、実咲に送るメッセージを考えていたところに電話がかかってきた。深雪は発信者が風音であることを確認してすぐに電話をとった。


「はい。」


「もしもし、深雪? わたし。」


 風音は淡々としていて声から何かを推し量ることはできそうになかった。


「電話待ってたよ。きっとくれると思って。」


「うん、実咲のこと。」


 深雪はどきんという音を聞いたような気がした。実咲の話なのは予想していたのになぜか足元が揺らぐような感じがした。


「実咲入学式からずっとちゃんと学校来てたんだけどね。今日お昼過ぎに具合が悪くなって保健室に行ってたみたい。実咲のお父さんに連絡が行って、お父さんがわたしのことを保健の先生に言って、お父さんが迎えに来るまでわたしが実咲のそばにいてくれって頼まれたの。どっかで深雪に伝えに行けたらよかったんだけどさ。そのままお父さん迎えに来てわたしも一緒に実咲の家に行ってきたんだ。」


 深雪は自分の中に名前のわからない気持ちが渦巻くのを感じて懸命に振り払った。


「それで、実咲は大丈夫なの?」


「うん。家に帰って薬飲んだら落ち着いた。」


「やっぱり部活始まったことが重荷になったのかな。」


 深雪はずっとそのことを気にしていた。もしやとまさかが交差する場所に写真甲子園があるような気がした。あの合格発表の日、涼月で会った実咲は元気だったしよく笑った。病気だということを忘れるほどに。そして深雪は本当に忘れかけていた。忘れたいと願っていたのかもしれない。意外と大丈夫だと思いたかったのかもしれない。でもそんなに簡単なはずはなかった。


「実咲は違うって言ってたよ。楽しみにしてたんだって言ってた。でも実咲に楽しいことが訪れようとすると世界がそれを妨げようとするんだって。わたしは幸せになっちゃいけない人間なんだ、って泣いてた。」


 深雪は万力みたいなもので心臓をつぶされているような気がした。


「それって例のテレパシー?」


「うん。わたしがいると二人は気を使わなきゃいけないとか、わたしが二人の足を引っ張るんだとか聞こえるみたい。」


 スマートフォンを耳に当てたままで深雪は涙を流しながら首を横に振っていた。足を引っ張る。深雪はむしろ自分がほかの二人の足を引っ張らないように頑張ろうと思っていた。今の時点でもっとも未熟なのは疑いようもなく深雪だった。それは深雪自身にもよくわかっていた。まさか実咲が足を引っ張るなど思いもよらなかった。そんなことぜんぜんないと伝えたかったけれど、気休めや慰めみたいにならずにそれを伝える方法がわからなかった。


「わたしが今日深雪のとこへ行けなかったのも自分のせいだって言ってた。自分がみんなに迷惑をかけてるって。だからわたし言ったんだ。今日実咲が迷惑をかけたのはわたし。深雪に迷惑をかけたのはわたし。実咲から受けた迷惑がわたしを経由して深雪に行ったから、実咲は深雪から迷惑受けたらいいんじゃない? って。」


 さすがにそれは雑な物言いなんじゃないかと深雪は思った。


「そんなこと言っちゃって大丈夫なの?」


「うん。実咲にはね、実咲は迷惑かけてないよっていうような嘘じゃなくて、迷惑かけたっていいんだよって思ってもらった方がいいの。実咲のお父さんもそう思ってるから、わたしに少しぐらい迷惑が掛かっても今日みたいなことを頼んでくるのよ。実咲にも見えるように。迷惑をかけてもいい友達がいるんだって思ってほしいから。だから深雪のことも話しておいたから。わたしと同じように実咲の友達になった子がいるからって。これからは今日みたいなときに深雪が呼ばれることも出てくると思うよ。」


「ありがとう。」


 風音が深雪のことを自分と並べてくれたことに胸が熱くなる。


「で、迷惑を受けたあとはちゃんと埋め合わせもしてもらうのがポイントよ。今日わたしは実咲が落ち着いた後に、実咲のお父さんに家まで送ってもらったの。うちのお父さんに迎えに来てもらうっていう選択肢もあるけど、そこは実咲のお父さんに頼まないとだめなの。実咲のお父さんがわたしを呼んだんだからちゃんと帰りは送り届けてねっていうね。それももちろん実咲にちゃんと見せるの。」


「そっか、ギブアンドテイク。」深雪はなるほどと思った。


「誰だってみんなギブアンドテイクよ。誰にも迷惑かけずになんて生きられるはずないんだもの。」


「それはそうだけどさ。なるべく迷惑かけたくないとは思うじゃない?」深雪がそう言うと、風音は「あんたがそれ言う?」と言って大笑いした。


「とにかくそういうわけで実咲は大丈夫だからさ。今度会ったときにさ、ぜんぜん迷惑じゃないよとかじゃなくて、今度はわたしが迷惑かけるからね、ぐらいに言っておけばいいの。」


「わかった。そういう風に意識しておく。」


 簡単に答えたものの、深雪は自信がなかった。実咲に対する風音の接し方を見ていると、自分がこれまで優しさだと思っていたものは単なる保身だったんじゃないかという気がした。


 相手をいたわることで自分を守る。わたしはそういう気配りができる人ですよというアピールをし、同時に安全な距離を置く。相手を傷つけないようにという大義名分のもとに自分が傷つかない位置を保つ。深雪にはそういう偽物の優しさが身についてしまっていた。


 わたしは平気だよ、気にしないで、あなたは休んでていいよ、そう言っていろいろなものを自分が引き受けてしまうほうが楽なのだ。あなたはこれをやって、こぼれたらわたしが拾うから、その分は他で埋め合わせてもらうわよ、そう言うためにはしっかり相手の領域に踏み込む必要がある。迷惑を被り、迷惑をかける。ギブアンドテイクとはいかにも月並みな言葉だけれど、そこには覚悟が必要だと感じた。

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