停滞

 ふらりと旧友のように訪ねてきた夏はやってきたときと同じようにわずかな気配をそこここに残してあっけなく過ぎ去っていった。その短い夏のさなか、七月の終わりの五日間、写真甲子園の本戦大会が行われた。全国からやってくる選手たちは町はずれのロッジや町内の一般家庭に滞在し、合宿状態で作品を撮る。写真を競うことだけでなく、この町で過ごす五日間のすべてに大きな意味がある。

 本戦大会では東川町を始め、美瑛、上富良野、東神楽などが撮影地となる。このわずかな期間だけ、一眼レフカメラを首から下げた高校生たちが町に溢れる。この時期に町で目にする高校生。上着を腰のところに巻き付け、一眼レフカメラを手にして語らいながら闊歩するその姿は深雪の憧れだった。自分もいつか、とずっと思っていた。

 憧れに手が届くと思っていた高校一年生の夏、本戦どころか初戦に応募することすら叶わず、町を通り抜ける熱気をただ眺めているしかなかった。深雪は初めて、夏のこの時期をまるで楽しみだと思えなかった。来年に向けて気持ちを切り替えようにも、この悔しさを分かちあい、はげましあう仲間すらいない。それでも本戦の公開審査会にだけは足を運んだ。

 本戦は実質三日間で行われ、三日間毎日公開審査会がある。中学校一年生のころから毎年参加しているこの公開審査会も、今年は逃げ出したい気持ちをむりやり抑え込んでかろうじて足を運んだ。観覧席に座った深雪は、緊張した空気の中で進行する審査会の様子をどこか別の世界の出来事のようにぼんやりと眺めていた。何か大切な回路が壊れてしまったみたいに何も感じなかった。審査員からのアドバイスも、受賞して涙する選手のコメントも、体のすぐそばを通り抜けていくのに拾うことができない。賞が発表されるたびに拍手には参加したけれど、拍手している体は自分のものとは思えないほど遠い。沸き上がる歓声も画面の向こう側の出来事のように感じられた。選手席と観覧席の間に横たわる通路。幅わずか二メートル足らずのその隔たりを、果たして自分は来年超えることができるのだろうか。つい半年前には容易いことに思えていたのに、今は途方もないことのように感じた。


 こうして、深雪に与えられた三回の夏のうち一回目が終わった。


 夏にかき乱された深雪の気持ちは秋風に癒されるようにして落ち着きを取り戻し、次第に日常へと戻って行った。深雪は日々授業が終わると部室へ走り、カメラを手にするとすぐ外へ出た。毎日約一時間半ほど無心に写真を撮る。とにかく自分には経験が無さ過ぎる。それなのに実力の差を見せつけるような同級生は写真同好会にはいない。はたして自分は標準的な高校生の写真部員よりどのぐらい遅れているのか。それすらわからないことが大きな不安となって背中のすぐ後ろに迫ってきていた。


 部室に戻るとその日の成果を小松沢に見せる。一時間半で深雪はだいたい二十~三十カットぐらいの撮影をしていた。その量に対して、小松沢は多いとも少ないとも言わなかった。部室のパソコンにデータを移し、ビューワで表示しながら講評をもらう。でも小松沢はときおり頷く程度の反応を見せるだけで、特に感想やアドバイスのようなことを言うことはなかった。朝妻も興味を持って隣からモニタを覗き込んではいたけれど、特に何か意見をするわけではなかった。


 ある日深雪は、いつものように部室で作業をしている朝妻をつかまえて聞いた。


「朝妻さん。少しお時間よろしいですか。」


 作業している朝妻に深雪が声をかけると、朝妻は振り返って深雪を見上げた。


「一応疑問形だけど有無を言わさない感じだね。」


「いえ、そんなつもりはありません。でも時間取ってもらえると嬉しいです。」深雪は慌てて言った。


「それはやっぱり断れないな。いいよ。」と朝妻は笑う。

 深雪はぎこちなく笑い返す。


「わたしの写真、どう思いますか? なぜ先生は何もアドバイスをくれないんでしょうか。」


 朝妻は真剣な深雪を見て真顔になり、右手の中指で眼鏡を直した。


「質問は二つだね。後の方の質問から先に答えよう。」


 朝妻はそう言って椅子の上で少し姿勢を直した。


「こまっちゃんが何もアドバイスをしないのは、まだ時期じゃないと考えているからだと思うよ。」


「時期じゃない。」深雪はぼそりと小さく繰り返した。


「こまっちゃんは椋沢さんに課題をくれたろう。その課題はとことんやって自分で何かに気づけという意味のものなわけだ。その何かに椋沢さんが気づいたかどうか、写真を見たらわかる。そこをクリアしたら次のヒントをくれるはずだよ。ロールプレイング・ゲームとかと同じさ。あのことを教えてくれ、って行くとさ。その前に何かをクリアしておかないと話してくれないのさ。あるだろうそういうの。あっちのクエストをクリアすると同じその人が別の情報をくれるようになる。ゲームではいわゆるフラグを立てる、ってやつさ。椋沢さんはまだフラグを立ててないからこまっちゃんが何も教えてくれないわけ。」


「フラグ。」深雪はまた小さく繰り返す。


 朝妻は深雪の方を見上げたまま「わかる? ぼくの言った意味。」と言った。


「わかります。わたしが撮っている写真はまだ次のことを教えてもらえる段階に行ってない、そういうことですよね。」


「そう、身も蓋もない言い方をすればそういうこと。」


「それは、朝妻さんもそう思われるということですか? わたしの写真はまだ次のことを教えられない程度だって。」


「それが椋沢さんのもう一つの質問だよね、ぼくが椋沢さんの写真をどう思うか。あまり具体的なことを言っちゃうとこまっちゃんが黙ってる意味がなくなるから言えないけどさ。ひとつだけぼくの感想としてヒントみたいなことを言うとすれば、シャッターを切るときに何を思ってるのかな、ってこと。椋沢さんの写真を見てぼくが思ったのはそういうこと。この人はいったい何を思ってシャッターを切ってるんだろうって。」


「何を、思って。」深雪はひかっかった部分を声に出して自分に刻み込もうとした。


 朝妻は細かく何度か頷く。


「別にシャッターを切るのに気負いとかいらないし、何も考えなくたっていい。きれいだなと思ったからシャッターを切るとか、そういうのは間違ってない。だけどそういうやり方だと写真を撮ったんではなく、写真が撮れたっていう状態になるよ。椋沢さんが持ってきてる写真はどれも撮ったものじゃなくて撮れたものだっていうふうにぼくには見えた。」


 深雪は急に息がしやすくなった気がした。


「ありがとうございます。」気づいたらその言葉が飛び出していた。


 朝妻が使っている撮影ブースの方を見やり、彼のやり方だと偶然写真が撮れたというようなことはあまり起こりそうにないな、と思った。朝妻の場合、すべては意図的に作り込んだものだ。作り込んで撮る。撮ろうと思ったときにはすでに完成の絵が頭の中にある。それをどうやって撮るのか。それが朝妻の追及していることなのだろう。

 深雪は自分がシャッターを切るとき頭の中に完成の絵が見えているだろうか、と考えてみる。あまり深く考えるまでもなく、そういうやり方でシャッターを切ったことがなかった。いいなと思ったらシャッターを切る。いいなと思ったものにカメラを向けてシャッターを切ったのだからそれが撮れているはずだ。気持ちごと閉じ込めたはずだ。そう思ってやってきた。


 深雪はその日、撮影には出ず、部室のパソコンに今までコピーした写真をじっくりと見直した。その写真を撮った瞬間の気持ちがちゃんと写真の中に刻まれているのか。それを確認しようと思った。


 アスファルトの隙間から花を咲かせていたタンポポ、あちこち壊れた金網、塗装の剥げたポンプ、真っ白い観音像、史跡を表す石碑、どれもきれいに撮れてはいる。でもその写真たちは何も語り掛けてこなかった。シャッターを切った深雪本人でさえ、どんな気持ちでシャッターを切ったのか思い出すことが難しかった。単に被写体になりそうなものに向けてシャッターを切っただけ。そんな写真しか残されていなかった。

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