前進

「最近元気ないんじゃない? ぼんやり窓の外眺めちゃったりしてさ。」


 深雪が休み時間に自分の席で窓の外を眺めていると麻夕が声をかけてきた。


「さては恋だな。」


 麻夕は深雪の首に巻き付いて言った。深雪は思わずため息をついた。


「おお、ため息。重症だな。」


「ちがうから、そういうのじゃないから。写真で伸び悩んでて頭がいっぱいなの。」


 麻夕は深雪に絡めていた腕をほどく。


「うむ、おぬしはな、力が入りすぎておる。」


 麻夕のそのおどけた口調に笑い返す余裕が深雪にはなかった。


「うるさいな、ほっといてよ。わたしはほんとに悩んでんだから。」


「いや、まじめに言ってるんだよ。」


 麻夕の口調が急に真面目になる。


「上手にやろうと思うとうまくいかないよ。体裁は整うかもしれないけど芸術ってそういうもんじゃないっしょ。お手本を習った先に表現があるのだよ。」


「なにそれ、誰の受け売り?」


「あ、受け売りってばれたか。部活の先輩が言ってたんだ。」


 吹奏楽と弓道で迷っていたはずの麻夕は、結局書道部に入部するという変化球を披露して深雪を驚かせた。その理由がある映画の予告編を見たからだというのがいかにも麻夕らしかった。そんな動機で入部したのに、麻夕はいきなり夏の書道展で佳作入選するという結果を出した。その器用さも実に彼女らしいと深雪は思った。


「技術は大事。でもハートはもっと大事。」


 いつになくまじめな顔で麻夕が言う。


「ハート?」


 麻夕は深く頷く。


「そこに何を表現しようとするのかっていうさ、意気込みみたいなもんだろうね。」


「意気込み。」


 深雪はただただ麻夕の言葉を繰り返した。


「わたし書道部に入って初めて書道ってものをやったんだけどさ。小学校でやってた習字っていうのは、あれは書道じゃないんだね。習字は単に習字。書道ってのはその先にあるものなんだよ。表現なの。書道って本当に深くてさ。文字ってそれ自体が意味を持ってるでしょ。だから字面から伝わるイメージがあるんだよね。でも書として表現するものは字面と同じものじゃなくていいのよ。」


 深雪は黙って聞いていた。麻夕は深雪の顔を見ながら続ける。


「例えばね。“落日”とかいう字を書いてさ、明日の朝よみがえってくる力みたいなものを表現することもできるわけよ。もちろん同じ“落日”で終わりゆくはかなさみたいなものを表現することもできる。何を書くか、どう書くか。それが組み合わさって書の表現になるの。そこがすごく面白いよ。」


「麻夕はすごいね、やっぱり。」


 麻夕はいつもこの調子だった。なにも知らない状態からほとんど冷やかしみたいな動機で新しいことを始め、すぐにその魅力の核みたいなものを感じ取る。そしてあっという間に上達してしまうのだ。


「ありがと。麻夕のおかげでなんか見えた気がする。」


 深雪が微笑むと、麻夕は親指を立てて「頑張れ。」と言った。



 50ミリマクロレンズ一本での撮影はとにかく不便だった。こんな感じにしよう、と思って液晶を見ると、期待と全く違う絵が見える。そこから被写体に寄ったり離れたり、思い描いた構図になるまでうろうろ動き回る必要があった。撮ろうと思ってからシャッターを切るまで、とにかく時間がかかった。


 夕方、深雪が部室で撮影したデータを整理していると小松沢がやってきた。


「どうだ、調子は。」


 小松沢は決まってこの言葉から会話を始めるようだ。何の調子のことを聞いているのかとはじめのうちは頭をひねったけれど、特に意味のない単なる挨拶なのだろう。


「だいぶ慣れてはきたと思います。」と深雪は返答になっているのかどうかよくわからないと自分でも思いながら答える。


 深雪が席を立って椅子を勧めると小松沢はパソコンの前の椅子に腰を下ろしてマウスを手に取った。


「そのレンズ一本での撮影はどうだい?」


 小松沢はそう言いながらビューワを操作して写真を閲覧し始める。


「不便ですね。」深雪は正直に答えた。「何を撮ろうにも簡単にはいかない感じです。」


 小松沢は深く頷いた。


「それ、最初は思わなかっただろう? 不便だって思い始めたのは最近だろう? まずはそれが第一段階。単焦点レンズが不便だって感じるのは、撮りたい絵に近づけるのが難しいからだ。それはつまり、椋沢には撮りたい絵ってものができたってことだ。」


 深雪ははっとした。朝妻にヒントをもらって以来、深雪はそれを実践していた。写真が撮れることを期待してシャッターを切るのではなく、写真を撮るためにシャッターを切る。知らず知らずのうちにどんな絵にしたいかを考えてから液晶を見るようになっていた。確かにそれを意識するまで、単焦点レンズを特に不便だと感じたことはなかった。


 深雪が受け取った言葉を噛みしめている間も、小松沢は次々に写真を表示して確認していった。画面には花の蜜を集めているクマンバチの写真が表示されている。最近撮ったものの中では最も気に入っている写真だ。


「お、なかなかいいね。」


 小松沢は画面沿見ながら言う。少し間を置いてから深雪を振り返り、「もう少し被写界深度を浅くするともっといいんじゃないか。」と続けた。


 深雪は黙って小松沢の顔から画面に視線を移す。


「被写界深度ってわかるか。」


 深雪の横顔に小松沢が問いかける。


「ピントの合う範囲ですよね。」


「そう。レンズの絞りを開くと被写界深度は浅くなる。つまりピントの合う範囲が狭くなって、それ以外の部分はボケる。逆に絞りを絞っていくと被写界深度は深くなって、画面の広い範囲でピントが合っている状態になるわけだ。」


「はい。」


 深雪はそのことを部室に置いてあった写真雑誌の別冊ムックみたいな本で読んで知っていた。写真の基礎を解説した他のいくつかの本にも書いてあったので本当に基本なのだろうと思っていたけれど、それを自分の表現として使えるほどは身についていない。


「絞りだけじゃなく、焦点距離と被写体までの距離なんかも被写界深度に影響を及ぼすんだよ。たとえば望遠レンズで被写体に近づいて撮影すると、被写界深度の浅い絵が撮れる。」


「そうなんですか。」


「この蜂の写真は陽の当たる明るいところで撮影しているだろう。カメラはオートになっていたのかな。多分けっこう絞りが絞られた状態だから奥の方の花まで全体的にピントが合っているよね。こういうときはカメラを絞り優先モードにして、絞りを開き気味にして撮ると良いよ。」


「絞りを開くと明るくなりすぎて白く飛んじゃったりしませんか。」


「そうならないようにカメラが調整してくれる。絞り優先モードにしておくとセットした絞りを基準に、シャッタースピードの方をカメラが調整して露出を合わせてくれるわけだ。だからこの場合、絞りを開けすぎるとシャッタースピードがかなり速くなって、蜂の羽がもう少しはっきり見えてくるかもしれない。絞りとシャッタースピードはどちらも露出に影響を与えるから、片方を動かしたらもう片方もそれに合わせて調整しないと露出を維持できない。どっちを優先するかはケースバイケース。欲しい絵によって使い分けるということ。」


 さすがに本職の教師なだけあって、小松沢の説明はほとんど授業のようだ。


「絞りを優先するようなものとシャッタースピードを優先するようなもの、いろいろ撮ってみるといい。レンズはまだまだ50ミリマクロ一本だけ。」


 小松沢の口調はアドバイスというよりも課題の説明のようだった。朝妻は小松沢のことを教師というよりも研究者と評していたけれど、深雪はむしろ生来の教師だと感じた。指導するということが身体の一部のようになっている。


「ありがとうございます。さっそくやってみます。」


 小松沢の言うことはぜんぶ実践してみようと決めていた深雪は即答した。


 改めて自分が撮りためた写真を眺めてみる。


 接写した花、沿道にある木工細工の看板、地下水をくみ上げるためのポンプ、道の駅の駐輪スペースで主を待つ自転車、ラーメン屋の前に待たされていた犬、人気のない神社の参道、ソフトクリームに挑む麻夕の笑顔。


 50ミリマクロレンズ一本で、その都度被写体との距離を全身で調節しながら奮闘したことが思い出される。被写界深度のことを指摘されてみると、なるほど深雪の写真は全体的にピントが合っていてメリハリの少ない絵が多かった。深雪はこれまでに撮った写真を見て、同じ場所へもう一度行き、似たような構図を、今度は絞りを意識するようにして撮り直してみようと思った。

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