始点
二月の下旬に学年末考査が終わると、その結果に一喜一憂する間もなく卒業式がやってくる。三年生を送り出すとすぐに入試があり、新たな一年生がやってくる。三学期は大きなイベントが多いのにそれに比して日数が少ない。慌ただしく過ごしているうちにいつの間にか学年が変わる。
深雪は実咲が受けるはずの入学試験のことが気になっていた。試験は通常の筆記試験があり、その翌日に面接が行われる。合否は翌週に決まる。三月上旬に行われるこの入学試験のころには、在校生はもう春休みに入っている。試験の日も面接の日も、深雪は自分が受験したとき以上にそわそわしていた。実咲を応援しに学校の前まで行こうかとさえ思ったけれど、余計なお世話どころか逆効果になりそうだったので思いとどまった。
発表があったら実咲は連絡をくれるだろうか、と考えて、実咲に連絡先を教えていないような気がした。風音といい実咲といい、連絡先の交換から始まるのとは違う形で友達になった。少し前まで連絡先を交換せずに友達になる方法など思いもよらなかったのに、今はそうやってできた友達とばかり一緒にいる。
結局、合否発表の日、深雪はじっとしていられず、お昼ごろ涼月へ出向いた。実咲に会える可能性があるとしたら涼月ぐらいしかないし、会えないにしても涼月にいた方が落ち着くような気がしたからだ。
「ああ、今日なのかい?」
時計を気にしながらコーヒーを飲む深雪を見て澤木が聞いた。
「え? なにがですか?」と深雪は聞き返す。
「ほら合格発表、高校の。」
「ああ、そうです。わたし、様子おかしいですか?」
深雪が聞くと澤木は笑って答える。
「うん。娘の合格発表を待つお母さんみたいな顔してる。」
澤木にそう言われて深雪は笑った。
「去年の合格発表の日はね、」と澤木が話始める。「風音ちゃんが知らせに来たんだよ。もうあれから一年も経つんだね。」
「そうだったんですか。そういえば風音はケンさんと話して高校に行くことにしたって言ってました。」
「ああ、聞いてるんだね。あの子は自分で理由を理解しないと行動できないんだよね。逆に義務だ、規則だ、って言われたら、今度はそれを覆す理由がない限りは従う。だから中学に行くのに理由は必要なかった。義務教育だから行くっていう理由で十分だったんだ。でも高校は義務教育じゃない。そうなると自分の中に理由が必要になる。面白いよね。ぼくはこれまでにずいぶん多くの人と知り合ってきたけど、風音ちゃんのようなのは珍しい。とても面白いと感じる。」
澤木はそう言ってコーヒーを一口飲んだ。
「だからほら、あの子はめったなことで校則に違反しないでしょう。自分の中に根拠が見いだせなければやらないんだ。」
「根拠。」深雪は聞きなれないその言葉を、意味を噛みしめるように繰り返した。
「たぶん校則に違反する根拠を見つけたら、あの子は違反するんじゃなくて直談判しに行くだろうね。きっと校則を変えることを提案しに行く。」
「わかります。風音はそういうことやりそう。」
深雪はそういう風音の姿を容易に想像できた。
「そこがさ、おじさんとしてはね、そんな風だと友達できないよ、って言ってあげたくもなるわけだ。だけどもちろんあの子は自分の信念を曲げないとできない友達ならいらないって言うだろう。」
「言いそう。」深雪は笑った。
「合格を知らせに来た風音ちゃんは嬉しそうだったよ。でも実際のところ、あの子は高校に何も期待してなかった。本当にただ社会に出ることを先送りしただけだった。だから学校どう? って聞いてもね。どうってこともないですよ、としか返ってこなかったんだよね。部活もやらないって言ってたし、友達も別に欲しくないってね。」
深雪は思い当たることがありすぎていちいち頷いた。
「その風音ちゃんが写真部に入って写真甲子園に挑戦するって言うんだからなあ。」澤木はしみじみそう言った。
深雪は微笑んでコーヒーを飲んだ。
風鈴がちいんと響き、扉が開く。入ってきたのは実咲だった。
「こんにちは。」実咲の肌触りの良い声が通る。
「いらっしゃい。」と言いながら澤木はコーヒー豆を挽き始める。
「おはよ。」と深雪が言うと、実咲も「おはよ。」と返した。
「受かったよ、北町高。」実咲は曇った眼鏡をはずしながら深雪に微笑みかけた。
「おお、やった。おめでとう。」深雪はそう言うと急に力が抜け、大きくため息をついた。「はあ、ほっとしたあ。」
その深雪の様子を見て実咲は笑った。カウンターの向こうで澤木も笑っていた。
「自分が受験したときよりもはるかに緊張した。」
深雪はそう言って実咲の顔を見た。眼鏡をはずした実咲の顔にしばし見とれた。
「これ、伊達なんだ。」
深雪の視線に気づいて実咲が言う。
「だて?」
深雪は一瞬何を言われたのかわからなかった。
「眼鏡、度が入ってないの。」
実咲はそう言って眼鏡を手に持ったまま深雪に微笑みかけた。
「へえ。」
深雪はその顔をまじまじと見つめた。
「きっとさ、そういう大きな目立つ眼鏡を伊達でかけてるってことはさ、こういうことを言われたくないんだと思うけど、」
深雪は長め言い訳を先に置いてから言った。
「すごい美人だね。」
実咲は声を出して笑った。
「そんなことを言われたのは初めてだよ。」
実咲はそう言ってまだ笑っていた。
「わたしが眼鏡かけてないと不安なのは、たぶん服を着てないと恥ずかしいっていうのと似てると思うよ。」
「え? てことは今わたしに裸を見せてる感じなの。」
実咲はまた笑った。
「さすがにちょっと違うね、前言取り消し。」
深雪も笑った。実咲が笑っているのを見るとなんだか胸の奥が温かくなる。
「ところでさ、風音には伝えたの? 合格したこと。」
「ううん、まだ。ここに来たらいるかなと思ったんだけどいなかったね。」
「ね、実咲も携帯持ってないの?」深雪が尋ねる。
「持ってるよ。」
「あ、持ってるんだ。ね、連絡先交換しない?」
深雪がそう言うと、実咲は少し驚いたような顔をしたものの「いいよ。」と言って小さなポーチを探る。
「あれ、忘れてきたかな。」
ひとしきり探して実咲は顔を上げた。
「ごめん、持ってくるの忘れたみたい。携帯持ってはいるんだけどね、携帯する習慣がなくて。」
それを聞いて深雪は笑った。実咲や風音といるとこれまでの自分の感覚の方がずれているような気がしてくる。
「あ、でもさ、深雪わたしのフォレストアカウント知ってるよね。メッセージくれたらカンバス教えるよ。」
「ああ、そうだった。わたしフォレストはアカウント持ってるんだけど見る専門でさ。ほとんどなんもアップしてないんだよね。」
深雪はなんとなく言い訳した。
「そうなんだ、なんかすごい積極的にやってるのかと思ってた。」
「実はぜんぜんなんだ。あとでフォローしてメッセージ送るね。」
深雪は少し照れながら言った。
微笑む実咲の前にコーヒーが出された。「おまたせ。」と澤木が言う。深雪のカップには冷めたコーヒーがわずかに残っていたけれど、澤木はそれを下げて新しいものを置いた。
「いただきます。」とささやいて実咲はコーヒーを飲む。一口飲んで余韻を楽しむように目を閉じた。
目を開くと実咲はポーチから小さめの封筒を取り出して深雪に差し出した。
「これ、見てほしいんだ。」
深雪は封筒を受け取り、中身を取り出した。それはL版にプリントされた写真だった。三十枚ぐらいあるだろうか。深雪はさっと目を通して問いかけるように実咲を見た。
「あれから撮りためたやつの抜粋。毎日二十四枚を撮るでしょう、同じレンズで。そうすると二十四枚違うモチーフを撮るだけでもけっこう大変だってことに気づいたの。なんか写甲を目指す人ってさ。一日に何百枚も撮ってるとか言うじゃない? それから比べるとわたしたちの一日二十四枚以下っていう宣言は少なすぎると思ったんだよね、最初は。だけどわたしたちの二十四枚って二十四作品っていう意味でしょう。そう考えるとむしろ多いんだよね。何を撮ればいいんだろう、どう撮ればいいんだろう、って考えてると一日五枚ぐらいしか撮れない。」
深雪は実咲の言葉を聞きながら受け取った写真を見ていた。林檎や蜜柑といった果実からスプーンやフォークなどのカトラリ、お皿やカップなどの食器、文房具、工具、犬や鳥など、被写体は様々だった。ただ、どの作品も構図に共通点があった。どれも被写体を画面の真中に配置していて、その周りにスペースがある。実咲は中望遠という微妙な距離感をうまく活用しているようだった。
どの作品もすべて、メインの被写体以外はごくシンプルな背景になっていた。見れば見るほど、画面中央にレイアウトされた被写体は絶妙な大きさでフレーミングされていると感じた。いわゆる日の丸構図。写真のハウツー本みたいなものではともすると良くないとされがちな構図。でも実咲の写真には力があった。
寄りすぎも離れすぎもせず、被写体そのものを見せるのでも、それがある世界を見せるのでもない。その被写体と世界のかかわり、距離感が写っていた。世界に飲み込まれたくない、かといって世界から除外されたくもない、適度な距離感で関わっていたいという実咲自身の思いが重なって見えた。
「すごい。」
手元の写真を見つめながら深雪は言った。
「テーマがわからなかったからね。とにかく思いつくままに撮ってみたんだ。どんなテーマでやるか決まったの?」実咲が聞く。
「ううん、まだ風音ともそういう話はしてないんだ。風音とわたしも今は毎日撮りためてる感じ。四月になったら三人で集まってさ。まずテーマになりそうなものを見つける感じかな。それに沿ってあとは三人で撮って組写真に仕上げる。」
「そっか。ね、うまくまとまるかな。わたしまだ深雪の写真がどういうのか知らないけどさ、わたしと風音だけでもすでにぜんぜん違うと思うんだよね。同じテーマで撮ってもたぶんぜんぜん違うものになると思う。大丈夫なのかなそれで。」
実咲が不安げに尋ねる。
「大丈夫。大丈夫っていうのは、わたしたちとしてはそれで大丈夫ってこと。それで初戦に通るかは正直わからない。でもね、わたしは同じテーマをわたしたち三人がそれぞれの目で撮ってさ。それを組写真として作品にするっていうのをやりたい。それが初戦に通らなければ残念だけどそれはそれ。わたしは初戦に通るための作品じゃなくて、わたしたちがやりきったと思えるものを作りたい。」
深雪はそう言いながら、自分の放った言葉がどこか離れたところから聞こえてくるような気がした。自分の中にそういう強い気持ちがあったことを初めて知った。本戦に出ることは目標だけれど、そのために自分たちを曲げることはしたくない。もちろんそんな小細工が通用する大会でもない。まっすぐ全力で挑む以外に道はない。
「風音が言ってたんだけどね。三人で八枚の組写真だから一本の組写真として一貫していないといけないけど、一人で撮ったみたいに統一されていたら三人でやる意味がないって。だから一つのテーマを三人が三人のやり方で撮れば、きっとそれぞれの個性が発揮されていいものになると思う。」
深雪はそう言いながら、風音の力に背中を押されるのを感じた。この場にいなくても確かな力で風音は深雪を導いていた。
「そうだね。」実咲が微笑む。「わたしはわたし。深雪は深雪。風音は風音。みんな違う目で、同じ単焦点から世界を見てる。」
実咲は正面の何もない空間に向けてそうつぶやいた。
「実咲のこの写真はすごいと思った。特別なものを撮ってるわけでもないし、構図もシンプル。それなのに実咲の目に世界がどう見えてるのかよくわかる。誰にでも撮れそうな写真だけどきっと誰にも撮れない。」深雪は心から称賛した。
「でもそれ実は少し問題もあってさ。」実咲が深雪の方を向いて言った。「写甲の応募って六切かA4サイズって規定があるんだよね。その辺の写真はたぶんL版だからよく見えるんだと思うんだ。それをA4に印刷したら画面が持たない気がする。」
写真の大きさ。そういえば写真の大きさというものに深雪の意識を向けさせたのは風音の作品だった。実咲も写真の大きさのことを気にしている。深雪はまだ自分は写真への意識が甘いと思い知った。
「大きさ、そうだね。応募サイズに規定があるからやっぱりその大きさが意味を持つような写真にしなきゃいけないわけか。」深雪は半ば独り言のように言う。
「いけないってことはないだろうけど、きっと風音ならサイズに規定があるならそれを活かさない手はないって言うと思う。」そう言った実咲と深雪は目を合わせた。実咲も風音に大きな信頼を置いている。それが伝わってくる。
「A4と六切はね、」と澤木が口を開く。深雪と実咲はほとんど同時に澤木を見上げた。
「近いようで結構違う。六切よりA4の方が少し大きいんだけど、縦横比が違う。でも印刷で余白を持たせるなら写真の縦横比は紙の縦横比とは異なってもかまわないということになる。ただ余白のでき方は違う。そのカウンターの上にあるいくつかの写真を見るとわかると思うけど、どんな大きさの紙にどのぐらいの余白を、写真から見てどっち側に持たせるかで印象はだいぶ変わる。」
そう言われて深雪と実咲はそれぞれカウンターの上にある写真を手に取る。深雪が手に取った写真は2L版を横向きに使い、真ん中より右寄りに正方形の写真がプリントされている。写真は阿形の狛犬を煽りの構図で撮ったもので、口を開いた狛犬の向かう先に余白を持たせてプリントされていた。たしかにこれで狛犬の背中側に余白があったら、それは全く違う印象になるだろう。実咲の手元を覗き込むと、実咲が持っているものはやはり2L版ぐらいの大きさでこちらは縦方向に使われている。枝がハート形になっている木が雪原にぽつんと一本だけ立っている。その正方形の写真が真ん中より上にプリントされていた。木の下の地面からその下の余白につながっているようだった。実咲も深雪の視線に気づき、深雪の手にしている写真を覗き込む。少しの間写真を眺めてから二人は顔を合わせ、ほとんど同時に「なるほど。」と言った。
「風音ちゃんはね。そういう絶妙なプリントワークは長方形の印画紙に正方形の写真をプリントするからできることだって言ってた。だから正方形の写真が好きなんだって。長方形の中で自由だから。」と澤木が言う。
「長方形の中で自由。」
深雪は受け取った言葉を繰り返し、手元の写真にもう一度目をやる。
「まだまだ他にもいろんなことをしてるよ、あの子は。」
澤木はそう言いながら他の写真を取り出してカウンターに出した。それは2L版よりも大きく、正方形よりもわずかに縦が長いぐらいの形をしていた。そこにやはり正方形の写真がプリントされている。椅子に座って足を組み、ギターを抱えた人物が写っている。鼻の下でフレームが切られていて顔は口以外は見えない。口の周りには無精ひげがある。写真は周囲が暗くなっていて、ギターの部分がぼんやりと浮かび上がるようになっていた。
深雪は嗅いだことのない匂いを感じた。その写真が視界を覆うような、自分が写真の内側に入っていくような感覚があった。男性的なワイルドさや危険な香り。深雪には想像できない世界から来た写真だった。
「これは六切の印画紙を切ってサイズを変えてある。さらに、写真の縁が面白い。」
澤木の言葉を受けて深雪たちは写真の縁を見る。その写真の縁は直線ではなく、歪んでいた。ところどころ筆で色を塗ったみたいにかすれたりもしていた。
「よく見ると紙に対して写真が少し傾いてる。」と澤木が説明を加える。
「これも風音が撮った写真なんですか?」
「そう。ちなみに写ってるのはぼく。」
「え?」深雪と実咲は改めて写真に見入った。そういえば澤木はこの町へ来る前は東京でバンドをやっていたというようなことを話していた。
「それ風音ちゃんが中学生の時の写真だよ。恐ろしいだろう? 彼女はほとんど無意識に、ロックのけだるさみたいなものを感じ取ったんだと思う。そこに写ってる男は本当のぼくよりもずっとロックでかっこいい。写真はありのままを写すとかいうけどそうじゃない。写真にはカメラマンが見せたいと思ったものが写るんだよ。同じものを撮っても撮った人によってぜんぜん違うものが写るんだ。」
深雪も実咲も写真に吸い込まれたままで澤木の話を聞いていた。
「その写真、最初にもらった時はそんなに周りが暗くなってはいなかったし、縁もまっすぐだった。もう少し普通の感じだったんだ。それがしばらく経ってからあの写真返してくれって言われてさ。ぼくは気に入ってたから返したくなかったんだけど、本人が返せって言うから仕方なく返したんだよね。そしたら代わりにそれをくれた。あの写真はこうやって見せないとだめだったって。それは引き延ばし機で印画紙に焼き付けるときにいろいろな細工をしてあるんだ。位置合わせをする部品を使わずにあえて軸をずらしたり、縁を整えるイーゼルを使わずに段ボールで作った枠を使ったりしてる。段ボールははさみでばりばり切って歪みを出してる。さらに出来上がったフレームを机にたたきつけたり、手で破いたりしてでこぼこにしたみたい。周囲は焼き込んであるんだ。真ん中の部分だけ覆い隠して追加で露光することで覆った部分以外が暗くなっていく。暗室テクニックの一つだよ。」
澤木はそう言ってコーヒーに口をつけ、深雪と実咲の反応を窺っていた。
「はああ。圧倒的だなあもう。」
深雪がようやく口を開いた。
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