合流

「深雪。」


 授業が終わって廊下へ出てきた深雪を風音が待ち構えていた。風音は制服を校則の通りに着ていた。北町高校は制服に関する規定はいろいろとあるものの、それほど厳しく取り締まってはいない。だから実は、深雪もスカートの上部を折り返して裾を上げている。ほとんどの女子が同じようなことをして膝上丈になっていた。一方で風音は正しく脛までの丈で着こなしていた。風音のその模範的なスタイルと特徴的なサイドテールは、学校の廊下にあってひときわ目立っていた。


 風音が深雪の教室の前で待っていたのは深雪にとっても意外なことで、どぎまぎしてしまって返す言葉を選び損ねた。


「あ、あ、どうも。」


 風音は大笑いして「なんだよそれ。」と言った。近くにいた生徒たちが風音の笑い声に驚いて振り返る。


 深雪は授業の後、写真同好会の部室という名の倉庫へ直行するのが日課だった。もちろん今もそのつもりだったけれど、風音が声をかけてきたので足を止めた。


「あれ? 行かないの? 部室。」立ち止まった深雪を風音が促す。


「え? いや、行くけど。何かわたしに用事があるんじゃないの?」


「わたしも連れてってもらおうと思って、写真部。」


「え? 本気? 入るの?」深雪は驚いて聞いた。


「うん。だってそのほうがいいでしょ、写甲目指すのに。」


 風音は当然のことのように言う。


 これは本当にあの風音だろうか。部活どころか友達さえも作ろうとしない印象だった氷月風音。その風音が写真同好会に入ると言っている。深雪は真意を確かめるように風音の顔を覗き込んだ。普段単焦点から世界を見ている風音の澄んだ目が、今は深雪の顔だけを映していた。深雪は思わず頬を赤らめて半歩離れた。


「じゃ、行こうか。部室って言っても汚い倉庫みたいなところだけど。」


 少し早口で言って深雪は部室へ向かって歩き始めた。


 部室の扉を開けて中へ入ると、それまでぴったりついてきていた風音が離れた。深雪が振り返ってみると、風音はきょろきょろと物珍しそうにガラクタを見回している。


「ゴミだらけでしょ。」


「すごいね。いつからここにあるんだろうと思うようなものがたくさんあるね。」


 風音は一つ一つ確認するみたいにガラクタの山を眺めている。


 深雪が通路を作っている衝立パーテーションを回り込むと、珍しく小松沢が先に来ていた。朝妻はまだ来ていないようだ。


「あ、先生。こんにちは。」


 深雪は挨拶して、風音のことをどうやって切り出したものか考えた。考えがまとまらないうちに風音が衝立を回り込んできた。


「先生。」と風音が呼びかける。「一年B組の氷月風音です。写真部に入部させてください。」


「椋沢に誘われたのか?」


 小松沢が聞きながらちらりと深雪の顔を見る。


「はい。写甲を一緒に目指すことにしたので入部したいと思いました。」


 深雪の戸惑いをよそに風音ははきはきと答えた。


「ほんとに?」と小松沢は驚いた顔で二人の顔を見比べた。


「今写真部は人数が減りすぎたから同好会としてやってるんだ。」風音へ視線を戻した小松沢が説明を続ける。「椋沢のほかに二年生の朝妻ってのがいる。朝妻が一応部長っていう扱いだけど如何せん人数が少ないからな。あまり組織立ってるわけじゃない。気楽にやってくれていい。」


「はい。」


 

「備品の使い方だとかそういったあれこれは、」と言いながら小松沢は深雪の方を向く。「椋沢に任せて良さそうだな。」


「はい。大丈夫です。」


 深雪はやっと追い付いて答えた。


 風音が写真同好会に途中入部するという話で、紹介するはずの深雪が緊張してもたついているうちに当の風音自身が落ち着き払って淡々と話を進めている。風音はこういうときに緊張したりしないのだろうか。


 深雪が普段のペースを取り戻せずにいる間に風音は自分の荷物を空いている椅子に置き、備品ロッカーの中を物色していた。手慣れた様子でカメラを選び、レンズとバッテリーも取り出す。深雪が手を貸すまでもなく組み上げ、カメラの設定を始めた。


 その様子を見て小松沢が「氷月はデジタルもやるのか?」と声をかけた。


 風音は顔を上げ、「いえ、普段はアナログばかりです。」と言ってから手にしているカメラに気づき、「あ、カメラはデジタルも触ったことあります。うちにもあるので。」と付け加えた。


「先生は氷月さんが写真やるのはご存知だったんですか?」


「ああ。この町で写真をやってる人の話は聞こえてくるよ。ぼくは一応北町高写真部の顧問だからね。町の写真愛好家の間じゃ、氷月はちょっと知られた存在だよ。」


「そうだったんですか。」


 深雪は自分だけが置き去りにされているような気分になった。


「しかし氷月が写甲に出るとはね。椋沢はすごいな。どうやって説得したんだ?」


「いえ、友達になっただけです。」


「なるほど。それはいい。これはほんとに写甲目指せるかもしれないな。いいチームになりそうだ。」


 小松沢は何度か深く頷いた。


 風音はカメラの設定を終え、構えてファインダーを覗きながらレンズを操作したりしている。


「ね、今何をしたの? カメラ。」と深雪が聞く。


「設定をね、液晶をオフにして、フォーカスと露出をマニュアルにしたの。」


「どうして?」


「そういうのに慣れてるから。」


 深雪は手にしていたカメラを差し出し、「わたしのもそういう風にして。」と頼んだ。

 風音はカメラを受け取って設定し、深雪に返す。


「露出がマニュアルになったから、絞りとシャッタースピードを両方とも自分で設定しないといけないわよ。今までは絞り優先で撮ってたみたいだけど今度はシャッターが自動設定されないからね。」


「うん。できる気はぜんぜんしないけどやってみるよ。」


 深雪のその答えを聞いて風音は笑った。


 同じ型のカメラに同じレンズ。設定まで同じ。深雪と風音はほとんど同じ条件のカメラを手に、部室を出た。深雪は当然二人で撮影をしに行くものだと思っていたのにそうではなかった。二人で並んで昇降口まで降りたのに、外に出ると風音は「じゃ、またあとで。」と言って深雪に背を向けた。


「あれ? 一緒に撮らないの?」深雪が聞く。


「え? だってそれぞれの個性が発揮された写真を組写真にするんでしょ?」風音は振り向いてそう言った。「あとで撮ってきたものを見せあお。」


「そだね。」


 深雪はそう言うしかなかった。風音と肩を並べて写真を撮りに行けるものだと思っていた深雪はぽっかりとした寂しさを感じた。そんな深雪をよそに、風音は「あとでね。」と晴れやかに言い残して行ってしまった。


 風音はいつのまにか深雪の中の大きな部分を占めていた。深雪自身がそのことに驚き、戸惑いを覚えていた。ついこの間まで風音は友達でもなく、ほとんど知らない存在だった。それが今では風音なしでどうやって過ごしていたのか思い出せないほどだ。深雪はいままで、こんな風に誰かのことを気にしたことはなかった。


 深雪は自分の中に渦巻く不思議な感情を抑え、今は撮影に出かけなければ、と言い聞かせた。ただでさえ深雪と風音の間には差がありすぎる。深雪はまず、組写真として風音の作品と並べられるようなものを撮れるようになる必要がある。こうしている間にも風音はあの目で単焦点から世界を見ているはずだ。深雪も歩き出したけれど、気が散りすぎてとても写真を撮れるような状態ではなかった。風音と約束したんだ、写真を持ち寄って見せあう、風音に堂々と見せられるような写真を撮らなきゃ、わかっているはずなのに動けなかった。風音の隣にいたい、肩を並べてファインダーを覗きたい、同じ景色を見てシャッターを切りたい、それがかなわなかったこと以上に、風音があっさりと深雪を置いて一人で行ってしまったことが苦しかった。


 この気持ちはなんという名前だろう。


 深雪にはわからなかった。

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