涼月

 秋は緩やかに深まり、冬の気配が静かに、それでいて確かに、近づいてくる。


「あ、雪虫。」


 土地の人が雪虫と呼ぶ、お尻にふわりと白い毛をまとった小さな羽虫がある日突然舞い始める。冬の到来を告げる虫。この虫の登場は不思議なほど突然で、その姿を見かけるとまもなく雪がやってくる。

 ベンチの端にとまった小さな姿を絞り開放のマクロレンズで接写する。液晶で確認すると、雪虫の姿が気持ちよく冴え、背景は美しくボケている。深雪は着実に前進していることを噛みしめ、わずかに微笑んだ。


 雪虫を追いかけて歩くうちに、あまり見慣れないところへ迷い込んでいた。メインストリートから離れ、住宅街からも少し外れたところだ。そろそろ戻らないと、と思い始めたころ、軒下に看板を提げた建物が目に入った。黒っぽい外壁の平屋が細長く建ち、奥の方でかまぼこ型の倉庫のような建物と繋がっている。隣には同じように細長い二階建ての家屋のような建物があり、奥の倉庫を介して平屋とも繋がっている。平屋の側面の壁には高い位置に細めの窓が切ってあり、そこから灯りが小さく漏れている。看板がかかっているということはお店だろうか。深雪は帰ろうと思っていたことも忘れて、建物の方へ近づいて行った。


 看板はこの町でよく見かける木製のもので、暗い色の板に、それより少し明るい色の木で文字が乗せてある。どちらの色も木材がもともと持っている色で、塗装はされていない。上の方に小さめの文字の横書きで「珈琲」とあり、その下に二回りほど大きな字で「涼月」と、こちらは縦書きで貼り付けてある。ほとんど無意識にカメラを構えて液晶を覗く。そのままうろうろと位置を変え、体をひねってみたり、腰をかがめてみたり、ぴたりとくる構図を探す。看板自体が深雪の背丈よりも高いところに提げてあるのでどうしてもアオリの構図になる。深雪は地面にしゃがみ込み、扉と屋根も入れてフレーミングし、シャッターを切った。


 扉に近づき、開くのをためらう。看板からして珈琲屋であろうことは想像できるけれど、店の前には何も情報がなく、どのぐらいの値段かがわからない。持っているお金で足りるだろうか、とはいえコーヒーなのだからどんなに高くても一杯千円もあれば足りるだろう、そんなことを一巡り考えてから扉に手をかけた。


 重い扉はぎっと短くきしんで開いた。扉の内側につけられていた風鈴がちいんと澄んだ音を響かせる。天井に間隔をおいて提げられている小さな電灯がぽつんぽつんとやわらかい灯りをにじませている。扉のすぐわきには使い込まれた様子の鈍い光沢を放つ大きな機械が置いてある。奥に向かって細長い店の中央に巨大なカウンターテーブルが鎮座している。そのカウンターテーブルの向かって左側に椅子が並んでいて、右側は厨房のようだ。右手の壁は分厚い木材で組まれた棚になっていて、ソーサーの上に伏せられた様々な色形のコーヒーカップのほか、CDやLPレコードなどが並んでいる。棚の上部両端にはスピーカーが置かれていて、左右のスピーカーの中央あたりに時計がかけてある。文字盤に数字がなく、時計の役割を果たすために必要な最低限の要素だけでできているような時計だ。スピーカーからは低くジャズが流れている。深雪にはジャズがどういう音楽なのかわからないし説明もできないのに、そこに流れている音楽がジャズだとわかるのが不思議だった。


 右手の壁は一番奥のところで切れていて、裏側の部屋につながっているようだ。その切れ目のところから店主らしい背の高い男が現れて深雪の方を見た。


「いらっしゃい。」


 店主はよく通る豊かなテノールでそう言うと、「どうぞ。」とカウンターの椅子を勧めた。店主はフードのついたグレーのパーカーに、模型メーカーのロゴマークがついた黒いエプロンをして、濃い色のセルフレームの眼鏡をかけている。促されるままに勧められた椅子へ向かいながら深雪はくるくると周りを見回した。カウンターと反対側の壁には深雪の腰ぐらいの高さの薄い本棚があり、だいぶ年季の入った文庫本が並んでいる。棚の上の壁には大小さまざまなモノクロの写真が飾られていた。シンプルな額に入れられた写真たちはそれぞれ異なる高さにかけてある。広い壁の上を自由に踊っているようなリズムのある配置だった。


 深雪はなんとなくそれぞれの写真を視線で撫でながらカウンターに近づいて行く。勧められた椅子のちょうど真後ろあたりの壁で一枚の写真に惹きつけられて立ち止まった。


 それは他の写真と同じように、シンプルな額装を施された一枚のモノクロ写真だった。カメラを傾けて斜めに切り取られた構図で、細身の少女が腰から鼻の下のあたりまで写っている。少女が着ているのは深雪もつい昨年まで着ていた中学校の制服のようだ。全体が水滴に濡れたようになっていて、写っている少女もずぶ濡れのようだった。全体が濡れているということは濡れた窓の向こうに立っているのだろうか。頬にかかる髪、薄く開いた唇、半袖から覗く白い腕、少女は全身に染み出すような潤いを湛えて光沢を放っている。髪の端、顎の端、袖の端、光る水滴は写りこんだ世界を閉じ込め、宝石のように輝いている。


 深雪は文字通り我を忘れてその写真に見入っていた。その写真の何がそんなに良いのか、どこに惹かれるのか、深雪にはうまく説明できそうにない。胸の奥で動いた感情も、美しいのか、切ないのか、寂しいのか、暖かいのか、苦しいのか、優しいのか、柔らかいのか、わからなかった。


 しばらく立ち尽くして、深雪は自分が写真を見つめていることに気づいた。店主に椅子を勧められたのはもうだいぶ前のような気がした。壁の写真に後ろ髪を惹かれながら足を椅子へ向け、時間をかけて椅子の方へ振り返る。写真につなぎ留められていた目をなんとか引き剥がし、ようやくカウンターの椅子に腰かけた。


 一部始終を見届けた上で店主は「初めてだね。」と声をかけた。


 深雪はわずかに間をおいてから「はい。」と答えた。店主は最初に見たときには三十歳ぐらいかなと感じたけれど、近くで見るともう少し上のようだった。深雪は自分の父親を思い浮かべ、同じぐらいの年齢だろうと想像した。


 何か頼まなければと思って見回すと、カウンターの上にも掌ぐらいの大きさの写真が飾ってある。どれもモノクロで、狛犬からタイヤまで被写体は様々だった。メニューを探す深雪の目はあちこちで写真に捕われ、すぐに目的を見失いそうになる。目に入るのは写真ばかりでメニューらしきものは発見できなかった。


「あの、メニューはありますか?」


 深雪が店主を見上げて問いかけると、「ああ、うちはね、コーヒーしかないんだ。コーヒーでいいかい?」という答えが返ってきた。


 深雪は頷いて見せ、もう一度カウンターの写真たちを見回してから後ろの壁の写真を振り返った。


「あれが気に入ったかい?」と店主はポットで湯をわかしながら聞く。


「はい。なんと言っていいのかわからないんですが、なんだかこう、飲み込まれそうになります。」


 店主を振り返って深雪はそう答え、言い終えると再び壁の写真を見た。


店主マスターが撮ったんですか?」深雪は店主の方へ振り向いて尋ねた。彼には店主マスターという呼称がふさわしいような気がして自然とそう呼びかけていた。


「いや、」店主は手回し式の粉砕機ミルで豆を挽きながら答え、「お客さんの作品だよ。」と続けた。


「へえ、プロの写真家の方ですか?」と尋ねながら深雪はもう一度壁の方を向く。


「いや、プロじゃあない。」店主の答えが深雪の背中に届く。


「きみも写真を撮るんでしょう?」ドリッパに丁寧に湯を注ぎながら、店主は顎でカウンターに置かれたカメラを指した。


「ええ、一応。写甲を目指して頑張ってるんです。」深雪がカメラを撫でながら答えると、店主はわずかに手を止め、深雪の顔を見てから改めて作業を再開した。


「写甲を目指してるのなら本格的じゃない? 一応なんて言わないほうがいい。本気で撮ってるんだ、って言った方がいいよ。」


 店主は真剣な表情でそう言い、言い終えたところで微笑んだ。


「はい。でもまだ一年生で。始めたばかりだから自信もなくて。実は写甲目指すって言ってもまだメンバーも見つかってないんです。だからつい一応って言っちゃうんですよね。」と深雪は照れ笑いでくすぐったさを紛らわせながら答えた。


 本当は写真やってるんだ、と宣言したい。でもそんな自信はない。だからこそ自然に、あくまで自然さを意識して一眼レフカメラをカウンターに置くのだ。写真が置いてあればわかったような顔をして見つめたりもする。日ごろからそんな行動が意識するともなく出てしまっていた。でもこの壁で出会ったあの一枚の前では、そんな気負いも衒いもぜんぶはがされ、ただ心が丸裸のまま吸い込まれてしまったみたいになる。気づくと深雪はまたその写真を振り返っていた。


「よっぽどその写真が気に入ったんだね。」出来上がったコーヒーを深雪の前に出しながら店主が言う。


「はい、とても。」深雪はそう言ってカウンターへ振り向き、コーヒーカップに唇を寄せた。


「ぼくもその写真が好きでね、」と店主は自分の分のコーヒーをカップに注ぎながら話はじめる。「最初に受け取ったときにすぐ気に入ってね、これのもっと大きいのが欲しいと思ったんだ。」


 店主の言葉を聞いて深雪は改めて振り返り、「そうですね。」と同意した。


「でもね、撮った本人にもっと大きいのが欲しいって言ったらね、これはこの大きさだからいいんですよ、って即答されたんだ。」


「はあ、そうなんですか。」


「それ以来、その人から受け取った写真は大きさにも意味があるものとして見るようになった。この店に飾ってある写真はぜんぶその人の作品だけど、どれ一つとして同じ大きさのものはないといってもいいぐらいにまちまちだろう? ぼくはその人に出会って初めて、写真がなぜその大きさなのかっていうことを意識するようになったよ。」


「大きさ。」


 深雪は壁の写真たちを見渡し、カウンターの上にある小さな写真も見回した。確かにどれも大きさが違っていた。斜め下から見上げたアングルで木製の看板を切り取った写真。それは文字通り掌サイズだった。これがもっと大きかったら意図が変わってくるのだろうか。


 深雪はこれまで写真の大きさのことなど気にしたことがなかった。そもそもデジタルカメラで撮影した写真は、画面のサイズや解像度が異なれば違った大きさで見ることになる。フォレストにアップロードしたものだって、表示する端末が違えば大きさは変わってしまう。深雪には写真の大きさを気にするという発想自体が全くなかった。


「写真の大きさのことなんて気にしたことがありませんでした。」深雪は正直に言った。


「ぼくだってその時までたいして深く考えてなかった。でもひとたび写真の大きさに意味があるんだと考えてみるとね、その写真をどのぐらいの距離で見るか、っていうことも大きくかかわってくることに気づいた。例えば君が気に入ったその壁の写真ね、ぼくがここに立って見るにはやっぱり少し小さいと思うんだよ。もう少し大きくてもいいんじゃないかという気がする。でもその壁の前に立って近くで見てみるとね、その大きさがちょうどいいという気もするんだ。」


「どのぐらいの大きさの写真をどのぐらいの距離で見るのか。」


 つぶやきながら深雪は気が遠くなった。被写体のことしか考えていない状態から少し前進して構図のことを考えられるようになり、最近ようやく被写界深度というものを気にするようになった。だいぶ進歩したと思っていたけれど、自分の撮った写真がどのぐらいの大きさで、どのぐらいの距離から見られるのかなどということは全く考えたこともない。そんなことまで考えながら写真を撮っている人がいると思うと、自分のやっていることがひどく幼稚なことのように思えてきた。


「はああ。」体中の空気をぜんぶ吐き出すかのように大きく息を吐きながら深雪はカウンターに突っ伏した。息を吐き終えると起き上がってコーヒーをすすり、「がんばろう、わたしも。」と自分自身に宣言した。店主は微笑んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る