朝妻

 階段をのぼると二階の廊下も大いににぎわっていた。理科室を中心としたこの付近には、下で勧誘をやっていた物理部や化学部をはじめ、物理部に間借りしている数学愛好会、コンピュータ部、ドローン研究会など理系の部活やサークルが集中していた。

 深雪はあたりを見回し、勧誘に参加していない上級生に声をかけた。


「すみません。写真部の部室はどこですか?」


 正しい制服を正しく着ているおとなしそうなその上級生は、きっと普段はあまり目立たないタイプだろう。今日に限ってはごく普通の風貌であるがゆえにひときわ目立っている。


「写真部? ああ、写真部ね。その先の突き当りにあるよ。理科準備室の奥の倉庫。準備室じゃなくて奥の倉庫の方ね。」


 彼は廊下の奥を指さしながら答える。深雪は上級生にお礼を言い、教えてもらった方へ進んで行った。

 突き当りに近づくにつれ、校内の喧騒がどこか遠い世界のことに思えるほど静かになってゆく。人の気配すらなく、突き当りの倉庫は単なる倉庫にしか見えなかった。


「ほんとにここ?」


 扉の前に立って深雪は思わず声に出した。にぎわっている方を振り返ってしばらく眺め、改めて倉庫の扉を見つめる。大きく息を吐いてから軽く握った右手で扉をノックする。コンコンと軽やかに叩いたつもりなのに、薄い金属の扉はガンガンとデリカシーのない音をまき散らした。思いのほか大きくなってしまったノックに自分で驚きながらおそるおそる引き戸を開く。


「こんにちは。」


 深雪は少し背を屈めるようにして、上目遣いで室内を見回しながら中へ入る。中は想像以上に雑然としていた。入口から奥の窓に向かって衝立パーテーションが立ち並び、細い通路のようになっている。衝立は通路を作るために置かれているというよりも、それ自体をここに収納してあるだけ、という様子ででこぼこに並んでいる。窓の手前で衝立の壁は途切れ、裏側へ回り込めるようになっていた。通路には段ボールがうず高く積まれ、ただでさえ細い通路をさらに細くしている。開いたままの段ボールにはビーカーやメスシリンダーなどの実験器具、何かの電源と思しきアダプターの類、パソコン関係っぽいケーブル、電子工作用のブレッドボード、巨大な三角定規、たぶん使用済みの蛍光管、おびただしい電池の山などがお世辞にも整理されているとは言い難い状態で入っている。よく見ると段ボールの下にはブラウン管のモニタ、古い無線機、巨大なスピーカーなども置かれている。深雪にはそびえ立っている衝立も含め、目に映るもののすべてがゴミにしか見えなかった。

 耳を澄ますとカチカチとマウスをクリックする音が聞こえる。衝立の向こうに誰かいるのは間違いないようだ。しかし深雪の挨拶に対して返答はなかった。


「あの。ここ写真部ですか?」


 なんとなく大声を出すのが憚られ、中途半端な音量の声で質問しながら段ボールの間をすり抜ける。少しでも触れると雪崩を起こして生き埋めにされそうだ。細心の注意を払ってそっと歩く。やはり問いかけへの返答はない。衝立の角まで来ると裏側の様子が見えた。段ボールの山は衝立を挟むように置かれていて、裏側もまたゴミの山だった。大小さまざまな基盤類、見たこともないようなコネクタ類、きしめんのようなフィーダケーブル、様々な形の変色したキーボードなどがごった返している。壁際には会議室用の細長いテーブルが置かれ、パソコンが四台設置されている。そこに並んでいるパソコンは動くもののようで、この部屋に入って初めてゴミではないものに見えた。

 その四台のうち一番奥の一台に向かって作業をしている上級生がいた。パソコンのモニタには日よけのようなフードがつけられていて、そのフードの中に潜り込むように背中を丸めているので深雪からは顔が見えない。モニタのフードからはみ出している頭には大きなヘッドフォンを付けていて、髪は深雪よりも長かった。かろうじて制服から男子だということがわかる。

 深雪は大股で近づき、その背中に手を触れながら「あの」と声をかけた。


「ひゃあっ。」


 上級生は深雪が思ったよりもはるかに大げさな驚き方でイスから飛び上がってこちらを向いた。深雪も反動で二歩分ぐらい跳びのいた。はずみでモニタのフードはふっ飛び、ヘッドフォンは眼鏡を道連れにして肩まで落ちていた。マンガのようなその有様に深雪は思わず笑い出した。


「なんだいきみは、いきなりやってきて。」上級生は眼鏡をかけ直しながら咎めるように言った。


「ごめんなさい。わたし一年の椋沢深雪と言います。ここ写真部ですか?」深雪は笑いすぎてにじんだ涙を両の人差し指で拭いながら聞いた。


「写真部? ああ、厳密には違う。今は写真同好会。写真部は部員が減りすぎて部活動から同好会に格下げになったんだ。」


 上級生の言葉は一つの単語を深雪の耳に残して波のように引いてゆく。


「格下げってどういうことですか?」深雪は今にもつかみかかりそうな剣幕で聞き返す。上級生はそんな深雪を見ようともせず、かけ直した眼鏡をもう一度外してどこからか取り出した布で拭いている。


「おととしまでは写真部だったんだ。去年ぼくが入学してきたときは三年生が二人だけだった。最低五人いないと部活動として認められないんだけど入部したのはぼく一人。めでたく同好会に格下げってことになったわけ。今年は三年生だった二人が卒業したから部員はぼく一人だけ。」


 拭き上げたレンズを明るいほうへかざして仕上がりを確認しながら上級生は深雪の質問に答えた。


「そんな危機的な状態なのになんでまるで勧誘もしてないんですか。」深雪はほとんど叱りつけるような口調になる。


「勧誘ったっていまどき写真なんて部活でやるような人いないでしょ。気軽なスマホとかデジカメでサクッと写真撮ってフォレストでシェア。写真は身近なものになりすぎたんだよ。だから勧誘するだけ無駄、無駄。」


「何を言ってるんですか。ここは写真の町なんですよ。」深雪は上級生の達観したような態度に腹が立った。


「だからさ。ある意味その成果なんだよ。ここは写真の町だろう? ぼくらが生まれるよりはるか昔から写真の町だった。ぼくは小学校のときから写真少年団に入ってた。スマホよりも先に一眼レフを触ってたよ。この町の人にとって写真はあまりにも身近すぎるの。わざわざ写真部に入る必要なんかないの。何部に入っていようと写真撮るのだもの。フォレストもあるしね。写真部が廃れるのはむしろ写真が普及したことの結果だよ。」


 上級生は眼鏡をかけながらそう言い、ふっ飛んだモニタのフードを直し始めた。彼の言うフォレストというのはPhorestという綴りで、写真を軸にコミュニケーションをするというネットワークサービスの名前だ。写真フォト休息レストを組み合わせた造語で、著名人の使用者も多く、注目を集めている。深雪の周りでも使っている人が多い。こぞってフォレストで受けの良さそうな写真を撮ることに躍起になっている。そうやって積極的にフォレストで写真を発表する人のことをフォレスターと呼ぶのもだいぶ浸透してきていた。


「はいはいはい、わたしが入部を希望します。」深雪は選手宣誓のように右手を高々と上げ、普段よりもさらに張りのある声で宣言した。


「え? 君今のぼくの話聞いてた? 写真を部活でやる意味なんかないって今言ったっしょ。」


「だけど先輩もやってるわけですよね、写真同好会。わたしが入っても二人だからまだ同好会ですよね。五人集めたら写真部に昇格されるんですか?」


 上級生は目を丸くして深雪の顔を覗き込み、右手の中指で下がってきた眼鏡を押し上げた。


「ぼくは行きがかり上やってるだけで別に部活じゃなくていいし、同好会ですらなくてもいいんだ。きっと入部しても期待外れだと思うよ。」


「かまいません。わたしは写真部に入るってずっと前から決めてたんです。北町高の写真部に入って写甲しゃこうに出る、もちろん本戦に出る、そう決めてたんです。わたしは高校生活のぜんぶをかけて写甲の本戦を目指すんです。」


 深雪はしゃべっている途中から目の前の相手ではなく虚空を見上げ始め、右手で拳を作って握りしめながら宣言した。一方それを聞いていた上級生はだらしなく口を開き、時間が止まってしまったみたいに放心した。


「写甲? ああ、写真甲子園ね。本気なの?」しばしの沈黙ののち、上級生は意識を取り戻したように聞き返す。


「もちろんです。」深雪は胸を張って答えた。


 全国高等学校写真選手権大会。通称写真甲子園。さらに略して写甲。この大会はまず、初戦として組写真を応募し、いわば書類審査を受ける。それに通るとブロック別公開審査会というプレゼン大会のような場に進む。この公開審査会は全国を十一のブロックに分けて行われ、そこから総勢十八校が選抜されて本戦大会に進む。その本戦大会が、甲子園ならぬここ、東川町で行われるのだ。この町に生まれ育った深雪は幼いころからこの写真甲子園の本戦大会を間近に見てきた。全国からやってくる高校生たちは本戦大会の間、町に滞在して写真を撮る。被写体になってほしいと頼まれる町民も少なくない。特に幼い子供は格好の被写体で、深雪も何度となく被写体として大会に色を添えた。深雪はこの大会に集まってくる写真部員たちに憧れていた。高校に行ったら自分も大会に出る。それなのに中学校でスタートを切れなかった深雪。悔やんでも仕方がない。自信なんかまったくないけれど、今すぐ始められることをやるしかない。


「写甲の規定は知ってるの? あれは選手三人と監督が必要で監督はだいたい顧問の先生がやるんだよ、メンバーが集まらない。無理、無理。」上級生はそう言ってモニタの方に向き直り、作業に戻ろうとする。


「わたしと先輩で二人でしょ。あと一人誘ってくればできますよね。写真同好会に顧問の先生はいないんですか?」


 深雪は上級生の面倒くさそうな素振りなどまったく気にかけず、自分のペースで話し続ける。


「一応同好会でも管理責任者として先生はついてるけどね。実質何もしてないよ。部員もぼく一人だし。先生にも放任されてるからね。それから、君が入部してきてもぼくは写甲には出ないよ。」上級生も深雪のペースには乗らず、あくまで淡々と答える。


「は? なに言っちゃってるんですか。地元の北町高の写真部が写甲に挑戦しないとかありえないじゃないですか。」


「君知らないのかい? 写甲はもう二十年以上前からやってるけどさ。地元の高校が、ってのはつまり北町高だけど、本戦に出たことはないんだよ。」


「知ってますよ。」と深雪は思わず大きな声になる。「知ってるからこそですよ。わたしは北町高に入って絶対出場するんだって決めてたんです。ね。やりましょう先輩。わたしを入部させてくださいよ。」


「入部するのは別にいいよ。許可なんか必要ない。」


「ありがとうございます。改めまして椋沢深雪です。深い雪と書いてみゆきです。頑張ります。よろしくお願いします。」


 深雪はこぼれるような笑顔でそう言うと深々と頭を下げた。


「でもぼくは写甲には出ないからね。」上級生はかたくなに強調して作業に戻ろうとする。


「先輩。まだ先輩のお名前をうかがっていません。」深雪は叱るように言う。


「ああ、ごめん。ぼくは二年の朝妻あづま浩成こうせい。よろしく。さっきまでぼくしか部員がいなかったからぼくが一応部長っていうことだと思うけど、ぼくとしてはべつに君が部長でも構わないよ。同好会だと部長って呼ぶのかどうかもよくわからないけど。」


 朝妻は右手でかゆくもない後頭部をかきながら言った。


「わたしは今入部したばかりですよ、入会かもしれないですけど。部長なんてできるわけありません、朝妻さんが部長をやっててください。ところで顧問の先生は来ないんですか?」


 後頭部をかいていた右手を今度は顎にやってさすりながら朝妻は答える。


「来ないね、めったに。一応顧問は数学の小松沢先生。知ってるかな? 用があるときはこっちから職員室へ行くようにしてるよ。」


「小松沢先生…。あの怖い先生ですか?」


 どうして小松沢なんだと深雪はめぐり合わせを呪いたくなった。入学してまだ二週間ほど。各教科の授業が一通り行われた中で一番苦手な先生がその小松沢だった。常に険しい顔をしていて目が合うと睨まれているような印象を受ける。深雪の顔の筋肉は笑顔を保持することをあきらめた。それを見て朝妻は意外な顔をした。


「怖い? 怖いことはない気がするけどな。愛想は悪いというか常に無表情だけどいい先生だよ。こまっちゃんは本当に数学が好きで数学の先生をやってるからね。教育者というよりは研究者の色が濃い感じなのかな。厳しいけど怖い先生ではないよ。」


 深雪は朝妻の口ぶりを聞いていると、自分が知っているのとは違う別の小松沢の話のように聞こえた。小松沢は、少なくとも一年生の間では一週目ですでに一番おっかない先生として揺るがぬ地位を獲得していた。


「椋沢さん、数学好きじゃないでしょ。」深雪が黙っていると朝妻が言った。


「へ? そんなことないですよ。あまり得意じゃありませんが。」


「そう。それなら数学を質問しにいくといい。そうすればこまっちゃんと仲良くなれるよ。」


 深雪にとって小松沢はなるべく避けたい先生だったけれど、写真同好会の顧問だとしたら写真甲子園出場の際には監督をやってもらうことになる。避けるどころかやはり仲良くなっておく必要がある。気は重かったけれど朝妻は小松沢とうまくやっているようだし、深雪は自分にもできると信じることにした。


「この辺のパソコンは、」と朝妻は部室の説明を始める。


「空いてればどれを使ってもいいよ。パソコン四台に対してぼくと椋沢さんの二人しかいないから埋まってるってことはないね。事実上いつでも自由に使えるという話。レタッチソフトとかも入ってるし、ペンタブレットなんかもあるよ。」


 説明を聞きながら深雪は、これがぜんぶ埋まるようになってもまだ部活に昇格されるわけではないのだということをぼんやり思い浮かべていた。


「そっちのロッカーの鍵はこまっちゃんが持ってて、」と朝妻は説明を続けている。


「その中には備品のカメラが入ってる。デジタルの一眼レフが何台かあったはず。たぶん写甲の本戦で使うのと同じぐらいのレベルのものだと思うよ。ぼくは自分のカメラを使ってるから学校のは使ってないけどね。こまっちゃんに言えばカメラは借りられるし、自分のを持ってきてもいい。とにかく部員のほうが不足してるからカメラはいつでも余ってるよ。」


 部屋の中を指さしながら説明する朝妻の視線を追うように部屋の中を確認しながら深雪は逐一頷いた。朝妻の話が途切れ、説明が済んだことを確認してから「わかりました、ありがとうございます。」と言った。朝妻は短く二度頷いて、再びモニタフードの中に頭を突っ込んで作業を再開した。深雪は一歩近づいて朝妻の頭越しにモニタをのぞき込む。


「ところで朝妻さんはどんな写真を撮ってるんですか?」


「え? ああ見る?」


 朝妻は深雪の方を振り返り、少し横へよけて深雪にも画面が見えるようにした。


「これは今撮った写真をレタッチしてたところ。レタッチっていうのは言ってみれば細かい調整みたいなことだね。」


 画面には緑色の髪の毛をして異常なほど短いスカートを身につけ、膝の上まであるニーソックスを履いてポーズを決めている人形フィギュアの写真が映っていた。


「こっちで撮影して、撮影したデータをレタッチして整えるわけ。」


 説明しながら朝妻が指さしたのは静物撮影用のブースで、ライティング用の小型のスタンドライトや背景用の布などが設置されている。その中央に画面に表示されているのと同じ人形が置いてあった。ライトが消灯していたのと、周囲があまりに雑然としていたためにそれが撮影ブースであることに深雪は気づかなかった。


「そういうのを撮ることが多いんですか?」


 深雪は視線を撮影ブースの人形のほうへ向けながら質問した。


「多いというかぼくはほとんど人形しか撮らないね。それに写真は素材として撮影してるから、撮ったものは必ずレタッチして作品に仕上げるしね。写甲はレタッチ禁止だし、そもそも人形なんか撮る大会ではないでしょ。だからぼくは興味ないわけ。」


 朝妻は深雪の方を見もせずに答えた。深雪は目の前が暗くなった気がした。写真甲子園初戦の締め切りは五月中旬。三週間ほどしかない。それまでに三人のチームを作って作品を作って応募する。朝妻に出場の意思を持たせるべく説得し、新たにまだ見ぬ三人目をスカウトし、それから作品の撮影をする。それはどう考えても不可能に思えた。

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