先生

 翌日の放課後、教室を出ようとする深雪に麻夕が声をかけてきた。


「ね、深雪。本当に写真部に入ったの?」


「もちろん入ったよ。写真部じゃなくて同好会になってたけどね。」深雪が答えながら廊下を歩きだすと麻夕も並んでついてくる。


「へえ。他に誰か入ったの? 一年生。」


「入ってない。先輩も一人しかいなくてわたしが入って二人。危機的状況よ。」


「え? 先輩と二人きりなの? 先輩って男でしょ。なんか写真部の男ってオタクっぽくない? そういう先輩に手取り足取り教えられるんしょ。危なくないの?」


 深雪が軽く笑いながら麻夕の方を見ると麻夕はいたって真剣な面持ちだった。どうやら本気で心配しているようだ。


「あのね、偏見ひどすぎ。たしかに先輩はオタクではあるけどね。自分の好きな世界にしか興味のない正統なオタク。手取り足取りどころかむしろ何も教えてくれなさそうでそっちの方が心配。」と言って深雪は笑った。


「麻夕は結局どうしたのさ。」


「まだ決まってない。昨日は吹部を見学したけどね。もう少し他の部も見てみようと思ってるところ。」


「麻夕何やってもそこそこうまくやりそうだからなあ。」深雪が言うと麻夕は「そこそこってなんだよ。」と膨れる。


「いや、褒めてるんだよ。吹部でも弓道部でも他の部だってどれでもそれなりにできそうでしょ。麻夕のそういうとこすごいと思うよ。」


「でもそれなり止まりさわたしは。ほんとはわたしだって何か一つのことを極めたいと思うんだよ。」麻夕は少し真面目な顔になってそう言い、「しかしそんな覚悟はないんだわたしには。移り気なオンナなのさ。」と笑って続けた。


 深雪は自分の中を麻夕の言葉が通り抜けた後に何かが残っているのを感じた。


「あ、わたしここに用があるから。」と言って深雪は職員室の前で立ち止まる。


「なに、深雪なんかやらかしたの?」


「ちがわい。小松沢先生に話があんの。」と言って深雪は顔をしかめて見せる。


「ええ? 小松沢先生ってあの小松沢先生?」


「その小松沢先生はどの小松沢先生なんだよ。わたしが会いに行くのは写真同好会の顧問の小松沢先生だよ。」


「それは数学のあの小松沢先生なんしょ。よりによって? そうなんだ。あの先生写真なんてやるんだ。見えないね。」


 何気なく麻夕から発せられた「よりによって」というのはまさに深雪が思っていることでもあった。それに小松沢が写真をやるようには見えないというのにも賛成だった。どう見てもそういう芸術方面の趣味を持っている感じには見えなかった。休みの日でも数式と向き合ってぶつぶつ独り言を言っているのではないかと思えるほど浮世離れして見える人物なのだ。


「頑張ってね。」と言って麻夕はその場を離れて行き、職員室の扉の前には深雪が一人残った。

 大きくひとつ息をつき、背筋を伸ばして軽やかに、少なくともなるべく軽やかになるように意識はして、深雪は扉をノックした。コンコンというイメージで手首のスナップを利かせて打ったはずなのに、コァンコァンというような、薄い金属の板を叩いているような品のない音がまき散らされた。この学校は扉という扉をもう少し重みのあるものに交換した方が良い、と深雪は思った。


「失礼します。」


 扉を開け、姿勢を正して言った。深雪には失礼しますもおはようございますも挨拶という意味でほとんど差はなかった。めいっぱい元気に堂々と、これから失礼をしますよ、と宣言しているようだった。

 深雪の声に室内のほとんどの顔が注目する。深雪は自分の方を向いた顔をぐるりと見まわし、ひとり、まったく顔を上げずに作業に没頭し続けている背中を見つけた。小松沢だ。


「一年A組の椋沢です。小松沢先生にお話があって来ました。」と一番近くにいた先生に伝える。


「あそこにいるよ、どうぞ。」とその先生が手で示す。深雪は軽く会釈して職員室内に入り、小松沢の背中を目指す。相変わらずこちらを見もせず、何かの作業に没頭している。

 深雪は小松沢のデスクの横に立ち、「先生」と呼びかけた。

 小松沢はその声に顔を上げ、立っている深雪を見上げた。作業の手を止めて椅子の上で座り直し、半分体を開くように深雪の方を向いた。


「椋沢か。なんだい?」


「あの、わたし昨日写真同好会に入ったんです。顧問は小松沢先生だって朝妻さんから聞きました。」


「ああ、朝妻から聞いてるよ。元気な女の子が入部してきたってね。」そう言って小松沢は小さく笑った。「それで、わざわざぼくに挨拶をしにきたのかい?」


「はい。」


 深雪が答えると小松沢は声を出して笑った。


「律儀だね。感心感心。」


 深雪は今初めて小松沢の笑顔を見た気がした。授業では決して見られない表情だった。朝妻が質問をしに行けと言っていた意味がわかる気がした。

 小松沢は机の引き出しから鍵を取り出して立ち上がった。


「行こうか。部室。」小松沢がそう言って先導し、二人で職員室を出た。

 深雪は歩きながら小松沢の顔を見上げた。いつもの無表情に戻っていた。深雪は思っていることを話すことにした。


「先生。わたし北町高に入ったら写真部に入って、写甲に出たいって思ってました。初戦に応募するだけじゃなくて本戦に出たいんです。」


 小松沢は立ち止まってぽかんとした。ちょうど同じ話を朝妻にしたときに彼が見せたのと同じ表情だった。立ち止まった小松沢よりも一歩分前に出た深雪は振り返り、ひときわ力を込めて続けた。


「だからそのために、先生に監督をやってほしいんです。」


 小松沢は受け取った言葉を一文字ずつ処理するみたいにじっくりと間を置いてから口を開く。


「もちろん引き受けるよ。しかしチームのメンバーをどうやって集めるかが課題だな。今の写真同好会には朝妻と椋沢しかいないし、朝妻は写真甲子園に出るようなつもりはまるでないだろう。」


「はい。本人にもそう宣言されちゃいました。」


「あいつはごく限られた方向の写真だけを楽しんでいるからね。でもあいつは間違いなく楽しんでるよ、写真を。彼なりに探求もしてる。」


「はい。本当にそう思いました。」深雪のその答えを聞いて小松沢は頷いた。


「いずれにしても今年は難しいだろう。あれの締め切りは5月なんだ。一年生で参加するのはかなり難しい。今年はじっくり準備して来年の出場を目指すのがいいだろう。」


 深雪のはやる気持ちには今年の出場を見送るという選択肢はなかったのだけれど、小松沢の言うことが正論だということは理解できた。


「そうですね。とっても悔しいですが、今年は難しいっていうのはわかります。」深雪は半ば自分に言い聞かせるように答えた。


「今年はじっくり写真を撮りながらメンバーを探そう。まずは自分の腕を磨くこと。」


 小松沢は授業の時に見せるような厳しい目でそう言ったあと、授業では見せないような笑顔になった。

 深雪は「はい。」と返事をし、「よろしくお願いします。」と続けて深く頭を下げた。


 小松沢と深雪が並んで部室へ入っていくと朝妻が顔を上げた。


「あれ? 先生珍しいですね。」朝妻が冷やかすような口調で言う。


「新入部員だぞ。顧問として教えるのは当然だろう。」


 小松沢は答えながら建付けの悪いロッカーの扉を何度かゆするように引っ張って開いた。中には一眼レフのカメラが五台と、大小さまざまなレンズが収められていた。小松沢はそこからカメラとレンズ、バッテリーを一つずつ取り出して扉を閉めた。閉めるときも扉の上下が引っかかり、掌で上と下をそれぞれ三回ずつ叩いて閉めた。閉めたというよりも叩き込んだ感じだった。

 小松沢は取り出したカメラにバッテリーを装填して電源を入れ、レンズを取り付けた。ボディがレンズを発見し、オートフォーカスの機構がウィウィと精密な駆動音を立てる。ボディとレンズが一つになる。


「はい。これでまず、そうだな、半年ぐらい、写真を撮ってみなさい。」そう言って深雪にカメラを手渡す。「レンズ交換は禁止。そのボディとレンズの組み合わせのまま、とにかくいろんな写真を撮ること。」


 深雪は差し出されたカメラを受け取りながら小松沢の顔を見上げ、小松沢の言葉をじっくりと飲み込んだ。


「半年ですか。」


「そう、半年。本当は一年ぐらいやってもいいんだけど飽きるだろうからまずは半年。」


 深雪は手にしたカメラに視線を落とす。写真部として憧れていたカメラは、なんとなく長いレンズがついているという印象があった。でも今小松沢から受け取ったカメラには、比較的短めのレンズがセットされている。


「50ミリ。」深雪はレンズの胴の部分に書かれている文字を声に出して読み上げた。


「そう。それは50ミリのマクロレンズ。マクロレンズっていうのは接写ができるレンズということだよ。つまり被写体までの距離が近くても撮れる。小さい花なんかを撮るときに便利なんだ。50ミリは一般には標準レンズと言われてるけれど、そのカメラはCCDが小さいから実質80ミリぐらいの感じになる。中望遠といったところかな。その50ミリマクロ一本だけで今から半年、じっくり写真を撮ってみなさい。」


「その練習にはどんな意味があるんですか?」深雪は意図を汲みかねて質問した。


「それはやってみるとわかる。いや、半年ぐらいそれ一本でやってみて、そのあといろいろなレンズを使ってみて、しばらく写真をやってみてから振り返ったときに、きっとこの練習にどういう意味があるのかわかるよ。わからなければ練習が足りない。」


「なるほど、やってみます。」


 実際のところ何一つなるほどではなかったけれど、深雪は小松沢の言葉を信じて取り組んでみようと決意した。写真甲子園出場への道は前途多難と言わざるを得ない状況だった。それでも確かに何かが動き始めたことを深雪は噛みしめていた。

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