出逢

 雪虫に誘われるようにして深雪が初めて涼月すずつきを訪れた日から数日後、東川の町に初雪が降った。最初からいきなり根雪になるほど積もり、前日まで秋だった町はページをめくるようにして冬になった。それに呼応するようにして北町高生の装いも冬らしいものになっていった。冬の装いと言っても女子はコートを着てマフラーを巻いてもスカートの下は生足。男子はマフラーは巻いてもコートは着ない。それは流行でもなければファッションでもなく、単にやせ我慢だった。それでも高校生たちにとっては、美学とでも言うべきやせ我慢なのだ。


 深雪はベージュのダッフルコートを着て、タータンチェックの太いマフラーを顔の下半分まで覆うように巻きつけて首の後ろで結び、寒さをしのいでいた。それでももちろんスカートの下にはストッキングもタイツも履かずに、木綿のハイソックスだけという装いだった。靴はさすがに冬用のものを履いていたけれど、手袋はカメラを操作しやすいように、指先だけ露出しているタイプのものを選んだ。手袋とカメラ以外はこの町の高校生の平均値と言えそうな服装だ。その平均値のことを流行と呼ぶのであれば深雪のスタイルは流行に則ったものと言えた。


 授業が終わると身支度を整えて部室という名の倉庫へ顔を出し、カメラを借りて写真を撮りに出かける。夕方部室へ戻ってその日の成果を部室のパソコンにコピーし、カメラを片付けて帰る。入部以来続いているその日課に、週に一度ぐらいの頻度で涼月に立ち寄るというのが加わった。レンズは相変わらず50ミリマクロ一本。深雪はそんな日々を送っていた。


 いつもにもまして冷え込んだ日、いつものように片づけを終えた深雪は帰りに涼月へ足を運んだ。重い扉を開いて「こんにちは。」と挨拶すると、見慣れた店主が「いらっしゃい。」と声をかけてくれる。と、カウンターに先客がいた。いつも深雪が座る席に、グレーのパーカーを着てサイドテールに髪を結った女の子が座っていた。彼女は店に入ってきた深雪を見ると、顔を隠すように視線を逸らせてコーヒーに集中した。


 深雪はまっすぐカウンターに歩み寄り、先客が座っている席の隣に腰を下ろす。


「今日はめっちゃ寒いですね、コーヒーお願いします。」と店主に注文を伝え、隣の女の子の方を向く。


「こんにちは。B組の氷月ひづきさんよね?」


 深雪が声をかけると、氷月と呼ばれたその少女は驚いて深雪の方を向く。


「なんで知ってるのよ。一度も話したことないのに。」


「知ってるよ。こんな小さな町で同じ中学から同じ高校へ入ったんだもの。」


 深雪は中学生のころから氷月のことを知っていた。だいぶ変わった子として、どちらかというと疎まれているのを知っていた。深雪自身は彼女のことを疎ましく思うほどは知らなかった。ただ、周りの子たちがこの氷月のことをキモいとかコワいとか評しているのはよく耳にした。


 女の子たちは仲良くなると下の名前で呼び合う。自分が下の名前で呼んでいる仲の良い友達はもちろん、他のグループの子でもその中で呼び合っているのが聞こえてくるからだいたい下の名前を知っている。でも氷月は氷月だった。彼女が下の名前で呼ばれているのは聞いたことがないし、休み時間などに誰かと会話しているのも見たことがなかった。


 女の子は自分の同族を敏感に嗅ぎ出して群れようとする。必死にどこかの群れに属そうとする。群れからはぐれると孤独が待っているからだ。そんな中で氷月はどこの群れにも属さず、グループ分けなどではいつも、どのグループからもはじかれてあぶれるタイプの子たちをまとめていた。ただ、氷月にはそういうあぶれがちな子たちに共通したおどおどした要素が一切なく、いつも堂々としていた。そしてそれゆえに、派手で目立つ子たちから大いに疎まれていた。一時期積極的に嫌味や悪口を言う子もいたけれど、氷月がまったく動じないことに虚しさを覚え、いつしか誰も何も言わなくなった。名前にぴったりの暗くて冷たい子、何を考えているかわからなくて怖い、それが氷月の評判だった。


 深雪は初めて間近で見る氷月に興味を持った。一度も話したことがない相手。彼女とここで出会ったことになんだかわくわくした。


「氷月さんだってわたしのこと知ってるじゃない。」と深雪は微笑んだ。


「は? なんでわたしがあんたのこと知ってると思うわけ。」


「だって、わたしが入ってきただけで嫌そうな顔したじゃない。うわ、面倒なやつが来た、って顔をさ。わたしのこと知ってるってことでしょ。面倒なやつだってことまで知ってる。」深雪は笑いながら言う。


「あんたは有名だからね。北町高で一番有名、間違いなく。やたら写真部に誘ってくるばかな一年生。椋沢深雪。知らない人いないわよ。」


「お、フルネームで把握してくれちゃってるんだね。ありがと。」深雪はまたころころと笑った。笑いながら深雪は、氷月の下の名前を思い出そうとした。たぶん知らないという結論に至った。氷月は溢れそうになった驚きと呆れをコーヒーで流し込むように飲み下していた。


 二人のやり取りを見ていた店主が豪快に笑いながら深雪の前にコーヒーを出す。


「おかげでぼくは今初めてきみの名前を知ったよ、深雪ちゃん。」


「あ、まだ名乗ってませんでしたっけ。すみません。」


「いや、普通コーヒー屋で名乗ったりしないからね。ぼくは澤木さわきと言います。あらためてよろしく。」そう言って澤木は慇懃に頭を下げた。


「ところで」と顔を上げた澤木が言う。「どう? その後、メンバーは。」


「相変わらずです。なっかなかやりたい人いないんですよ。」と深雪は両手をそえたコーヒーの水面を見る。


「なんだってあんたはそんなに写甲に出たいわけ?」と氷月に聞かれ、深雪はいくぶん驚いた。


「え? だってこの町の一大イベントじゃない、小さいころからのあこがれだよ。」


深雪が言うと、氷月は少し口を開きかけ、たっぷりと三回まばたきをした。


「それだけ?」氷月は深雪の顔を見つめながら聞き返す。「それだけの理由であんなに迷惑な勧誘をしてるわけ? すごいわねあんた。」氷月はそこまで言い終えるとコーヒーを一口飲んだ。深雪と話しているとあふれ出るいろんなものを流し込むのにコーヒーが普段の倍ぐらい必要になりそうだった。


「そうだ、氷月さん一緒にやらない?」深雪の声色が躍る。


「は? あんた人の話ちゃんと聞いてた?」氷月はこれ以上“呆れる”の最上級を上書きできなくなってきて、同じ表情を貼り付けたような状態になっていた。


「聞いてた聞いてた。まだ氷月さんのことは誘ってなかったなと思って。」


「あんた正気? たった今そういう勧誘が迷惑だって話をしてたばかりでしょ。やるわけないでしょ、そんなもの。」なんとか吐き捨ててまたコーヒーを流し込もうとしたらもう残っていなかった。それを見た澤木が粉砕機ミルを回し始める。


「そ、か。氷月さん写真興味ない?」と深雪はあきらめずに聞く。


「写真には興味あっても写真部にも写甲にも興味ない。」コーヒーがなくなってもてあました苛立ちが宙に浮く。澤木はドリッパに湯を注いでいる。


「興味あるの? 写真。ね、一緒にやろうよ。」深雪は氷月の言葉に食いつき、乗り出すように距離を縮めながら誘う。


「あんたほんとに人の話何も聞いてないわね。やらないって言ってるでしょ。」


「あんたじゃなくてさ、深雪だよ深雪。深雪って呼んでよ。ね、氷月さんの下の名前は?」


「いやよ。」


「え? いやよちゃん?」


「は? 違うわよばか。あんたに教えるのがいやだって言ってるんでしょ。」深雪を睨みつけながら氷月が言うと、深雪は大笑いして氷月の肩をぽんぽんと叩いて「わかってるよ、さすがに。冗談だって、冗談。」と言った。


 澤木が大笑いしながら氷月のコーヒーカップを下げて新たなコーヒーを出し、自分も新しく淹れたコーヒーを口にする。


店主マスター、この子なんて名前ですか?」と深雪は澤木に尋ねる。


「なんでケンさんに聞くのよ。」


「あ、店主マスターはケンさんていうんだ。」


「なんなのよあんたはいったい。」


 澤木が大笑いして「あっという間に仲良くなったね。」と言うと、氷月は「冗談じゃないわよ。仲良くなんかないわよ。腹立ってしょうがないわよ。」と言ってコーヒーを飲んだ。


「氷月さんも写真に興味あるならさ、一緒にやろうよ。」


「まだ言ってるわけ? そもそも写真なんて一人でやるものでしょ。写真をチームプレイでやることの意味がわからないわよわたしには。あんたも一人で勝手にやればいいでしょ。」


「ええ? だって写甲は三人のチームで組写真を作るんだよ。」


「だからわたしは写甲に興味がないのよ。写真は一人で撮るものだもの。写真を撮るのにチームでわいわいなんてやってられないわよ。」


「どうして? 楽しいと思うよ。仲間と一緒にさ、どんな作品を作ろうかって言いながらさ。わたしは出たいな、写甲。」


 憧れを語る深雪の横顔を見ていた氷月が深雪の方を向いて座りなおす。


「ね、あんたはどんな写真撮ってるの?」


「え?」


「写真よ、どんな写真撮ってるの? 撮りたいの? さっきからあんたの話を聞いてるとね、あんたは写甲に出たいのであって写真を撮りたいわけじゃないんじゃないかって思えるのよ。」


 深雪は口を開きかけて言葉を見つけられず、そのまま閉じた。


「あんたさ、自分の撮った写真、発表したり展示したりしたことあるの?」


「ない。」やっとそれだけ答えた。


「やっぱりね。そんなんで写甲に出るってあんたいったいどんな写真出すつもりなのよ。五百歩ぐらい譲って出場を目指すのはいいとしてもね、わたしがあんたと一緒にやる意味はどこにあるわけ? 自分の撮りたい写真も見えてないような人と。」


 深雪は何も言い返せなかった。やっと口を開いて「氷月さんは発表したりしてるの? 写真。」と尋ねる。


「そこらじゅうにあるでしょ、この店に。そのあんたの目の前にあるやつもそうだし、壁にもかかってるでしょ。」


 深雪の中にわだかまっていたものが音を立てて崩れ落ちた。


「え? これみんな氷月さんの写真なの?」


「そうよ。」


「これも?」と深雪が一番気に入っている壁の写真を指さすと氷月は「そうだって言ってるでしょ。」と無造作に答え、カウンターを向いてコーヒーを飲んだ。


「氷月さん、」


 深雪の目には涙がたまっていた。


「うわ、なんで泣いてるのよあんた。」


「わたしこの写真が本当に好きなの。初めて見たとき撮ったのはプロの写真家だと思った。」


「は? だってその写真中学の制服じゃない。プロの写真家が中学の制服なんか着るわけないでしょ。」


「え? これ写ってるのも氷月さんなの?」


「どう見てもそうでしょ。窓に映ってる自分を撮った写真じゃない。」


 そう言われて深雪は椅子から立ち上がり、写真の前に立って覗き込んだ。もう何度も眺めつくしたような気がしていたその写真。まさかそこに写っている少女が自分でシャッターを切ったものだとは、今の今までただの一度も思わなかった。種明かしを聞いて改めて眺めてみても、それと同じように撮れる気はしなかった。


「ほんとに? これ自撮りなの? すごい、ぜんぜん自撮りに見えない。」と小声になって深雪が言う。


「自撮りっても鏡越しみたいな自撮りだからね。そりゃスマホの自撮りとはぜんぜん違うわよ。」氷月は深雪の方を見もせず、手にしたコーヒーカップの中に向かって言った。コーヒーの中に沈んだ言葉は深雪には届かず、深雪は黙って写真を見つめ続けている。澤木は洗いあがったカップを磨き上げながら、そんな二人を交互に眺めていた。


「ごめん。」しばらく写真を見つめたあと、深雪が小さく言う。


 氷月の方を振り返った深雪は、「ごめん、わたしぜんぜん足りてない。今日は帰るね。」と言うと慌ただしく身支度をした。店の扉を開けながら振り返り、「氷月さん、また声、かけるね。」と言い置いて涼月を後にした。


 深雪が去って扉が完全に閉まってしまうまで見送ったあと、氷月は大きくため息をついた。


「おもしろいだろう? 彼女。」と澤木がカウンター越しに声をかける。


「どこがですか。迷惑なだけですよ。」氷月はそう言って閉じた扉の方に目を向けた。その視線を澤木が追う。


「でも気になるだろう?」


「気になってなんかいませんよ。」


 澤木は口元をほころばせ、「おもしろい子だよ。」と繰り返した。澤木はもう一度扉の方を向いて「会計、しないで行っちゃったな。」とつぶやいた。「本当に、おもしろい子だ。」


 氷月は憮然として澤木を見上げた。

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