個性

 実咲は翌朝には落ち着いた状態で登校したものの、医師の指示もあって部活はしばらく見合わせるということになった。ただ、本人の強い希望で写真甲子園へは予定通り参加する。その点については風音と深雪で小松沢に直接話しに行った。


 小松沢は既に学校側から情報を共有されていて、実咲の病気についても知っていた。話し合いの結果、写甲初戦への応募作品を選定する会合を五月初旬に部室で行い、実咲もその会合には参加するという条件で、実咲は写真同好会の会員として名を連ねた状態で活動には参加しない、いわゆる幽霊部員のような状態を許されることになった。


 深雪と風音に対しても、部活動に参加せずに下校して準備を進めても構わないという特例措置がとられる。部長の朝妻はそもそも他の部員の活動に口を出さない。チームは涼月を拠点として作戦を練り、日々深雪が進捗を小松沢に知らせる。


 深雪は風音と話し合い、週に一度涼月で作品選定会議を開くことにした。そしてその会議の日以外は、ちゃんと部活動として規定の時間に活動しようということにした。厚意に甘えるところは甘えるけれど、それは最低限にとどめようという点で二人の意識は一致していた。実咲にはその選定会議には来てもらい、それ以外は自由に撮影してもらうことにした。


 最初の選定会議の日、深雪が風音と連れ立って昇降口へ向かうと、実咲は二年生の下駄箱のところで待っていた。元気? と聞くのも、調子はどう? と聞くのも違う気がして、深雪はそういう挨拶を省略した。


「じゃ、行こうか。」


 三人で連れ立って涼月を目指す。三人は同じ中学校の出身だけれど小学校は見事にばらばらだった。すなわち三人の自宅は小学校の学区が異なる程度に離れている。深雪の家が最も高校に近いところにあり、風音の家は涼月に近い。実咲はそのどちらからも離れたところに住んでいて、学校へもお父さんに送迎してもらっていた。涼月へ行くときも帰りは迎えに来てもらうことになる。実咲のお父さんは家具のデザイナーで、町内で仕事をしているから割と融通が利くのだ。


 学校から涼月への道のりは三人で歩く。けっこうな距離だけれど、三人で話しながら歩いていたらあっという間だ。


 いつもの風鈴が特別な時間の始まりを告げ、入っていく三人を澤木が迎えてくれる。上着をかけていつものカウンター席に向かうと、一番奥の席に見慣れないパソコンが置いてあった。風音はそのパソコンを一つ手前の席に移動させてその前の席に座り、当然のようにそれを操作して持ってきたメモリーカードからデータをコピーし始めた。


「そのパソコン勝手に触っていいの?」深雪は奥の席に座りながら尋ねた。実咲は風音を挟んで深雪の反対側に座る。


「もちろん。これはわたしたちのチーム用としてケンさんに用意してもらったんだもの。」


 風音の答えに驚いて深雪は澤木を見上げる。澤木はコーヒー豆を挽きながら口元に薄く笑みを浮かべた。


「根回ししといたのよ。あらかじめね。」と風音が言う。


「根回し?」


 深雪は聞き返した。


「二日ぐらい前だったかな、」カウンターの向こうから澤木が話始める。


「ふらっと風音ちゃんが来てさ。ここを写甲チームの本拠地にするからパソコン一台用意してくれって言うわけよ。」


 深雪は驚いて風音の方を向き、「ものすごい図々しさだね。」と言った。


「パソコンって何するんだ? どのぐらいのパワーが必要なんだ? って聞いてさ。持ち寄った写真を見て応募するものを決めるって言うから、とりあえずたくさんの画像を保存できて、快適な画像ビューワが使えるようなものをね、風音ちゃんの使い慣れてるOSでご用意いたしましたよ。」


 深雪には風音の行動はあまりにも図々しいと思えた。でも澤木はあまり迷惑には感じていないようだった。


「うちのお父さんとかケンさんみたいな人はね。家の中にパソコンの部品がごろごろあるの。だから一時的に使いたいからパソコン用意してほしいなって言っておくとね、その辺に落ちてる部品ですぐ一台ぐらい組み立てちゃうのよ。だからこのパソコンにしたって新しく買ったわけじゃないのよ。」


 風音は悪びれもせずにそんなことを言い、「ですよね?」と澤木に笑いかけた。


「ああ。たしかに新たに部品買ったりしてたら二日じゃ用意できないかな。でもありものを持ってきたんじゃなくてこのために組んで一からセットアップしたんだぞ。昨日半日ぐらいかけて。」


 澤木は恩着せがましいことを言いながら楽しそうだ。


 実咲もくすくす笑いながらメモリーカードを風音に手渡した。風音は慣れた手つきでカードを差し込んでデータをコピーした。


「一日二十四枚の制限があっても三人分集めたらすごい数になるからさ。まずはここにデータで集めて、画面で見ながらテーマを絞ろう。」風音は深雪と実咲の顔にそれぞれ目を向けて言った。画面に目を戻してコピーの終了を確認し、メモリーカードを抜いて実咲に返す。その手が深雪の前へ移動してくる。深雪は黙って自分の分のメモリーカードをその手に乗せる。風音の白い指が花びらを誘うように深雪のメモリーカードを持ち去る。


「たぶん今日の会議が一番大変よ。テーマを決めずに勝手に撮りためてきた写真からテーマを拾い出すんだから。なにかこれだっていうものが見つかるといいんだけど。」風音は深雪のデータも同じディレクトリにコピーしながら言った。


 コピーの終わったメモリーカードを深雪に返し、風音はビューワを起動する。


「どうしよう。」風音は深雪と実咲をかわるがわる見る。「二千枚以上ある。」


 深雪は思わずふきだした。一日二十四枚という制限は少なすぎると思ったはずだった。実際に撮影してみたら二十四枚撮れない日の方が多かった。それでも約三か月という期間があり、三人分を持ち寄ったら二千枚にもなったようだ。


「二千枚からテーマを拾い出すの? 何日もかかりそうだよ。」深雪は途方に暮れた。


「じゃ、これでも飲みながらじっくりやりますか。」と言いながら澤木が三人にコーヒーを出した。


 三人はそれぞれにありがとうとかいただきますとか言い、コーヒーを飲んだ。すっきりとしたコーヒーの味が頭の中まですっきりさせる。


「ね、先に撮り始めてた風音と深雪にね、特に気に入ってる写真を挙げてもらって、そこから何かテーマが決められないかやってみるのはどうかな。」実咲が提案した。


「実咲の気に入ってるやつも入れようよ。」と深雪が言うと、実咲は「わたしのは一貫して似たような写真ばっかりだから。わたしのを混ぜるとテーマを決めにくくなるような気がするよ。」と言った。


 風音はその間もサムネイルを眺めていた。


「深雪、一番気に入ってるのどれ?」風音が深雪の方を向く。


 深雪は風音の前へ乗り出し、画面をスクロールさせる。深雪には特に気に入っている一枚があった。撮影日もだいたい覚えている。


「あった、これ。」


 そう言って深雪が一枚のサムネイルを選択すると、その写真が画面右側のビューワ部分に拡大表示された。それは三学期に入ってすぐのころに撮った風音の後ろ姿だった。まっさらな雪に足跡を刻みながら前進する風音。その背中に憧れを投げながら見送った深雪。久しぶりに再会したその写真には、今の深雪にも見えている憧れの背中が写っていた。深雪はやっぱりこの写真が好きだと思った。自分で撮った写真で初めて、時間が経っても好きだと思い続けていられる作品だった。


 深雪は画面を見つめる風音の横顔を見ていた。風音は声もなく画面に見入っていた。


「いいね、これ。」風音はゆっくりと深雪の方を向いて言った。


「ありがと。風音に褒められるのが一番うれしい。」深雪は微笑んだ。


 風音はビューワの画面を小さくしてファイルブラウザを表示し、今表示した深雪写真を別のディレクトリにコピーした。


「実はわたしも似たようなの撮ったんだよね。」風音はそう言って再びビューワを全画面にして画面をスクロールする。


「これ。」と言って風音はビューワに一枚を拡大表示し、画面から体を少し離す。


 深雪と実咲はほとんど同時に画面を覗き込んだ。


 真っ白な雪原の向こうに真っ白な山々がそびえていて、その上に空が広がっている。モノクロ写真の空は少し暗めのグレーで塗りつくされていて、どんな青よりも深く澄んだ青だった。雪原には遠くの方に、まばらに家屋のようなものが見える。その雪原のちょうど真ん中に、足跡が点々と続いている。


「今の深雪のとちょうど反対なの。雪に足跡を刻みながら歩いたわたし。深雪のはその足跡の先にわたしがいたけど、これは足跡をつけながら歩いてきたわたしが振り返って撮ったの。」


 深雪は声もなく画面に見入った。その写真に感動したのか、図らずも同じようなモチーフを撮影していたことに感動したのかわからなかった。


「みち。」とおもむろに実咲が言い、風音も深雪も実咲の方を向いた。


「どうかな、テーマ。深雪のさっきのも風音のこれもみちでしょう。道なき道を進むとそこにみちができる。未知みちに出会うための路。だからテーマはひらがなの“みち”。」


 実咲は半分自分自身に語り掛けるように言った。


「それすごくいいね。」と風音が同意する。「未知を求め、道なき道を開き、路を作る。それがわたしたちのみち。」


「すごい。二千枚からたった二枚見ただけでテーマが見つかった。」深雪は感心した。


「たった二枚だからできたんだと思う。たまたま二人の選んだ写真が同じようなテーマの写真だったし。わたしたちは導かれてたんだと思う。このテーマに。」


 その実咲の言葉に深雪は震えた。人の行く道はそれぞれ違う。深雪の道、風音の道、実咲の道。それぞれ異なるはずの道が、少なくとも今この瞬間、重なっている。この三人が三人で同じ道を一緒に歩く時間ははたしてどのぐらいあるのだろう。


 三人とも、これがそう長く続くものではないということをわかっている。でもそれを見ないふりをし、今この時が永遠に続くという錯覚の中に身をゆだねる。悔いを残さないように進みたい。この二人と出会った喜びを全力で作品の中に込めたい。みち。三人で進むみち。


「いいかな、テーマ。“みち”で。」と風音が深雪に尋ねる。


「もちろん。最高だと思う。」深雪が答える。実咲は微笑んでいる。


 今日の目的はテーマを決めることだったからもう達してしまった。しかしデータはまだまだ大量にある。きっと三人とも同じ気持ちだ、と少し願うように深雪は二人の顔を見る。二人とも画面の方を見ていた。風音がパソコンを操作して八枚の写真を画面に並べる。


「一応ざっと見ようよ。八枚ずつでもすごく時間かかりそうだけど。」風音が同意を求めるように深雪の方を向く。


「うん。二人がどんなの撮ってきたか見たいし。」深雪も同意する。実咲は最初からずっと画面を見つめたままだ。


 風音が操作すると三人がそれぞれに撮ってきた写真が時系列に並んで表示される。自分があれを撮ったころ他の人はこんなのを撮っていたのか、という新鮮な感覚がある。


「深雪が撮ってきた写真は学校って感じがするね。」と実咲が言う。「あ、それ好きだな、わたし。」実咲が画面を指さす。


 風音はパソコンを操作して、今実咲が指さした写真を一枚だけ大きめに表示した。それは体育館でスリーポイントシュートの練習をしているバスケットボール部員を撮った写真だった。制服姿なのでバスケットボール部員には見えないけれど確かにバスケットボール部員なのだ。深雪はこのとき、離れた位置でほとんど床に寝そべるようにしてゴールを狙うバスケットボール部員の後ろ姿を見上げて撮った。天井の水銀灯をぎりぎりフレームの外に置き、伸ばした手の先にフレアが入り込むようにした。


「これって撮らせてほしいって頼んだの?」と実咲が聞く。


「もちろん。さすがに無断で床に寝そべってカメラ構えてたら踏まれるよ。」


 深雪が答える。


「これバスケ部の一つ上の先輩でさ。試験期間中にね、ほんとは部活禁止なんだけど体動かさないといられないからって一人でシュート練習してたんだよね。それを撮らせてほしいって頼んでさ。すごいんだよ、五回中四回ぐらいシュート入るんだよ。」


「へえ。」実咲が感心したように言う。「試験期間中なのに深雪は体育館を撮りに行ったの?」


「うん。ほんとは空っぽの体育館を撮りたくて行ったんだよね。試験中ぐらいしか無人にならないからさ。そしたら一人練習してる人がいて、制服でシュート打ってる絵もいいな、って思って撮らせてもらった。」


「こういうのは断然深雪の守備範囲だなあ。」と言いながら風音はまた表示を八枚ずつに戻し、画面を進める。


「ほら、これも。」と言って風音はまた一枚を拡大する。


 それは伸ばしたトロンボーンのスライドの先から吹いている女子の顔を撮ったもので、顔はほとんどトロンボーンのベルに隠れて見えなかった。


「こればっかりはさ、もっと広角がよかったな。」なんだかわかっている風に背伸びをしたみたいな口ぶりになってしまって深雪は照れくさくなった。


「いや、これはこれで面白いよ。この画角だからこんなに顔が隠れたわけだし。」


 風音はそう言って画面から少し顔を離し、「うちらってさ、高校生なのにこういう高校生活っぽい写真は深雪しか撮ってないよね。」と言った。実咲も「ていうか深雪しかそういうの撮れない。」と重ねた。


 深雪は褒められていると気づくのに少し時間がかかった。


「深雪自分ではわかってないかもしれないけどさ。深雪が撮ってきてるような自然な高校生の写真はさ。わたしにも実咲にも撮れないんだよ。」


「え? なんで?」


 深雪が聞き返すと、風音は実咲の方を向いて促した。


「それはね、わたしはまず撮らせてって頼めない。頼めるのは風音と深雪ぐらい。他の人は怖くて無理。」と実咲が言う。


「わたしはね、頼むのはできるけど、わたしが頼んでも誰も自然に笑ってくれない。深雪はさ、ちょっと写真撮らせてって言うとさ、このトロンボーンの子みたいに面白がって協力してくれるような友達がいるでしょう? これわたしが同じことやろうと思っても無理なんだよ。」


 風音にそう言われ、確かに風音が同じことをするのは想像できなかった。言われてみると、風音の写真で人が写っているものはだいたいが幼い子供か大人だった。同世代の人が写っている写真は深雪が写っているものを除いてほとんど見たことがない。


「そうなのか。わたし自分の撮ってる写真に個性ってあるのかなって思ってた。誰でも撮れそうな気がしてたよ。」


「自然にできることの価値って自分ではわからないものよね。」と実咲が言う。「わたしさ、普通のことが普通にできないでしょ、だから誰かにとって当たり前のことでもほかの人にとってはすごいっていうのがよくわかるの。わたしが自然にやってることでも誰かにとってはすごいかもしれないって、自分のことも思うようにしてるんだ。」


 深雪は感心した。振り返ると深雪は他人を羨んでばかりいるような気がした。誰のどんな姿を見ても、そこに自分にはない何かを見つけて羨んでしまう。特に風音への憧れは大きすぎて、まさか深雪にできて風音にできないことがあるなんて思いもしなかった。


「そっか、わたし今まで自分にできることにほとんど価値を感じてなかったよ。できないことばかり見て自分は何もできないような気がしてた。」


「そうでしょ、それ悲しいよ、わたし。」と実咲が言う。「わたしはさ、深雪に憧れてるんだ、すごいな、すてきだな、っていつも思う。でも深雪が自分に価値を感じてないとさ、わたしがどうやっても届かないのにそれにも価値が無かったら、わたしなんてどうしたらいいんだろうって思うよ。」


 実咲の言葉が深雪の内側に突き刺さった。


「難しいよね、過大評価でも過小評価でもだめなのよね。目指すはちょうどいい。難しすぎる。」


 風音はそう言って笑った。


 深雪が自分の内側に渦巻いた新しい感覚と格闘している間に、風音はまた次の写真を画面に表示した。こういうときの切り替えも風音は実にさっぱりしていて深雪には羨ましい。


「実咲のは独特よね。」と言いながら風音はまた一枚を拡大表示する。


 風音が選んだのは犬を写した写真だった。どこかの家の庭につながれている犬が、雪の上におすわりをしてまっすぐこちらを見ている。その写真が実咲の手によるものだというのは深雪にもすぐにわかった。独特なのだ、距離感が。


 庭に座っている犬が写真の中央に小さめにフレーミングされている。周りには広い庭と、奥には家がある。庭の手前には道路があり、道路のこちら側の低い位置からカメラを向けたのだろう。犬も近づいてくることなく、座ったままカメラを見つめている。カメラと犬の間にはそれなりに距離があるけれど、中望遠によって背景との距離が圧縮されていて攪乱される。撮影者と犬の間に無言のコミュニケーションがあるけれど、その距離は決して近くない。


「実咲の写真はさ、一貫してるよね。」


 深雪は感じていることをうまく言葉にできるかどうかわからなかったけれど、試みることにした。


「この犬もさ、家の側でもカメラの側でもない場所にいる。前に見せてもらった写真もね、寄るでもなく引くでもない距離感だったんだよね。この画角を極めてる感じがする。」


「ありがと、極めてるって言われるとちょっと褒めすぎだと思うけどさ、でもこの画角が一番しっくりくるのはたしかだよ。わたしはあまりこれより広角がいいとか望遠がいいとか思ったことないんだよね。これがちょうどいい。」


 そんな風に感想を言い合いながら三人で持ち寄った写真を見る。傍らには常においしいコーヒーもある。この時間は至福だった。あまり遅くなるわけにもいかなかったので二千枚ぜんぶは見られなかったけれど、三人はそれぞれに満足した。


「これで一度持ち帰って、各自“みち”っていうテーマで使えそうな写真だけに絞り込んで学校に持ってくる。一度それで監督に見てもらおう。」風音が言う。


「監督?」深雪が聞き返す。


「監督よ、小松沢先生。」


「ああ、そっか、先生ね。」


「あんた三人だけでやるつもりだったでしょ。」


 深雪は舌を出して照れて見せた。

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