三章

この奇妙な手紙はこのように結ばれておりました。つい先月までお会いする約束をしていたベルタ・ラインフェルト嬢の突然の悲報は、面識の無いわたくしの瞳でさえも涙で溢れたのでございます。


父に電報をお返ししてから、また涙を零すわたくしを父はそっと抱き寄せ、そしてしばらく父の肩にしがみついておりました。


その晩はとても空気の澄んだ夜でございましたので、わたくしどもは再び歩き出し、激しくも悲しいこのお手紙にはどのような意味が込められているのか、それぞれ思いを巡らせておりました。


そうしておりますうちに、気がつけばお城から少し離れたところまでたどり着いていたのでございます。そこは森を抜け村落からわたくしどものお城まで続く道がございまして、木々が開け草原のようになっている場所でございます。わたくしども家族はよくこの場所でピクニックをするのですが、夜になると──当然ではありますが──めっきり人の気配もなく、ただ草が生い茂るのみでございます。


父の提案に従いお城に戻りましたわたくしは、跳ね橋の前に立っているペドロン夫人とラフォンテーヌ先生のお姿を見つけました。お二人は夜空に煌々と輝いております大きな月を眺めておいでなのでしょう。何やらおしゃべりをしながら月を愛でているお二人の表情はうっとりとしておりました。


跳ね橋に近づいたわたくしと父も、お二人に倣い、並んで月明かりに照らされた景色を眺めることにいたしました。


向こうの彼方にわたくしどもがおりました草原がよく見えます。さわさわと揺れる草木は月の光を照り返し、輝く銀色の光はどの宝石よりも美しくわたくしの眼下で煌めいておりました。


目線を動かせば流れる小川のせせらぎが静寂の中に聞こえてまいります。淡い水の流れは優雅に曲線を描きながら止めどなく夜の道を滑り落ちているようでございました。


ああなんと美しい景色なのでしょうか。まるで絵画のような幻想的な夜はまたとないでしょう。しかしながら辺りがしめやかな雰囲気に包まれていると思うのは、先ほど聞いた悲報のせいなのでしょうか。しかしこれほどまでの荘厳な自然の神秘に彩られた美しさは、何をもってしても犯すことは出来ないのです。

感無量とはまさにこのことで、感動のあまり一言も発することの出来ないわたくしは、わたくしと父が立っている場所から少し後ろで月を褒め称えておられるお二人の先生方の会話に耳を傾けおりました。


ちょうどその頃はラフォンテーヌ先生が月の魔力について話しておいででした。ラフォンテーヌ先生はドイツ出身ということもあって少々内向的な性格をなさっており、そのせいでしょうか、空想的な迷信深いところをお持ちの方でございました。


ラフォンテーヌ先生が仰るには月には人の理解が及ばぬ不思議な魔力が備わっており、それは人の精神に深く影響するのだそうです。特に今宵のような煌々と輝く満月の晩にはそういった作用が働き、人の心の中の善悪や、狂気、そして夢にまでその効果を如実にしてしまうのだとか。


更に先生は、月夜の晩に起きた恐ろしいお伽話をわたくしに聞かせてくださいましたが、呆れた様子のペドロン夫人がその話を遮ってくださいました。ペドロン夫人曰く「綺麗な月夜に水を差すのはおやめなさい」とのこと。


そんなやりとりをぼんやりと聞いていたわたくしは、お城の窓という窓が銀色に輝いている様に見惚れて、ようやく今宵が普通の晩ではないと言うラフォンテーヌ先生のお気持ちが分かったような気がしたのです。


それは父も同じ気持ちだったようで「今日はどこか憂鬱な気持ちに包まれている」と誰に言うでもなく呟かれました。それから彼のシェークスピアのベニスの商人からとある一節を諳んじて見せました。


「どうしてだろうか、私は何故だか不吉な予感がしてならないのだ。それは大きな災いで、私たち家族に大きく関わるものかもしれない。いや、どうも哀れなシュピールスドルフ卿の狂気にあてられてしまったようだ」


ちょうどその時でございます。あまりこの辺りではお見かけしないような車が、遠くの方からやってくるのが見えました。わたくしがそれが車だとわかったのは、偏にエンジンが鳴り響く轟音と、四つのタイヤがあったからでございます。それは大変古い車のようで、わたくしには長方形の箱が縦と横にくっついているだけのような──もしくは古い馬車のような──、わたくしが知るどの車よりも変わった風貌をしておりました。後に聞くところによると、その車は戦争が始まる以前の古いフランス製の車だそうで、今では数少ない貴重な車らしいのです。


わたくしはその珍しい車が走る光景に魅入っておりましたが、しばらくするといよいよ目が離せなくなってしまいました。何故かと申しますと、その車がわたくしどもがおります跳ね橋に差しかかろうかと言う時に、急に車は大きく右に曲がり、橋の手前の小川の中に飛び込んでしまったからでございます。大きな水柱が跳ねる音と一緒に、それは澄んだ女性の悲鳴が聞こえ、遂に事態は緊迫してまいりました。


わたくしどもは突然目の前で起こった事故に身を震わせ、恐怖を抱きました。しかし沸き起こる好奇心から車へ近づきますと、あまりの惨状にわたくしとお二人の先生方は悲鳴を上げる他ありませんでした。


車は小川の中で倒れてこそなかったものの、何か大きな石がぶつかったらしく、前面は大きくひしゃげておりました。


しばらくすると運転手が慌てた様子で車を飛び降り後部座席へ向かいまして、中から一人のお嬢さんを運び出されました。遠巻きから一見するとお嬢さんは息をしておられないように思われましたが、その後車から出られた妙齢の貴婦人が慌てて駆け寄りますと、一先ず安心したかのような安堵のため息をこぼされておりました。


しかしそれも長くは続かず、貴婦人は小さく畳まれたハンカチをしきりに目に当てていらっしゃいました。


その貴婦人やお嬢さんのお召し物から察するに、この方たちはとても身分の高い方たちではないかと思われますが、それは今の時点ではあまり役には立たなかったでしょう。現に大きく古い車は小川の流れを身で受けておられましたから。


父はすでに貴婦人の元へ駆け寄り、帽子を脱いで何やらお話をされておりました。どうやら助けを申し出て、お城に案内されているようでしたが、当の貴婦人は緩やかな斜面に横たえられているお嬢さんのことばかりが気にかかるご様子で、父の話は耳に入らないようでございました。


わたくしは興味本位からそちらに近づいてみますと、確かにお嬢さんに目立った傷もなく、ただ気を失っているだけであると見受けました。父は多少の医学について心得がありましたので、静かにお嬢さんの手を取り脈を調べますと、そのお母様と仰います妙齢の貴婦人に向かって大事がないことを伝えました。


すると貴婦人はそれを聞いて手を組み天を仰いで感謝の想いを父に伝えました。やがてすぐに俯き泣き出してしまわれたのですが、その様子がわたくしには芝居がかって見えていたのでございます。実はと申しますが、わたくしもペドロン夫人を困らせてみようとこうした芝居をうつことがございます。ですが、時々自然の立ち振る舞いすらも芝居のように見えてしまうお方もいらっしゃいますから、きっとこの貴婦人もそうなのだろうと存じます。


ご婦人はお年の割には綺麗な方で、恐らく若い頃は眩いほどの美人でいらしたのでしょう。長身でございましたが痩せすぎておらず、何故か喪服のように黒いドレスを身に纏っておられました。顔は事故のせいかやや青ざめておられましたが、そのお顔立ちはまるで一輪の百合のように凛とした気品がございます。


「ああなんてこと! なぜわたくしがこのような不幸を味合わなければならないのでしょうか!」


わたくしがご婦人に近づきますと、このような声が聞こえてまいりました。


「わたくしは今すぐにでも足を動かさねばならぬ程の危急の旅をしております。いつ終わるとも知れぬ旅ですから、今日のようなことがまたいつ起きるとも限りません。このままではこの子を置いていかねばならないでしょう。何としても遅れる訳にはいかないのです。申し訳ございませんが、最寄りの村までどれくらい離れているのか教えていただけませんか。娘はそちらに預けていきます。三ヶ月後に戻ってくるまで、しばしの別れとなりましょう」


わたくしは父の手を両手で包み、胸の前に持ってきてから、上目がちに父を見つめました。


「ねぇお父様。うちに預けていただけるようにお願いする訳にはいかないかしら。そうしていただけたならば、私の心はどれほど晴れやかになることでしょう」


父はにっこりとわたくしに微笑みました。わたくしは父の手を放しますと、自由になった手でわたくしの頭を二度三度撫でてから、父はご婦人にお向かいになりました。


「奥様、もしもお嬢様を私の責任の下、私の娘と娘の家庭教師のペドロン夫人に預けて、奥様がお戻りになられるまでの間、私どもの客人としてもてなすことをお許しいただけるならば、私どもとしてはこれ以上の喜びはございませんし、私どもも奥様の寛大なる御心と、その信頼にお応えすべく精一杯心を尽くしてお嬢様のお世話をさせていただきます」


「それはなりません。それではわたくしは 貴方様のご厚意に甘えるばかり。それにわたくしはそのようなご恩を、どのようにお返しすれば良いのか見当がつかないのです」ご婦人はなんともそわそわしたご様子で、そうお答えになりました。


「私どもは奥様に恩を売ろうなどとは申しておりません。それどころか、そうしていただけるならば、私どもにとってどれだけ幸運なことか。ここにおります私の娘は、首を長くして待っていた客人に不幸がありまして、とても落ち込んでいたところなのです。もしもお嬢様を私どもに預けてくださいますなら、暗雲立ち込める娘の心にとって最高の慰めとなりましょう。この先に村は確かにございますが、奥様が期待されているような宿屋はございません。もしこのまま長旅を続けるのでは、お嬢様のお身体にも障るでしょう。奥様の言う通り急ぎの旅であるならば、お嬢様をどこかへ預けねばなりませんが、私どものお城を除いて心からのお世話を約束出来る場所を私は存じておりません」


この時分では、車は川から上げられておりました。驚いたことに車の前面は見るも無残に破壊されておりましたが、エンジンに大事はなかったようなのでございました。車の下に潜り込み点検をしていたであろう運転手のお顔には油がこびり付いておりまして、この僅かな間に修理をされたことにわたくしはただ驚いておりました。


ご婦人はお嬢様の方をご覧になられておりましたが、その瞳には先ほどと比べて愛情がこもっているようには見えませんでした。それからご婦人は父を手招きいたしますと、わたくしに聞こえないように二人で少し離れたところへ移動されました。ご婦人は父の耳に口を寄せ、これまでとは違う険しい表情で何やら熱心に語っておられます。


父は聡明なお方でしたが、この時ばかりは相手の変化に気づいていないらしいのです。二、三分のことでしょうか。わたくしは何のお話をされてを聞きたくてうずうずしておりましたが、やがて彼女はペドロン夫人に介抱されているお嬢様の下へ近づかれますと、片膝をつき何かを囁かれました。そのまま口づけをされ、別れを惜しむ様子もなく車にお乗りになったのです。側に控えていたお仕着せ姿の運転手が間も無く運転席に乗り込まれますと、あっというほどの速度で走り去りました。


残されたのは、わたくしたちお城の住人と、たった今お預かりした気を失っているお嬢様、そしてこの度の事故で倒れてしまった跳ね橋の前の古びた石造りの十字架だけでございました。

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