九章

わたくしは居間に腰を落ち着けて、暖かいココアをカーミラといただいておりました。


彼女と愛し合ってから数日が過ぎましたが、わたくしもカーミラも、あの夜のことがまるでなかったかのように、いつも通りを演じておりました。


居間にはペドロン夫人とラフォンテーヌ先生もいらっしゃいましたので、みんなで簡単なカード遊びに興じておりますと、そこに紅茶を飲みに父が参りました。


遊びが一区切りつきますと、父はカーミラか座るソファの隣に座り、心配した様子でお母様から連絡があったかどうかを尋ねました。


「いいえ、ございません」


「そうか。せめてお手紙を送ろうと思うのだが、宛先はどうしたらいいかな」


「どうでしょうか……」カーミラは言葉を濁しました。「でもわたし、そろそろお暇しようと考えておりましたの。皆様には十分過ぎる程良くしていただきましたし、これ以上ご迷惑をかける訳にもまいりません。明日一番近い駅まで送っていただければ、後は一人で汽車に乗ってお母様を追いかけようと思います。お教えすることは出来ませんが、お母様の目的地は存じておりますから」


わたくしは驚き、止めようと声を発する前に父が言いました。


「そんな水くさいことを言うものじゃないよ。急にいなくなったら我が家は寂しくなってしまうじゃないか。それにね、私もはいそうですかと言って素直に君をお返しするつもりはないよ。お母様が我々に預けてくださったのは、我々を信用していただけたからだ。となると、我々もその信用に応えるべく、君のお母様に直接お引き渡しするのが筋というものだ。何故私がお母様から連絡があったのか尋ねたかと言うとだね、ついにこの辺りに広まった謎の病がいよいよ深刻になってきたんだ。だからね、君のお母様の忠告は別にしても、私は保護者として申し訳なく思っているんだ。私は自分が出来る限りのことを尽くして君を守ろうと思う。だから君も、一人で出て行くなんてそう軽々しく言ってはいけないよ。もう一度言うが、君と別れることが我々にとってどれだけ辛いことか、よく考えて欲しい」


「ありがとうございます。皆様のお心遣い、痛み入りますわ。わたしもこのお城に来てからというもの、美しい領地の中で世話を焼いてくださっていることに、心からの感謝を申し上げます。このお城で過ごした数々の思い出は、これまでの暮らしの中で一番幸せだったと胸を張って言うことが出来ます」


カーミラははにかんだように微笑みながら、謝辞を贈りますと、すっかり父は気を良くして、やや古風な作法で彼女の手に口づけをいたしました。


わたくしはいつものようにカーミラと一緒に寝室へ上がると、寝る支度をしている間におしゃべりをいたしました。 


「あの日の約束、まだ覚えてるかしら」わたくしはカーミラに尋ねました。


「もちろんよ。あの日、あの出来事と一緒に、永遠に忘れることはないわ」


「あなたが話してくださる日は、いつになるのかしら」


彼女はにっこりと微笑みましたが、口を開くことはありませんでした。


「答えてくれないのね。それはわたくしの愛を疑っているから? それともあなたの愛が偽りだから?」


「そんなことないわ。あなたはわたくしの何もかも聞いてもいいのよ。あなたはわたしの愛を疑っておいでだけど、わたしは本当にあなたを想っているのよ。そうでなければ、愛するあなたに未だ真実を語れない苦しみに、わたしが身悶えることもないのに。でもね、誓いを立ててしまったの。それはもう、修道女が神に立てた誓いすら霞んでしまうような、厳格な誓い。魂の誓いと言っても過言ではないわ。だから愛おしいあなたにすら、自分のことが話せないの。でも、もうじきにあなたに包み隠さず話す時が来るわ。わたしをわがままで薄情な女と思うかもしれないけど、愛と言うものはいつだってわがままだわ。わたくしがどれだけ執念深い女か、あなたにはわからないわね。わたしはいつまでもあなたがくれた愛を離さないわ。愛してくれないなら憎んでも構わない。それでもわたしとあなたは一つであることは変わらない。あなたが死ぬ時も、わたしが死んだ後も、わたしたちはいつまでも繋がり続ける。それでもわたしのこの冷たい気持ちの中には、無関心という言葉はないわ」


「あなたはそうやって、たまに難しいことを言ってわたくしを煙に巻こうとされるけど、わたくしもそれに引っかかる程お莫迦さんではないわ」


「ローラをお莫迦さんだと思ったことは一度もなくてよ」


しかしわたくしはむっとした気持ちを抑えきれずに問い正しました。


「なら答えて、一つだけよ。あなたは以前わたくしに恋をしたことはないと言ったけれど、あれは嘘なんでしょう。だってあなたは同い年でありながら、わたくしよりもずいぶん愛を知っているわ。まるで殿方のように都会の手練手管でわたくしを搦め捕ろうとするあなたが、まさかうぶなお嬢さんだなんて、わたくしには信じられないわ」


「そうかもしれないわね」その時初めて、彼女の自嘲めいた笑みを見たような気がします。


「わたしね、もうあまり昔のことを覚えていないのよ」


「おかしな人ね。まるで年寄りみたいな言い方をして。あなたくらいの年で昔のことを思い出せないなんてことあるのかしら」わたくしはそう言って笑いました。


「思い出せることもあるけれど、わたしの記憶の海に差し込む太陽はどこかへ行ってしまったみたいなの。思い出を探ろうとも、辺りは暗闇の中。そうして時折思い出すことは、それこそ水の中にいる時のように、ぼんやりとだけ浮かんでくるの。わたしね、ベッドの中で殺されそうになったの。ここを刺されて」


彼女は自分の胸の上に手を置かれました。


「それ以来わたしは、まるで別人になってしまったかのよう」


「死にかけたの?」


「ええ、もしかすると本当は死んでしまったのかも。確かにあれは愛だった。あなたのいう通りね。わたしは愛を知っていたんだわ。それは命を奪うほど残酷で、でも間違いなく愛だった。愛は犠牲を伴うの。そして犠牲とは血を流すことよ。さぁ、もうここまでにしましょう? わたしなんだか疲れてしまったわ。このまま寝てもいいかしら。起き上がるのは辛いわ。悪いけど、扉に鍵を掛けていってくれるかしら」


ベッドに横向に寝そべっている彼女は、何やら意味ありげな笑みを浮かべて、にこにことわたくしを見つめておりましたが、わたくしは可愛らしい笑顔だと思うだけで、その意味を理解することは出来ませんでした。


わたくしは心にもやもやと引っかかる思いをしつつも、彼女にお休みを言い部屋を出たのでございました。


自分の近くに心配性な人がおりますと、どういう訳だか、その気質はうつってしまうようなのでございます。


かく言うわたくしも、日頃から泥棒だの強盗などカーミラから恐ろしい話を聞かされておりましたので、いつの間にやら彼女の警告をすっかり間に受けて、夜の間は部屋に鍵をかけるのがすっかり習慣になっていたのでございます。


さらには泥棒や強盗が身を潜めていないか──仮に潜めていたとしても無力なわたくしはたちどころに殺されてしまうでしょうが──念入りに確認してから寝るようになりました。


そうした寝る前の儀式を行うと、ようやくわたくしはベッドに横になるのです。わたくしは日頃寝つきが良い方でございます。


けれど、この日は時間が経てども一向に眠くなることはありませんでした。


卓上の照明を点けて、眠くなるまで本を読んで過ごそうかと思いまして、わたくしは本棚に向かおうとしたのですが、その時わたくしは壁に掛けられた美しい絵画が目に止まりました。


先日父にお願いして飾ってもらったものでございます。


髪の色こそ違えど、その絵の女性はやはりカーミラに似ておりまして、わたくしは本を取りにいくことも忘れて、じっとその絵に魅了されておりました。


絵の女性もなんだかわたくしを見つめて微笑んでいるように見えたのは、そのお顔があの晩のカーミラのように思えていたからでしょうか。


わたくしは先程カーミラにはぐらかされた時のことを思い出し、悔しさが内から湧いてくるような感情に支配されました。


その絵に見つめられていると、何故だが体が火照っていくのです。頬は熱くなり、息は荒く昂ぶっておりました。


わたくしは恥ずかしいことではありますが、カーミラそっくりのその美しい絵に、お互いを愛し合ったあの夜のことを思い出し、いけない想いに抗えなくなっておりました。


わたくしは彼女の生き写しのような絵画を前にして自らを慰め、その日は屈辱と快楽の果てに深い眠りに落ちたのでございました。


わたくしは夢を見ました。そしてその夢は、大層奇妙な病の始まりとなったのでございます。


わたくしには眠っているという意識がこざいましたから、それはやはり夢なのです。


しかし、その夢は不思議な現実感を伴っておりました。


わたくしはベッドの上で横になっておりますと、部屋の中は眠りに落ちる前とそのままの景色でございました。


ただ、点けて寝ていたはずの照明の灯りだけが消えており、暗闇の中で何かが蠢いているようでございました。


初めのうちはそれが何であるかわからなかったのですが、目が暗闇に慣れてまいりますと、ぼんやりとした輪郭から、その正体が浮かび上がってまいりました。


それはどうやら大きな猫に似た獣のようでございます。大きさは一メートル程でしょうか。視界の端から端へ消えるまでに、それくらいはあったかと存じます。


檻に捕らえられた獣のように、それはしなやかで悪意ある動きをしながら、部屋のあちこちを行ったり来たりしているようでした。


わたくしは悲鳴を上げることは出来ませんでした。恐ろしさのあまり声をあげることが普通のことだとは思いますが、わたくしはあまりにも恐ろしいその光景に、声が枯れてしまったようなのでございます。


それは段々と動きを早め、まるでわたくしを翻弄するかのように歩き回ります。いつの間にか部屋はより薄暗くなり、ついには獣の光る二つの鋭い目を除いては何も見えなくなりました。


わたくしの体が一度大きく揺れると、それは獣が軽やかな動きでベッドに上がってきたのだと悟りました。


二つの大きな目がわたくしに近づいてまいります。そして獣はまるで人間のように大きくニヤリと笑うと、口が開けた時に覗いた二本の鋭い牙を、突然わたくしの胸に突き立てたのでございます。


胸に鋭い痛みを感じてわたくしは目を覚ましました。


卓上の照明はやはり灯ったままで、ベッドの下の方、少し右寄りのところに一人の女性が立っているようでした。黒くゆったりとしたドレスを身に纏い、下ろした髪は腰のそばで揺れておりました。人は生きていれば、息をするのに肩を上下させるものでございますが、その女性はまるで石像のようにピクリとも動かず、あたかも死人のようでございました。


わたくしが一瞬目を離しますと、いつの間にか移動していたようで、その女性は部屋の扉の前におりました。そのまま更に扉に近づきますと、そのまま扉を開けて外へと出ていきました。


それまで恐怖のあまり動けずにいたわたくしは、そこでようやく緊張の糸が解けたように、大きく息を吐き出しました。そうして動き出した思考は、今のは何であったかの思案を始めました。


初めに思ったのは、カーミラがわたくしをからかいに来て、扉はわたくしがうっかり鍵を閉め忘れたのだろうということでした。


急いで扉を確認してみると、しっかりと内鍵がかけられておりました。わたくしは扉を開けるのが途端に恐ろしくなり、わたくしは使わなくなった燭台を握りしめ、朝が来るまで身構えておりました

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