十章
明くる日、わたくしは世にも奇妙な恐ろしい体験をしたせいでしょうか、片時も一人でいることが耐えられなくなっておりました。
父に相談しようとも思いましたが、冗談や酔狂の類と思われたくなかったこと、それに近隣に広がる感染病だとは思われたくなかったことの二つの理由から、それは躊躇われました。
わたくし自身は病気について何も心配してはおりませんでしたが、近頃体調を崩されがちの父に余計な心配をかける訳にはいかなかったからでございます。
しかしわたくしの些細な様子の変化に気がつかれた方々がおりました。それはペドロン夫人とラフォンテーヌ先生でございます。
お二人は日頃から気軽にお話する仲でございましたから、元気なく、どこか妙にそわそわしているわたくしを気遣ってくださいまして、わたくしは心の荷が降りたかのように、お二人に打ち明けたのでございます。
ペドロン夫人は不安そうな表情をされておりましたが、ラフォンテーヌ先生は笑っておられました。
「そういえば、最近幽霊を見たという噂を耳にしましたわ」ラフォンテーヌ先生は笑いながらそう言いましたので、それを詳しく教えて欲しいとわたくしは尋ねました。
「カーミラの寝室からも見えます菩提樹の並木道に幽霊が出るんですってよ。マルティンが二度も見たって言ってたわ。夜明け前に門戸の修理をしていたら、菩提樹の並木道を若い女が歩いていく姿を」
「お止めなさいったら」ペドロン夫人は呆れたように言いました。「そんなの誰かが川に牛の乳を絞りに行っただけだわ」
「そうかもしれないわね。ただマルティンったら、それは酷く怯えちゃって。あの人のあんな姿、中々お目にかかれないわよ」
わたくしは横合いから口を挟みました。「その話、カーミラには話さないでちょうだいね。あの子ああ見えて、わたくし以上に怖がりだもの。きっと気が気でなくなってしまうわ」
その日、カーミラはいつもよりも遅くに降りてまいりました。
「昨日の夜、わたしは恐ろしいものを見たわ」彼女はわたくしの顔を見るなり言いました。「この間いただいた御守りがなければ、きっと恐ろしい目に遭っていたに違いないわ。譲って頂いたあなたのお父様に感謝しなければ」
そう言って彼女がわたくしに見せたのは、いつぞやカーチスが立ち寄った際に頂いた御守りでございました。
「わたしね、昨日の晩に恐ろしい夢をみたわ。それは黒い何かがベッドの前を駆け回りながら近づいてくる夢。わたしあまりの恐ろしさに目を覚ましたら、目の前に黒い服を着た女の人がベッド前に立っていたの。でも、慌てて枕の下に忍ばせていた御守りを握り締めたら、まるで雲のように消えてしまったわ。もしこの御守りがなかったら、わたしも巷の女たちのように絞め殺されていたのかも」
わたくしもカーミラに昨日の夜のことを話すと、彼女はぞっとしたように顔を青くされました。
「御守りは? 側に置いていたの?」
「いいえ。わたくしったら、居間に置きっ放しだわ。あなたがそこまで信用しているなら、わたくしも今日からは必ず持って寝ることにするわ」
今にして思えば、わたくしはよく一人で寝る気になったものだと思います。それでもカーミラからお墨付きを頂いた御守りを枕にピン留めいたしますと、殊の外安心感を抱きまして、わたくしはその晩は悪夢に苦しむこともなくぐっすりと眠りに就いたのでございました。
次の日もわたくしは快眠を覚えたのでございました。普段よりもぐっすりと眠り、夢も見ませんでした。
しかしながら、目を覚まし体を起こしてみますと、何だか奇妙な倦怠感に体が包まれているのです。
ですがそれは、普段より遅く目を覚ました時と同じような、気怠い中にある優雅なまどろみにも似ていて、わたくしは気にも止めませんでした。
居間でカーミラにぐっすり眠れたことを話しますと、彼女はにっこりと微笑みました。
「ほらね、わたしの言う通りだわ。わたしもここのところは安眠だわ。あの御守りを胸のところに下げて寝たの。もう取り乱して探すこともないようにね。わたし、悪夢は悪霊が見せるものだと昔は思っていたのだけど、お医者様の話ではそうではないのですってね」
「それでは何が人に病を見せるの?」わたくしは尋ねました。
「それは病よ。ただの病じゃなくて、人に高熱をもたらすような。病が人の体の中に入ろうとする時、それでも中に入れないと、病は人に警告のような悪夢を見せるのよ。それを避ける為の御守りね。きっと何か薬草を燻した布か何かが中に入っているんだわ。病除けになるもの」
「それでは御守りは、体にしか聞かないのでは?」
「もちろんよ。幽霊が鞣し革の小袋や、リボンの飾り付けを怖がると思って? きっとこの御守りもそのようなものだわ。御伽噺のような魔法なんて、現実にはないもの」
カーミラの説明に釈然としないものを感じながらも、それはそう言うものだからと言い聞かせて、わたくしはそれ以上考えるのを止めました。
数日の間、わたくしは夢見が良く、ぐっすりと眠れる日々が続きました。それでもやはり、目を覚ますと体が怠く、倦怠感は一日中続いていたのでございます。
体はもやもやと絡みつく鬱気に支配され、曇天の日のようにわたくしの心が晴れることはなくなりました。
いつの頃からか、わたくしはぼんやりと死について考えることが多くなったのでございます。
それは以前のわたくしでなくなってしまったような気持ちがいたしましたが、しかしそれが何故か嫌だとは感じないのです。
物悲しい気持ちになりますが、死についてのあれこれを哲学のように思案している間は、まるでバイオリンの美しい旋律に耳を傾けいる時のような、そんな心地よさがあったのでございます。
わたくしは自分が病気だとは思っておりませんでした。したがって父にもお医者様にもお話はしませんでした。
カーミラは今までよりも一層、わたくしを愛してくださるようになりました。発作のような愛の囁きも頻繁となり、わたくしを愛でる熱い視線も日を追うごとに増していきました。
わたくしが弱れば弱っていく程、カーミラの情熱は燃え上がっていったのでございます。その不気味とも言える狂気の愛が花咲く度に、わたくしは体を預けておりました。
カーミラがわたくしの髪を撫でながら深い口づけをすると、その間だけは気怠さのことを忘れられたのです。
わたくしはいつの間にやら、世にも奇妙な病のかなり進行した状態にまで陥っておりました。
体力はみるみる無くなり消耗しておりましたが、この病気に患った人間は強い陶酔感を伴うようでございまして、この時にはわたくしは病を受け入れておりました。
この陶酔感は段々と強くなっていき、ある時を境に少しずつ恐怖が混ざり出し、今度はそれが強くなっていくのです。
やがてはそれは、わたくしの中の自分という概念を歪めて、わたくしがわたくしでなくなっていくような虚無感に支配されるのでございました。
わたくしが体験いたしました変化は、むしろ初めのうちはとても好ましいものでございました。
しかし、それを一度でも過ぎてしまえば、後に待っているのは奈落の底でございます。
それはとても心地よい感覚でございました。それはいつだって、眠っている間にやってくるのです。
まるで水浴びをしている最中に川の流れに逆らって動いている時のような。この感覚にはいつしか夢が伴うようになりました。
暗闇の中にあって、いつまでも永遠にそこから出ることができないと思えてしまう程のその夢は、とても曖昧で、情景や出会った人物の顔すら思い出すことは叶いません。
ですが、自分が夢を見ていたという強烈な印象と、果てしない長旅を終えたような疲労感だけは残されておりました。
こうした夢を見た後には必ず、自分がどこか知らない場所にいて、姿の見えない誰かと会話をしていた記憶がございました。まるで何処からか遠い場所から話かけられているようでした。
わたくしが眠っている間、誰かに体を触れられているような感覚がありました。それから口づけをされているかのように、唇がわたくしの唇から頬、そして首筋に流れるように動き段々と喉元に近づくにつれて、その愛撫は大胆になっていくのです。
やがてそれが喉元で動きを止めると、わたくしの鼓動は早くなり、息苦しく胸の上下は激しくなりました。
呼吸が止まり、嗚咽が漏れ、首を絞められているような圧迫感がわたくしを襲い、最後には恐ろしい痙攣となってわたくしは気を失うのです。
この症状が始まってから、既に三週間が過ぎようとしておりました。
巷ではクリスマスに向けたアドヴェントが始まっていて、どこの家々も賑やかな飾り付けに彩られておりまして、我が家も例外ではありませんでしたが、最早わたくしには徐々に近づくクリスマスへ想いを馳せる程の余裕は残されておりませんでした。
わたくしはもう内面の疲れを隠すことも出来ないほど衰弱しておりました。顔は青ざめ、瞳孔は広がり、目の下の隈はとても大きくなっておりました。もうどなたが見てもわたくしは病人でございます。
しかし、わたくしは何故か頑なに自分が病気であることを認めませんでした。それこそ病的な程でございます。
それには理由もございまして、確かに体調は悪うございましたがそれを除いては体の痛みもなく、むしろこれは精神的な苦しみであると考えていたからです。
それに、近くの村では血吸われ病と呼ばれているあの病と、わたくしの病は違うとも思っていたのも一つでございます。あの病に罹られた人は三日も持たず亡くなってしまいますが、わたくしはもう三週間も過ぎておりましたから。
カーミラも悪夢を見たり体が熱っぽいと申しておりましたが、どうやらそこまで過剰になる程のものでもございませんでした。
一方のわたくしはと言うと、それは極めて深刻なものでした。
もしも、もしもわたくしが引き返せる最後の機会があったとしたら、間違いなくこの時であったと言えるでしょう。
しかし今も昔も、そのつもりは無かったことをこの場で述べさせて頂きます。わたくしは確実に死神に取り憑かれていたのでございました。
これからわたくしは、とある奇妙な夢の話をいたします。この夢がきっかけとなり、わたくしは一つの確信を抱くに至りました。
とある夜のこと、わたくしは毎晩のように暗闇の中で何者かと会話をしているようでしたが、今日は初めて聞く声でございました。
それは甘く囁くような声でしたが、何かを警告しようとしているような恐ろしい声でもありました。
「気をつけなさい。あなたの命を狙っているものがいる。それは狡猾であなたの友であるかのように振る舞いながら、心ではあなたを殺すことを夢見ている者よ」
そして、その声と同時に部屋の明かりが灯りました。何事かと思いまして、体を飛び起こすと、ベッドの足元に白いネグリジェを着たカーミラの姿がそこにはありました。
驚くべきことに、彼女の顎から爪先まで全身が赤黒い血に塗れていたのでございました。
わたくしは悲鳴と共に目を覚ましました。カーミラが殺されようとしている。そう思いましたわたくしは、寝間着のまま玄関広間に向かい、そして誰かいないかと声を上げたのでございます。
何事かと駆けつけた一団の中にペドロン夫人とラフォンテーヌ先生がいらっしゃいました。
わたくしは事情を話しますと、ペドロン夫人らと一緒にカーミラの寝室へと向かいました。
彼女の名を呼びながら部屋の扉をノックしますが、まるで応答がございません。扉を叩く音は軽い音からやがて拳で殴りつける鈍い音に変わっていきましたがそれでも返事はなく、わたくしの不安は募るばかりでございます。
「鍵を壊しなさい」わたくしは男の召使いに命じますと、召使いは戸惑いの表情を見せました。
「し、しかし、お客様の寝室の鍵を壊す訳には。それに旦那様のお許しもいただかないと」
「何を悠長なことを。お城の反対側にいらっしゃるお父様を呼びに行っている間にカーミラの身に何かあったどうなさるおつもり。お父様にはわたくしがお話します。ですから早く壊しなさい、これは命令よ」
そうして召使いは扉を壊そうと何度も体当たりをいたしましたが、扉はびくともしません。
そこに騒ぎを聞きつけてやってきたのは、昨日の晩からお城に来ていたカーチスでございました。カーチスは慌てて出て来たのでしょうか、彼の親衛隊の制服はとても乱れておりました。
「お嬢様。お許し頂けるならば、私がこれで壊します」そう言ってカーチスが腰のベルトから取り出したのは拳銃でございます。
「まぁなんてものを。早くその恐ろしいものをおしまいなさいよ」ペドロン夫人は恐ろしいものを見たかのように取り乱しておりましたが、わたくしはその拳銃が頼もしく思えたのです。
「いいわ、それを使って早く!」
爆発のような激しい音が二度、屋敷に響き渡りました。錠前は激しい火花を散らすと豪快に壊れました。
それからわたくしとラフォンテーヌ先生が中に飛び込みますと、部屋は壊れた扉をのぞいては、わたくしが寝る前におやすみと言った時と変わりはありません。
しかし、その部屋のどこを探してもカーミラの姿は見当たりませんでした。
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