八章
冬の寒さが日増しに厳しくなった頃のある夜、グラーツから色の黒い真面目そうな見た目の修繕師が、沢山の絵画を詰め込んだ二つの箱をトラックの荷台に乗せてお城にお越しになりました。
かつてシュタイアーマルク州の州都でございましたグラーツからは、わたくしどものお城まで五十キロ近い道のりがございますから、あの街からどなたか訪ねていらっしゃる時には、都会での新しい情報を求めてお客様がいらっしゃる玄関広間に、よく集まったものでございます。
普段は静かなお城も、この日ばかりは大変な騒ぎとなっておりました。ひとまず荷箱は広間に置いたまま、お客様は召使いに預けてご夕食を食べていただき、その後で修繕師のお手伝いをするべく召使いたちを引き連れ玄関広間に赴き、そこでようやく修繕師は荷箱の開封を行なったのでございました。
カーミラは椅子に座って、絵画が一枚ずつ取り出される様子を眺めておりましたが、その絵画がどれも肖像画ばかりであったためか、ただ単に興味がないのか、とてもつまらなそうなご様子でした。
わたくしの母の一族は、この地方にやって来る前はハンガリーにいたそうでございます。修繕師の元で綺麗に直され、こうしてお城に戻されようとしている絵画のほとんどは、母方の家に伝わっていたものでございます。
父は目録に目を通して、帰ってきた絵の一枚一枚の番号を読み上げては、取り出された絵画の状態を確認しておりました。
わたくしは絵画の審美眼を持ち合わせておりませんでしたが、どの絵も大層古く、描かれている昔の方々の奇妙な服装を見ては、これはいつの時代だろうかと推察しておりました。
絵の値打ちまではわかりませんが、こうして戻ってきた絵のほとんどは、長い間お城に放置されていて、埃や汚れなどによって何が書いてあるか分からない状態でございましたので、わたくしにとってはどれも初めて見るようなものでしたから、それは楽しい時間でございました。
「この絵はまだ見たことないな」父は目録に目を落としたまま言いました。「上の方に辛うじて読める文字でマルシア・カルシュタインと言う名前と一六九八年と言う年号が書かれている絵なんだが。仕上がりはどうなっている?」
その絵はわたくしにも覚えがありました。一辺五十センチに至らない小さな正方形の絵画で、額には入れられておりませんでした。それはとても古い絵でございましたので、痛みが酷く、何が描かれているのか判別が出来なかったものでございます。
修繕師はそれを待っていたかのように、誇らしげにその絵を取り出されました。わたくしはその絵の美しさに息を呑みました。その絵を見た途端、まるで体に稲妻が走ったかのような衝撃が走ったのでございます。
「ねぇカーミラ? ほら、ご覧なさいよ。この絵、あなたにそっくりだと思わない? まるで生き写しのよう。その髪の色を除いてではあるけれど」
その描かれていた絵は、まさにカーミラと瓜二つの美しい女性の肖像画だったのです。わたくしが指摘いたしました通り、髪の色は美しい銀の髪ではなく、黒髪でございましたが、お顔の造りやほくろの位置までも同じだったのでございます。
「あなたとそっくりでとても美しいわ。ねぇ、お父様。素敵じゃなくて?」
父も「ほぅ」と感心したような声をお出しになりましたが、そして少しの間無言になり、それから何事もなかったかのように修繕師とお話の続きをされました。
修繕師ご自身も絵をお描きになる方でございまして、父は修繕師の絵画についての専門的なお話に熱心になっておりました。
その間、わたくしは観れば観るほどその絵に魅了されておりました。それはカーミラに感じていたものと同じ気持ちでございます。
「お父様。わたくしこの絵を自分の部屋に飾ってもよろしいかしら」
「ローラがそうしたいと思うなら、取り立てて反対はしないさ」父は二つ返事でそう言いました。「随分と気に入ったようだね、父さんも嬉しいよ。きっとその絵の価値は、父さんが感じているよりもきっと、ローラにとって意味があるのだろう」
「ええ、これだけ素敵な絵ですもの。きっと素晴らしいものですわ」
その間カーミラはまるで話を聞いていなかったかのように振る舞われておりたした。背もたれに深く体を預けたまま、何かを考えているように長い睫毛の下から覗く紅玉色の瞳はじっとわたくしを見つめ、それからうっとりしたような笑みを浮かべました。
「わたくしどもはその絵の人物の名前をマルシアと読んでいたみたいだけど、どうやら違うようね。今なら読めるわ。そのお方はマルシアではなくマーカラだわ。カルシュタイン女伯、マーカラ。その上に小さな冠の印があって、西暦一六九八年って書いてあるわ。確かお母様がカルシュタイン家の血を引く一族でしたよね、お父様」
「まぁ、そうなの!」わたくしの言葉に応えたのは父ではなくカーミラでした。「わたしもそうよ。とても遠い、古い血筋だそうよ。お母様が言ってらしたもの。ねぇ、今はカルシュタインを名乗っている家はあるのかしら?」
「もうカルシュタインを名乗ってる人はいないのではないかしら。昔、内乱か何かがあって一家はお取り潰しになったそうらしいから。でもお城の跡は、ほんの五キロ先にあるわ」
「ふぅん……」カーミラは何か物思いに耽る様子で言いました。
「でも見て、あの月! なんて綺麗なことでしょう!」そう言ってカーミラは、少し開いたままになっていた玄関扉の隙間から空を見上げました。
「どうかしら、少し中庭を散歩してみない? 風が冷たくて気持ちいいわよ」
「本当ね。月が綺麗だわ。あなたがやって来た夜みたい」
カーミラはにっこりと微笑むと立ち上がりました。それからわたくしたちは、お互いの腰に手を回してお城の外へと向かいました。わたくしたちは一言も喋ることなく、のんびり跳ね橋まで歩いていきますと、外は月の光に照らされて、得も言われぬ美しい景色が広がっておりました。
「わたしが初めて来た日のことを思い出してくれたのね」カーミラはほとんど囁くように言いました。「ねぇ、わたしが来て嬉しい?」
わたくしは返事をせず、代わりにカーミラの手を握りました。
「わたしに似てるっていうあの絵、あなたの部屋に飾ってくれるのね」そう言って彼女はため息を吐き、わたくしを抱き寄せて、その愛らしい頭をわたくしの肩に乗せました。
「ふふっ。今日のあなたは随分感傷的じゃない。おかしいわ」わたくしは彼女の髪を梳くように頭を撫でてあげました。「いつかあなたがわたくしに全てを話してくれる時が来たら、それは大恋愛の話ばかりなのでしょうね。わたくし、嫉妬してしまうかも」
わたくしが冗談めかしてそう言うと、カーミラはわたくしの唇を啄むように口づけをしました。
「わたくしようやくあなたのことがわかった気がする。あなた、きっと恋をしておいでなんだわ。そしてそれは、きっと今宵の月のように美しくも幻想的な晩の日に。そうして結ばれた相手のことを今でも想っているのでしょう」
「わたくしは恋などしたことはないわ。今までも、そしてこれからも永遠に」カーミラはもう一度わたくしに口づけをすると、囁きました。「あなた以外の人とは絶対に」
月光の下のカーミラはとても美しゅうございました。それはとても妖艶で、淫靡な笑みを浮かべた彼女は、わたくしの首筋と髪に顔を埋め、熱っぽい吐息を漏らしておりました。
少し痛みを感じるくらいわたくしを抱きしめる腕は震え、わたくしに触れる彼女の頬はとても熱を帯びております。
「あぁっ! ローラ……ローラ……!」彼女は再び囁くように言いました。「わたしはあなたの中で生きているの。そしてあなたはわたくしのために死ぬのよ。だって、わたしはこんなに愛しているのだから」
そうして再三の口づけに、わたくしは応えました。いつの間にか、こうした熱に浮かされた時のカーミラに感じていた嫌悪感は、わたくしの中から消え失せていたのでございます。
気がつけば、彼女の愛の囁きを嬉しく感じている自分がそこにはあったのです。
彼女のわたくしへの気持ちは嘘偽りであることはわかっておりました。
けれど、例えそうであったとしても、愛を囁く時の彼女はわたくしをまっすぐ見ておりましたし、単純に申しましても、向けられる好意はそれは嬉しゅうございました。
「ねぇ、カーミラ。わたくしと約束して。いつか本当のあなたをわたくしに教えてくださると。そうすればわたくしはあなたを信じることが出来るわ。わたくしを愛してくださるあなたを」
「約束するわ。あなたへの愛に誓って」
そうして彼女を受け入れたわたくしは、彼女に抱かれたのでございました。
息の乱れたわたくしどもは、火照った体を鎮めるように、並んで地面の上に寝そべっておりました。冬の澄んだ空には数え切れない程の星が瞬き、美しい月を彩っておりました。
「もう戻らないと。お父様が心配されるわ」
わたくしは隣に寝そべるカーミラにそう言いました。
「もう少しだけ、こうしていましょう」カーミラは乱れたドレスから覗く白い肌を隠そうともせず、空を見上げていました。
「でも風邪を引いてしまうわ。それに、あなたのお身体は強くないはずよ」
「それでもいいわ。あなたさえ側にいてくれれば」
彼女は手探りでわたくしの手を見つけだすと、指を絡めて繋ぎました。「こうして一緒に月を見ていられるのも、多分これが最後だから」
こうしてしばらくの間、わたくしとカーミラは二人で横になっておりました。
雲一つない、煌々と輝く満月の下で。
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