十二章

わたくしが目を覚ましましたのは、見知らぬお部屋でございました。


部屋は隅々まで白く塗られ、飾り気のない窓が並ぶ、それはお屋敷のどの部屋と比べても手狭でございます。


そのお部屋に置かれた家具の類とも言えるものは、簡素なパイプベッドとその脇の床頭台のみでございます。


ベッドの上にわたくしは体を横たえておりまして、半身を起こして辺りを見渡しますと、あまりに無機質なそのお部屋は病院の一室であることを知りました。


年甲斐もない逃避行の果てに行き倒れたわたくしは、どうやら心優しいお方によって病院に運び込まれたようでございましたが、わたくしの住うお城や近隣の村に人一人に個室を設けることが可能な病院を存じておらず、いったいわたくしはどちらにいるのか、ただ不思議に思うばかりでございます。


しばらくすると看護婦がわたくしがいる部屋を訪れました。


わたくしが目を覚ましているのを見て驚かれた様子でしたが、すぐに落ち着かれた様子でわたくしを観察し、人を呼びに部屋を後にされました。


それから程なくお医者様がまいりまして、診察の最中にここがグラーツであること、わたくしが病院の前に倒れていたこと、そしてもう三日眠り続けていたことを教えてくださいました。


お医者様は順を追ってゆっくりとわたくしにお話してくださいましたが、それでも戸惑いと困惑を覚えることは当然のものではないでしょうか。


わたくしの住うお城からグラーツまでの距離は50キロはあり、車でこそ数時間の距離ではありますが、小娘の足で辿り着くには容易な距離ではございません。


わたくし自身も、まさか自分が森を抜け近場の村落すら越えてここまで辿り着いたとなどは思えませんので、やはり誰かがここまで連れて来たに違いありません。


そこまで考えが至った時に、わたくしは意識を失う手間で何者かの人影を見たのを思い出しました。


「カーミラだわ。きっとカーミラがわたくしをここまで運んで来たのだわ。確かにはっきり姿を見てはいないけれど、他の誰がわたくしを助けてくれるというのかしら」


カーミラという名をお尋ねになるお医者様にわたくしは答えました。「わたくしの大切な、大切なお友達」


「大切なお友達なら、普通は君を外に野ざらしにはしないと思うがね」


そうお医者は仰られたのでわたくしはカーミラのことを悪く言われむっといたしましたが、お医者様は構わず続けます。


「病院の前で看護婦が君を見つけた時、君は酷く衰弱していた。それこそ生死の境を彷徨っていたと言ってもいい。事実、初めて君を見た時吾輩はもう助からないと思ったくらいだ。君が今こうしているのは神の御技であるとしか言いようがないのだ。そんな状態の君を置いてけぼりにするのが、君の言う大切な友達なのかね?」


「ええ、彼女らしいわ。あの子ったら以前わたくしにお医者様が嫌いだと言ったことがありますの」


それを聞いたお医者様はそれでも府に落ちないという具合でございましたが、それ以上詰問されることはございませんでしたし、わたくしもこれ以上答えるつもりもありません。


お父様との言い合いをした件も含めまして、どなたにもカーミラのことを知って欲しくないと、そう思ったからでございます。


さて、お医者はわたくしの診察を終えますと、少し体力が落ちていることを除いては至って健康であると教えてくださいました。


わたくしが目を覚ましたのはお昼をだいぶ過ぎた頃でございまして、三日も何も食していないわたくしを気遣った看護婦がサンドイッチを皿に乗せて持ってきてくださいました。


ですがわたくしは、どういう訳かちっともお腹を空かせてはおりませんでした。むしろ食事をとるという動きをするのも億劫な気がして、結局は口に運ぶことさえしませんでした。


心配する看護婦にわたくしは非礼の詫びと、それでも空腹ではありませんがかといって体の不調もないことをお伝えいたしますと、サンドイッチの乗った皿だけを残しお医者様と二人して部屋を後にされました。


部屋に一人残されたわたくしは、置いていかれたサンドイッチをどうしようかと床頭台の上によけてから、お医者はどうしてわたくしの身元をお尋ねにならなかったのかと疑問に思いました。


行き倒れの小娘を、いくら大都会にある病院とはいえ個室に入れておくなど考えられないことでございます。


その答えは、それから数刻の時が過ぎ、辺りが暗闇に包まれた頃になってから判明いたしました。


わたくしは病室で暇を持て余しておりました。と言いますのも、この部屋は清潔であることを除いては何もなく、わたくしが出来ることといえば窓の外からグラーツの景色を眺めることくらいでございます。


初めのうちは行き交う人の多さや頻繁に行き来する荷馬車や車の数に圧倒されておりましたが、やはりお城から眺める雄大な自然の美しさに敵う景色はこちらにはなく、その上窓を少しでも開いてみれば、工場の悪臭がたちまち部屋に立ち込めまして、わたくしは都会というものに嫌気が差すばかりでございました。


ほんの少しだけ病室を抜け出し院内を散策してみたはいいものの、病院のとりわけ大きなお部屋では戦いで傷を負われた兵隊さんの苦しげな呻き声ばかりが響いており、わたくしは恐ろしくなって部屋に逃げ帰ったのでございます。


そんな折、部屋のドアを叩く音が聞こえてまいりまして許しを出しますと、ドアを開けて入ってまいりましたのは、紛うことなきわたくしの父でございました。


お医者様のお話を信じるところであれば、わたくしがお城を飛び出してもう三日が過ぎておりましたが、父はその三日の間に酷く痩せており、お顔はとても疲れた様子でございました。


「ああ、ローラ。ローラ! 私の愛おしい我が子。最愛の娘よ! お前が無事で良かった。あの時は酷く言ってしまったが、お前がいなくなってしまってから、どれほど私が心配し、どれほど苦しんだことか。いや、私の話はいい。今は私の娘が無事に生きていることだけを神に感謝しなければ」


そう言うと父はわたくしを強く抱きしめて涙を流されました。


そんな父の様子を見まして、そこでわたくしは今の今まで抱いていた父に対する反感の気持ちがたちまち消えまして、代わりに自らの愚行を恥じたのです。 


なによりお父様のやつれた姿を見せられては、いつまでも子供のように振る舞うことはできません。


「わたくしはなんて親不孝な子供なのでしょうか。この世で何よりわたくしを愛してくださるお父様をこのようなお姿にしてしまうなんて。ごめんなさい、お父様。どうか莫迦なわたくしをお叱りになって。あの日のようにわたくしは逃げ出したりなどいたしません。だってわたくしはようやく気がついたの。お父様はわたくしを心配なさって言ってくださったことなのだから」


そうしてわたくしも父の抱擁を受け入れ涙を流したのでございました。しばらくした後に父がわたくしから離れますと、わたくしはどうやってわたくしの居場所を知ったのか尋ねました。


「お前がお城を飛び出してから、しばらくは私も娘の反抗に腹を立てていた。しかし……まぁ恥ずかしい話ではあるがね、ペドロン夫人とフォンテーヌ先生に諭されて、そこでようやく私がしでかしたことに気がついたのだ。そこで私は召使達と共に森や村の幾つかを捜して回った。それでも遂にお前は見つからず二日が過ぎ絶望に暮れていた頃、ちょうどその頃に我が家の電話が鳴ったのだ。その電話の主はお前もよく知るシュピールスドルフ卿……いや、今はシュピールスドルフ将軍と呼ぶべきか。ともかく彼からだった。突然の電話に私は何事かと思ったが、どうやら将軍はベルリンでの用を終えてシュタイアーマルクに戻っていたらしい。自宅に帰る前に寄ったグラーツで身元が分からない女が病院にいると聞いた将軍は何か思うところがあったのだろう。その女の様子を見に行ったところ、そこにいたのはまさにお前だったのだ。酷く衰弱した様子だったが回復しつつあるお前を将軍は、フランスで傷ついた兵ばかりがいる大きな広間からこの個室に移してくださったのだ。そこでようやく安心し一眠りした私は、お前が目を覚ましたという報と同時にここへ来たのだ」


父はわたくしが眠っておりました間のことをそのように語られまして、わたくしはこれほどまで父に愛されている事実に胸を打たれました。


もちろん、わたくし達には未だカーミラの扱いを巡る確執が残っておりまして、それでいても今日この日ばかりは触れられずに終われば良いとさえ思っておりましたが、そもそもわたくし達がこうしてグラーツの病室で再会するきっかけとなったことでございますから、そう都合良くはいかないものと存じます。


わたくし達は互いの再会を喜び、言葉を重ねてまいりましたが、父は折を見てカーミラについて触れられました。


「お前は私がカーミラのことで私自身の見解を話すことを嫌がるだろうが、どうか聞いて欲しい。私がああ言ったのはお前が年頃の近い男ではなく女を選んだからとか、そういう思慮の浅い見識からではないということをどうか知って欲しいのだ。無論これから話そうとすることは、お前をまた怒らせてしまうかもしれないが、決してお前に意地悪しようとしているのではないことだけは理解してくれ」


父は恐る恐るわたくしの反応を伺うように前置きをされましたので、わたくしは「どうぞお話になって」と告げました。


「いや……どうしたものか、つい今までお前に語ろうと固く決意したものであったが、やはりやめておこう。これは私も聞いただけの話であるし、私自身未だに戸惑っているところでもあるからだ。私が聞いた話は今まで私が生きてきた中で培ってきた見識や常識が大きく揺らいでしまうものだったのだ。だが、それは抜きにして考えてみても、一つの仮説が浮かび、それはどう考えてもそうとしか思えないのだ。ローラ、私が話せることと言えば、カーミラがいなくなってからというもの、最後に若い女が死んでからもうしばらく経つというのに誰も死んではいない。それどころか村の流行病はぴたりと止まったのだ。そしてまた、お前の体の不調すらも良くなった。これは結果から推測したものであるが、私はそうではないかと思っている」


そこまで黙って聞いていたわたくしでございますが、お父様は意地悪ではないと仰いましたがやはりわたくしには耐えがたい苦痛となりました。


しかしここでまた癇癪を起こしては同じことの繰り返しであることは明白でございまして、わたくしは反感の気持ちをぐっと殺してお父様に尋ねたのでございます。


「お父様はカーミラこそが、あの恐ろしい病の原因であると、そうお考えなのですね?」


「いや、まだそうであると決まった訳ではないのだよ。だからそんな目で私を睨まないでくれ」


お父様の物悲しそうな表情と共に指摘され、わたくしはそこでまだ自分の感情が表に出てしまっていることに気が付きましたが、しかしこればかりはどうしようもできそうにありませんでした。


「私はそうではないかと、お前を診察しにお城にきた医者から聞かされたのだ。そしてその話を裏付けるような証言を我が友シュピールスドルフ将軍から聞かされたに過ぎない。だから私は明日、それを確かめに将軍と共にカーミラのところへ行こうと思う。お前も一緒について来なさいローラ。ここの医者にはもう出ても良いと許しを貰っている」


「お父様はカーミラの居場所をご存知なのね? 教えてください、カーミラは今どちらにおられるの?」


わたくしはあっという間にお父様をまくし立てましたが、お父様は冷静にわたくしを宥めてから口を開かれました。


「私達は明日の午後、将軍が用意した車で出発する。このグラーツから車を使っても数時間は掛かる距離だから、その間にお前は将軍から、私が聞かされた話と同じ話を聞きなさい。その話を全て聞き終わった時に、お前はあのカーミラについて知ることだろう。そうしてようやく、お前は父さんがいつだってお前を大事にしていることに気がつくだろう。だから今はお休みローラ。お前は何があろうと私が守る」


そうしてお父様は私の額に口づけをされますと、病室を後になさいました。

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