十三章

さて、父が病室をお出になられた後の話でございますが、わたくしは一睡もすることが出来ませんでした。


もしやわたくしは再びカーミラをこの目に収めることが叶うのではないかという期待に興奮し、眠気をどこかへ追いやってしまったのではないかと思いました。


それは親に遠出の約束をされ、興奮し寝付かなくなる子供のように、わたくしもそうなのだと。


わたくし自身もそういった経験がございましたから、今宵の落ち着かなさもそうなのではと納得し、このまま体を横たえていればいずれ眠りに落ちるだろうと、じっと堪えておりました。


しかし、わたくしは眠りに落ちるどころか夜が更けるにつれて、ますます目が覚めるばかりで、とうの昔に明かりを消したこの部屋の暗さに目が慣れたせいか、夜であるのにまるで昼間のようにはっきりと見ることの出来る病室を、ただ眺めてはじっとしている他にありませんでした。


それだけであればわたくしもどれだけ良かったことかと思います。


今日まで幾度かこうして眠れぬ夜を過ごしたことがございますが、今宵感じたことは、わたくしが今まで生きてきた中で一番と言って差し支えないほどに、辛い夜でございました。


わたくしは暇を潰すものさえなく、昼間でさえ退屈であった病室との闘いに臨んでおりましたが、次第にわたくしは強烈な喉の渇きに襲われて、それは段々と抗えぬものとなりました。


わたくしはその喉の渇きを解消するべく、消灯前に看護婦が用意してくださった水差しを手に取って、グラスに注いでからそれを飲み干しましたが、そうしても喉が潤うことはありませんでした。


そしていつの間にか水差しを空にして、それでもなお堪えきれない渇きの前に私は酷く苦しみ、その様子ときたら、ここまで赤裸々にわたくし自身のことを明かしてきたこの手記に書くことさえ憚られるほどでございます。


そんな折、わたくしはふと床頭台に置かれた赤色の丸いブリキ缶に目が止まりました。


それは食欲がないと夕食を摂ることさえ拒んだわたくしに「せめてこれだけは食べておきなさい」とお医者様がくださったチョコレートでございました。


わたくしはお城でもキッチンメイドお手製のチョコレート菓子を頻繁に頂いておりまして、ほろ苦い味の中にもしっかりと舌に伝わるまろやかな甘さのあの味が好物でございました。


また、チョコレートを頂きますと、不思議と心が落ち着くような効果を得ることが出来まして、そのことを思い出したわたくしは急いで蓋を開きますと、中から一片を取り出しまして口に含みました。


するとどうでしょう。少しではありますが、体の底から湧き上がる喉の渇きが改善されたのでございます。


その欲求は完全に消えた訳ではございませんが、それでもチョコレートを再び口にしますと、どうにか堪えられるくらいには症状が落ち着いたのでした。


そうして度々襲いくる喉の渇きをチョコレートで抑えつつ、わたくしはどうにか夜を越したのでございます。


そのうちに外には陽が登り、辺りが段々と青白さを取り戻してきた頃に、わたくしにもついに眠気がやって参りまして、わたくしは重さを増す目蓋に抗うことをやめたのでございました。


わたくしがようやく目を覚ましたのは、やはり昨日と同じ頃の昼過ぎで、これではもうカーミラのことをとやかく言う資格はなくなってしまったと、それでもなんだか胸の奥が熱くなるような感じがいたしまして、不思議とわたくしの頬は緩んでおりました。


しかし昼過ぎといえば父と、それからシュピールスドルフ卿とカーミラのところへ向かうと約束していた時刻でございますから、わたくしは急いで身支度を整えますと、昨晩のうちにほとんど食べてしまったチョコレートの最後の欠片を口に入れまして、父の来訪を待ちました。


父がやってまいりましたのはそれからすぐのことで、退院の手続きに時間が掛かってしまったとわたくしに詫びを述べてから、二人連れ立って病室を後にしました。


わたくしがおりました病院は、窓から覗いただけでは分からぬほどの大通りに面しておりまして、多くの往来がそこにはありました。


病院を出ましてその大通りに差し掛かりますと、道路に面したすぐの場所に黒塗りの高級車が停まっており、その車の前には漆黒の制服を纏ったカーチスの姿がございました。


カーチスはまず父に恭しくお辞儀をしてからわたくしにも同じようにして、それから後部座席の扉を開けてくださいました。


父の後に続き車の中に乗り込みますと、前の運転席の隣の座席には先に乗られていた方がいらしたようで、その方はわたくし達が乗り込んだや否や、後ろに振り向きそのお顔をお見せになりました。


そのお方はやはり以前にもお会いした父の友人シュピールスドルフ卿でありましたが、わたくしが知るシュピールスドルフ卿は穏やかなお顔された、知的で物腰柔らかな雰囲気をお持ちの方でございましたが、そうしたものの一切は今はなく、どこか影を帯び、そして痩せ細り、にも関わらず炯々とした目つきをお持ちになっておりました。


そしてカーチスと同じでありながら、より格式張った漆黒の衣装のお姿は、まさしく厳しい老将軍といった風格でございまして、わたくしは圧倒されておりました。


「久しぶりだな、ローラ。君があの父親から逃げ出して、グラーツにまで来てしまうとは、何というべきか、よもや逞しく育ったものだ。病院で弱り切っていた君を見つけた時は驚いたが、何、たったの数日でこれほどまで元気になるのだから、やはり若さというものは羨ましい限りだ」


その時、そうお話される将軍のお顔が一度だけ昔の、過去にわたくしが知る将軍のお顔になられましたので、ようやくわたくしも緊張を解くことが出来たのでございます。


「お久しぶりです将軍。またお会いできて光栄です。そして何より、わたくしにわざわざ個室を充てがっていただいたことをお礼申し上げます」


「なに、あれくらい大したことではない。友人の大切な愛娘をあのようなところに置いてはおけないからな。にしてもあの病院ときたら、フランス帰りの相手で手一杯なのは理解出来るが、あのような場所に淑女を寝かせるとはけしからんことだ。なにより君は私のベルタのために胸を痛めてくれたと聞いた。これはその礼だとでも思ってくれ」


将軍がそう言い終わる頃、運転席にはカーチスがお座りになっておりました。


「中将。出発されますか?」カーチスは将軍にそう伺うと「ああ構わん。出してくれ」の返事を受けて車のエンジンを始動させました。


車はごうごうと音を立てますと初めはゆっくりと、やがて加速して走り出します。


中にいるわたくし共にはそれがどのくらいの速さであるか分かりませんが、車窓から覗く景色が川のように流れていく様をみるに、それはとても速いものであると存じます。


「さて将軍。これから何処に向かうのか、そろそろ私にも教えてくれてもいいだろう」


父がそう口を開いたのは車が出発して間もなくでございました。


「ああ勿論だ。今から向かうのは君達も、そして私もよく知る場所だ。君達の城から5キロばか進んだ先にある、曰く付きの廃墟。そして悪魔の巣窟。呪われたカルシュタインの城だよ」


それを聞いたわたくしと父は二人して驚いたように目を丸くしました。


これから向かう場所は、よりにもよって我が家の近くであったからでございます。


「カーミラは……カーミラはそちらにいらっしゃいますのね? あの朽ちた大きな礼拝堂のある、あの場所に」


まさか自分が暮らしている場所のそんな近くに、わたくしが会いたくてしょうがない愛しのカーミラがいるとは思ってもみなかったわたくしは、飛びつくように将軍に伺ったのでございました。


「カーミラか。あの女は君達にそう名乗っていたのかね」


将軍は訝しむようにそうお尋ねになったので、わたくしはその通りでございますと申し上げました。


すると将軍は「やはり間違いない」と一人言葉を漏らされてから、何やら思い詰めたように眉間に皺を寄せております。


それにしてもあの女呼ばわりにはわたくしは納得がいかず、将軍は以前カーミラとお会いになったことがあるのかと聞きましたが、その質問にはお答えになりませんでした。


その代わり、しばらく喉を唸らせてから将軍は父にカルシュタインの一族がまだいるのかをお尋ねになりました。


「いや、カルシュタインはもう何世紀も前に途絶えている。私の妻の家がカルシュタインの遠い血族であるようだったが、それにしてももうその名前も家督も何もかもがあの廃墟のように朽ちてしまったよ。屋根もなく雨晒しで風化が著しい」


「そうだろうな。私も改めて彼の地について学んだ。そして君以上にカルシュタインについても詳しくなった。そしてそれはどれも君が驚くようなことばかりだ。その一部は少し前に話をしたが、それを君がどれほど信じてくれたことか。だと言うのにだ、この話は子供に聞かせる御伽噺のように見えて、紛れもない事実であるのだ」


将軍のお話ぶりは段々と熱が入り、そうしているうちにお話は今は亡き姪御ベルタ嬢との死別の辛さについて語りだし、遂には声を荒らげて「ベルタは悪魔の罠に嵌められたのだ!」と叫びました。


わたくしはお話しか聞いておりませんでしたが、将軍は身元を預かり愛を以て育てていらっしゃった大切な姪御さんを失ったのですから、さぞお辛いのでしょう。その辛さが将軍の怒りの源となっておいでのようです。


「ベルタは私の愛する姪……いや、我が子と言ってもいい。それは愛嬌のある美しい娘でね。それもあの子が逝くまでは花盛りの年頃であった」


「存じているよ将軍。以前に一度会ったきりだが、とても美しいお嬢さんだったことをよく覚えている。だから君からの報せを聞いた時、私達がどれほど衝撃と悲しみを受けたことか。あなたの悲しみは察して余りある」


父はそうして将軍の手をとられますと、将軍も優しく手に力を込めました。


将軍はちらりとわたくしを一瞥いたしますと、こう語り始められました。


「ありがとう。ベルタは私の全てだった。私が彼女に惜しみない愛情を注いでやると、彼女もそれに応えてくれた。おかげで我が家は常に笑顔が絶えず、私の人生は幸福で溢れていた。そしてあの子は君の娘に会うのをとても楽しみにしていた。年頃の近い新しい友達が増えることを喜んでいたんだ。だが、それは叶わず、私は全てを失ってしまった。私の命はもう長くないだろう。しかし私はこの汚れきった今の立場を利用してでも、必ずや化け物共をこの地上から駆逐すると、そう決めたのだ。その為ならば手段を問うつもりもない。明るい未来を約束されていたベルタを奪ったあの悪魔の息の根を止めてやると誓ったのだ!」


そう声高に宣言された将軍は全身を震わせておりました。


「では将軍。約束通りに私に全てを、そしてこのローラにも教えてやってはくれないか」


父の問いかけを聞いた将軍はすぐに返事をせず、車を運転しているカーチスに声をかけました。


「少尉。目的地まではあとどれくらいかね」


「はい中将。あと一時間ほどです」


カーチスの言う通り、いつの間にか車は大都会グラーツを抜けていて、辺りは何もない草原の真ん中に作られた街道を走っておりました。


「では、まだ話をする時間はあるな」


そう前置きをされてから、ようやく将軍は口を開かれました。

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