十六章
「そうやって預かったはいいが、どうにもミラーカにはおかしなところがあってね」
将軍はそう前置きされますと、長い間後ろ向きでお話されていましたから首が痛くなったのでしょう。首筋に手を当てて右へ左へ動かされておりました。
「どうにも彼女は落馬の一件以外にも大きな病気を患ったことがあるようだった。
常に体が怠いらしく、起きてくるのはいつだって昼を過ぎた一時か二時頃だった。そしてどういう訳か食事の一切を摂らず、一杯のココアでそれを済ませてしまうのだ。
それと、これは偶然知ったことなのだが、彼女はメイドに支度を手伝って貰う時を除いては、夜は必ず内側から鍵を掛けてしまうのだが、そうやって私達には眠ったものと思わせておいて、本当は時々外に出ているのは間違いなかった。
ウィーンの私の別邸であれば、近くに若い娘が夜遊びするような施設もいくらかはある。
しかし、これは君も存じているだろうが、私の屋敷は君のお城と同様か、もしくはそれ以上に辺りには何もないのだ。
にも関わらず外に出て何をしているかは定かではないが、その様を初めて見た使用人達は幽霊が出たと騒ぎ立てていたよ。
そうして私はミラーカが夢遊病であることを確信した。
私がその問題に頭を抱えている頃、ゆっくりであるがベルタの調子が悪くなっていったのだ。それは奇妙な病気で、私の知るどの病気とも異なっていた。
ベルタはまず悪夢を見るようになった。そしてしばらくすると悪夢には幽霊が現れるようになる。その幽霊は時に獣の姿をし、時にはミラーカにそっくりであったと言う。
幽霊は鍵を掛けているはずの寝室に音もなく忍び込み、やがて部屋のあちこちをうろうろしてからベッドにやってきて、胸に二本の牙で刺されたような強烈な激痛がやってくるのだそうだ。
それから首を絞められるかのような感覚に襲われて、意識を失う。ベルタはこんな風に語っていたよ」
将軍が語られるベルタ嬢の症状を、わたくしは複雑な気持ちで聞いておりました。
それもそのはずで、ベルタ嬢が感じていたそれは、わたくしの症状とまったく同じであったからでございます。
そして将軍が語られたミラーカと言うお嬢さんの行動の何から何までが、それはわたくしが良く知る人物と全く一緒でございまして、だからこそわたくしはようやく理解したのでございます。
「ベルタの容態はついに深刻になった。ベルタの病には医者の治療も何も役に立たず、私は弱り苦しむベルタを見守ってやることしか出来なかった。
私はまだベルタはただの病で、他に助かる道もあるだろうと思っていたが、その様子がとても深刻に見えたのだろう。
いや、もちろん深刻であったが、医者は私に別の医者にも意見を聞くように勧め、そして一人の医師を紹介してくれたのだ。
私はさっそくその晩医師に電話すると、快く引き受けてくださって、次の日の昼にはグラーツから私の屋敷に来てくれた。ローラ、君のことを診察してくれたあの医者だよ。彼は街一番と名高い医者でね、だからこそ、私は君を診てくれるよう頼んだのだ。
さて、その医者はさっそくベルタを他の医者同じように診察したのだが、その顔は見る見る曇っていく。
何事かと私が問いかけると、医者は頭を深々と下げて私に詫びるのだ。
『申し訳ない将軍。この病は吾輩の医学ではどうにも役に立ちそうもない』
その言葉を聞いた私はまさに目の前が暗黒に包まれたようだった。そしてみっともなく喚き、そして時に恫喝するように、その医者に懇願したのだが、グラーツ一番の医師を以てしても、こればかりはどうしようもないようだった。
しかし医者は『まだ手がない訳ではないかもしれない』と言うので、言葉通りに縋りついた。
すると医者は十五分ばかりを時間をくれと言い、そのまま机に向かって何か書物を始められた。
その間私は医学では太刀打ち出来ない病であるなら一体それは何なのか、そしてベルタは本当に助かるのか、そのことで頭がいっぱいになり、落ち着かないまま気がつけば中庭にまでやってきていた。しばらくすると、書物を終えた医師が私の後を追いかけてきた。
『はっきり言いましょう将軍。あなたには信じられないでしょうが、あの病気はこの自然界に存在するものではない。そして、もう彼女の余命は幾ばくか。恐らくは今夜、良くても明日には不幸が訪れる。だが悲観する必要もないでしょう。もし、今夜症状を防ぐことが出来れば、彼女を適切な場所に移し治療を施しさえすれば、間違いなく助かる。だが私の見方が正しければ、そもそもの原因を取り除かなければ、今すぐ病院に運んだとしても手の施しようがない』
『先生、原因とは一体なんでしょう。それにあなたは症状を防がなければならないと言ったが、普通ならば症状は抑えるものではないのですか?』
『全てはこの手紙の中にある。しかしこれをあなたに渡すのには条件がある。決して一人でいる時に読まないことだ。そうでなければ、あなたはこの手紙に書かれた重要なことを真に受けず、誇大妄想の精神分裂病と吾輩を誹ることだろうから。吾輩自身もそうであって欲しいと願うが、残念ながらこれは事実であろう。だからお願いだ。これを開く時は必ず近くの牧師を呼び寄せてから一緒に読んで欲しい。それが叶わない時は一人で読んでも構わない』
医師は屋敷の去り際になって私にこう付け加えた。
『もし手紙を読み終えた時、そしてこの一件にある種の終着が訪れた時にあなたは全てを知りたいと思うかもしれない。そうしたならば、あなたよりも更に上位のお方、ベルリンにおられる彼の親衛隊全国指導者の側近に、この手のことに明るい人物を吾輩は知っている。もしその方を訪ねる気になったなら吾輩に連絡してくれ。吾輩から電報を打ってあなたの来訪をお伝えしよう』
私はさっそく近くの村の牧師を訪ねて車を出したが、それは徒労に終わった。牧師は不在であったために、私は屋敷に戻ると一人で手紙を読んだ。
もし、今回の件とまた違う折でこの手紙を読んでいたならば、私はまともに相手をしないどころか、あの医者のところに警察をけしかけてふんじばってやっただろう。だが最早ベルタの命が今晩とまで言われてしまっては、それほどの余裕など私にはなかった。
その手紙に書かれていたことは、まさに常軌を逸していた。確かにこれは精神分裂病の患者が書いたに違いないと言いたくなるようなものだった。
驚くべきことに、ベルタを襲う病とは病にあらず、吸血鬼の仕業だと言うのだ。
手紙によれば、胸にある二人の傷は吸血鬼がまさに血を吸うために用いる二つの牙によるもので、残された青痣は吸血鬼がその牙と共に口をつけた証拠であるらしい。
ベルタの語る症状も、過去に吸血鬼に襲われた者達の証言とも一致すると言う。
私は吸血鬼などという馬鹿げた存在を信じてはいなかった。幼少の時分に祖母が健在であった時、祖母はこのシュタイアーマルクには恐ろしい吸血鬼が住んでいるなどと昔はよく聞かされたものだったが、それにしても子供に聞かせる御伽噺の類に他ならなかった。
あの医者は相当に頭の良い医者であったが、頭が良すぎる故に妙な妄想に取り憑かれやすいのだろうと私は思った。
しかし今のところ、私にはこの手紙の他に頼るものもない。手紙には吸血鬼と遭遇した時の対処の方法も指示されていたので、私はその通り従うことにした。
ベルタをランプが一つ照らすだけの薄暗い寝室のベッドに眠らせると、私は部屋に通じる衣装部屋の影に身を潜め、ベルタが眠りに落ちるのを待った。
そうしてベルタが眠ってから数時間が経ち、私は右手に握りしめたルガーを決して離すことなくそれが来るのを待ち続けていた。
一時を少し過ぎた頃、ベルタが眠るベッドのすぐ近くに蠢く黒くて大きなものが現れた。
それはゆっくりとベッドに這い上がり、やがてベルタに覆い被さるように動いていた。
私はその異様な光景に恐怖し足が竦んでしまったが、意を決して寝室に踏み込むと、黒い化け物は驚いたように姿を翻し私に正体を晒した。
なんと、その化け物の正体はミラーカであったのだ!
黒衣の衣装を身に纏っていた彼女はそれだけであったならば、それはいつもと変わらない美しき客人ミラーカだ。だがその時は顎から足の先までべったりと血で濡らす恐ろしい姿をしていたのだ。
私はすぐさまミラーカに狙いをつけて引き金を引いた。ベルタに弾が当たらぬように、それでも何発も。
しかしミラーカは恐ろしい速さで動き回り全て避けてしまった。まるで私を翻弄するように、そして嘲笑うかのように部屋のあちこちに瞬時に移動した。
まさしく人間離れした動きに私はついていけなかったのだ。
遂に弾倉が空になり、私は窮し直接ミラーカに飛び掛かった。しかし弾を避けられるくらい素早く動く化け物を捉えることなど不可能だ。
ミラーカはどういう訳か窓を開けることなくするりと抜け出して外に飛び出してしまった。
私の屋敷に詰めていた部下の兵士に辺りを捜索させたが、痕跡一つ見つからなかった。
その後のことはあまりに慌ただしく覚えていない。だが一つだけ強烈に覚えていることは、私にとってその出来事は敗北であり、悲しみの日となった。
奴の餌食になったベルタは朝日を見ることなく永遠の眠りに就いたのだ」
将軍は遂に一連のベルタ嬢に纏わる顛末を語り終え、瞳からは大粒の涙を流されておりました。
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