五章

それはわたくしの人生で最初に強く印象に残った出来事でございました。思い出せる限り一番古い記憶の一つでございますが、これは今なお色褪せ消えることなくわたくしの胸に残り続けているのでございます。


お城の上階に、わたくしが子供部屋として使っていた部屋がございました。楢材の羽目板張りで造られた斜めの天井の大きな部屋でございまして、幾つものベッドが並べられておりましたが、わたくしはひとりっ子でしたので、その広い部屋を一人で使っておりました。


わたくしがちょうど六歳の頃だったでしょうか、ある夜わたくしは夜中に目を覚ましました。ベッドから辺りを見渡すと、部屋付きのメイドの姿も子守の姿も見当たりませんでした。わたくしは今一人ぼっちなのだと思いましたが、それでも怖くはありませんでした。と申しますのも、わたくしは怪談や御伽噺といった類のものを慎重に遠ざけて育てられましたので、同年代の子供たちが怯えてしまうような夜の漆黒や部屋のきしむ音、唸り声のように吹き荒ぶ嵐の風にも恐怖を抱くことはなかったのでございます。


しかし、その時のわたくしが抱いていた唯一の恐怖というものも当然ございました。それは何よりわたくしが放ったらかしにされ、寂しさを感じることでございます。遂にわたくしは見捨てられたと一人でめそめそ泣き始め、さぁそろそろありったけの大声で泣き喚こうとしたその時でございます。驚いたことに、それは気品に満ちた美しいお顔がベッドの脇からわたくしをじっと見つめているではありませんか。


それは若いお嬢さんの顔で、ベッドの脇に膝をついてこちらを覗き込んでおりました。


わたくしは驚きつつも、そのお顔にうっとりと見惚れ、いつの間にか泣き喚くことも忘れていました。彼女はわたくしの頭を優しく撫でると、わたくしの横に座って、わたくしを抱き寄せてからにっこりと微笑みました。


その微笑がいつか見たモナリザよりも美しく思えたわたくしはすっかり気を許し、いつの間にか再び眠りに落ちたのでした。やがて胸にチクリと二本の針で突き刺されたような痛みに目を覚まし、大きな悲鳴を上げました。


お嬢さんは驚いたように身を退き、わたくしを見据えたまま床に降りて、ベッドの下に隠れたようでございました。


ここに至ってわたくしは恐怖を覚え、声が枯れるほどに泣き叫びました。


わたくしの悲鳴を聞き付けた子守と、子供部屋付きのメイド、それからたまたま近くを通りかかったキッチンメイドまでが揃って子供部屋に駆けつけてくださいましたが、三人はわたくしをあやすばかりで話を少しも聞いてくれませんでした。


ですが、三人が珍しく不安に顔色を青くされている様子を子供ながらに見て取りましたし、それぞれがテーブルの下やタンス、窓の向こうを隈なく探している様子を訝しく思いました。メイドが子守にこう耳打ちしているのも聞いておりました。


「あそこのベッドの窪みを触ってごらんなさいよ。確かに誰かがいたんだわ。まだ暖かいもの」


子守に撫でさすってもらいながら、刺されたような酷い痛みを感じた辺りをメイドに調べられましたが、そのような跡はないと言われましたのをよく覚えております。


それから三人はわたくしのために寝ずの番をしてくださいました。それから騒ぎを聞きつけた父は召使いに命じてお城の周辺を調べる捜索隊を結成なさいまして、老執事までもを巻き込み森や草原を調べましたが遂には誰も見つけることが出来ませんでした。


ただ一人、従僕のカーチスはお城の前の跳ね橋に若い女がいたと言いましたが、声をかける直前に消えてしまったと言うものですから、その話を信じる者はわたくしを除いておりませんでした。


この一件が起こってからというもの、わたくしは長い間怯えきっておりまして、その翌日の太陽が昇っている間ですら、一人でいることが耐えられなくなっていたのでございます。


父はベッドの脇にやってきて、子守に幾つかの質問をしてから、わたくしを抱きしめて口づけをし、あれはただの夢だったのだからもう怖がることはないと言いました。


それでもわたくしから恐怖心が消えることはありませんでした。あの見知らぬ若い女性の訪問が夢や幻でないと思っていたからです。


そして今、わたくしの目の前のベッドで半身を起こされているご令嬢は、幼い時分にわたくしの前に現れたお嬢さんと瓜二つだったのでございます。


記憶にくっきりと刻まれたそのお顔を、わたくしはあれ以来何年もの間、何度も思い出しては繰り返し気味の悪い思いしておりましたから、忘れるはずがありません。


彼女のお顔は、とても可憐で、とてもお美しいものでした。そして少女の頃に初めて見た時と同じ、物悲しそうな表情をしておられます。


その時でございます。彼女のお顔には、そこに見知った人間を見た時の奇妙に強張ったような不思議な笑みが浮かびました。


それからしばらくの沈黙の後に、ご令嬢は口を開いたのでございます。


「今日は不思議なことがたくさん起こる日だったけれど、これほどまでに驚いたことはないわ! だってわたし、十二年前にあなたのお顔を夢で見たの。それ以来あなたのお顔が瞳に焼き付いて離れたことがないわ」


「それはなんて運命の巡り合わせなのかしら」わたくしは込み上げてくる恐怖心や気持ち悪さをなんとか抑えて、ようやく声を発することが出来たのです。


「十二年前、確かにわたくしもあなたにお会いしたわ。それが夢だったのか現実だったのかはわからないけれど、それは間違いなくあなたと同じお顔をしていたわ」


彼女の笑顔が和らいだのを感じました。この場に漂っていた奇妙な雰囲気はなくなり、今はえくぼの浮かぶ愛らしい顔がございました。


緊張の解けたわたくしは、歓迎の気持ちを込めて言葉を重ねたのでございます。偶然の成り行きとはいえ、彼女の訪問をうちの者たちがどれだけ喜んでいるか。そしてそれは自分にとっても思いがけない幸運であったことを伝えました。


わたくしは田舎のお城育ちということもあって少々人見知りをする方でございましたが、この奇妙な縁に後押しされ、大胆になっておりました。わたくしは慰めるつもりで彼女の手を取りました。


すると彼女はわたくしの手を握り返され、もう一方の手をわたくしの手に重ねられました。わたくしを見つめる瞳は輝き、もう一度微笑まれるとお顔を赤く染めたのでございます。


わたくしの言葉に対する彼女のお返事はとても愛らしゅうございました。わたくしが隣に腰掛けて、この不可思議な巡り合わせについて感想を述べていると、彼女は仰いました。


「あの夜、あなたに出会った時のことを話してもいいかしら。それはわたしにとっても忘れられない出来事だったのだから。それにしても不思議なこと! だってまだお互いに子供の頃だったというのに、二人揃ってあんなに生々しい夢を見たのですから。それにあなたはわたしの、わたしはあなたの今の姿を見ていたのよ? 御伽噺にだってこんな話はないわ」


「ぜひお聞かせになって。わたくしもあなたのお話が聞きたいわ」わたくしがせがむようにお願いすると、彼女はあの夜の出来事を彼女の視線からお話くださいました。


「わたくしが六歳くらいの頃だったかしら、その晩のわたしは見たくもない酷い悪夢にうなされていたの。そして目が覚めたらいつも使っていた部屋とは違う場所にいたわ。暗い感じの古い楢材の羽目板張りの部屋で、戸棚やソファがあちこちに置かれていたわ。ベッドはたくさんあったのだけど、そのほとんどは空っぽで、部屋にはわたし以外いないみたいだった。そうしてしばらく辺りを見渡していたら、素敵な燭台があったわ。二股に分かれたそれは美しい燭台で、わたしはしばらく見惚れていたの。もう一度見たらすぐにわかるほどに。その後わたしはベッドの下をくぐって窓辺に向かったわ。まだわたしも子供だったからかしら、見知らぬ部屋で冒険してみたくなったのね。ベッドの下から出てみたら、誰かの泣き声が聞こえたの。膝立ちで様子を見てみたら、そこにあなたがいた。間違いないわ、今の姿のあなたがいたの。腰まで届くような美しい黒髪に、ぱちりとまん丸のその青い瞳、そしてその唇も、今のままの唇だわ。今のあなたと同じの美人がわたしの前にいた。わたし、あなたがあまりに綺麗だったからすっかり気を許してしまって。ベッドの上に上がってあなたの体に腕を回して、そのまま眠ってしまったみたい。大きな声で目を覚ましたら、あなたが悲鳴を上げていたわ。そしたらわたし、なんだか怖くなってしまってベッドの下に隠れたの。それからしばらくして気を失ってしまって、気づいたら自分の部屋で目を覚ましたわ。でも、わたしはあれからあなたのお顔を一時たりとも忘れたことはないわ。間違いない。あなたはあの時のお嬢さんよ」


次はわたくしがあの日のことを話す番になりました。わたくしが話し終えると彼女は驚きを隠しきれない様子でございます。


「わたしはあなたが感じたことと同じように、あなたを怖がった方がいいのかしら。それはわからないわ」そう言うと彼女はわたくしを見てにっこりと微笑んだのでございます。


「あなたがそれほど美人ではなく、黒魔術に長けた魔女のような見た目をしていたなら、わたしは怖くて仕方がなかったでしょうね。でもあなたは間違いなく美人だし、わたしもあなたもまだ若いわ。だからわたしはね、こう思うのよ。あなたとわたしは十二年も前からの古い知り合いで、それは仲良くなるには十分すぎるほどの理由になるのではないかしらって。いずれにしても、これではまるでずっと昔から、お友達になるように運命づけられているみたいだわ。なぜだかわたしはあなたに心惹かれるものを感じているのだけれど、あなたもそうであれば嬉しいと願うわ。これから言うことは恥ずかしいのだけれど、わたしね、まだお友達が出来たことがないの。わたしの初めてのお友達。それが出来たと思ってもいいかしら?」ご令嬢は燃え盛る炎のような紅玉色の瞳でうっとりとわたくしを見つめられたまま、溜息をつかれるのでした。


この時のわたくしはと申しますと、とても複雑な心持ちでおりまして、言葉にするのがやや困難でございました。わたくしは確かにこのお美しいお客様に対して"心惹かれるもの"を感じておりました。


しかしその中には少しの嫌悪感も混じっておりました。それでもこのどっちつかずの曖昧な気持ちの中にあって、魅了されている感覚が強かったのも事実でございます。わたくしは自分でも気がつかぬ間に、優雅な所作と何よりも魅惑的な彼女自身に心を奪われておりました。


それからもわたくしたちは何度も言葉を重ね合いましたが、やがて彼女が事故に遭われたばかりだということを思い出したわたくしは、急いでおやすみの言葉をかけました。


「先ほどあなたを診たお医者さまが、今晩はメイドを一人つけて寝ずの番をさせるようにとのことでしたから、後で人がまいりますけれど、とても気の利く大人しい娘ですよ」


「それはご親切にありがとう。だけどごめんなさい。わたし、昔からそうなのだけど、部屋に誰かがいると眠れないの。だからひとりで大丈夫。これはここだけの話だけど、わたしね、泥棒が怖くて仕方がないの。もちろんあなたのお屋敷の人を言っているのではないのよ? ただ昔、一度わたしの屋敷に泥棒が入ってしまったことがあって、召使いが二人殺されてしまったの。それ以来わたし、部屋の扉に鍵をして寝なければ安心して眠れないのよ。あなたはとてもお優しいから、わたしのわがままを許してくださるわね。ここの扉も、錠前に鍵が差したままになっているわ」


彼女はその細い腕でわたくしを抱き締められると、熱っぽい声でわたくしの耳に囁かれました。「おやすみなさい、わたしの大切な人。お別れをするのはいつだって悲しいことだけど、もうおやすみを言わないと。明日のお昼に、また会いましょう?」


そして彼女は再び枕に頭を乗せると、一度深い溜息をして、戸口に向かうわたくしを見つめられたまま、もう一度口を開かれました。


「おやすみなさい、大切なお友達」


若者の恋や友情は気まぐれと申しますように、ある日突然誰かを好きになったり、恋に落ちたりするものでございます。わたくしはまだ出会ったばかりの──それはそれは美しいご令嬢からあからさまな好意を寄せられて舞い上がっておりました。


わたくしのことを信頼してくださって、それどころか友達とまで言っていただいたのですから、これを喜ばずにいられるでしょうか。


そうして夜が明けて、わたくしたちは再び顔を合わせました。彼女の美貌は太陽の下であっても決して見劣りするものではありませんでした。むしろ暖かい日の日差しに照らされて、それは見たことのないほどの美しさでございます。昨晩お目にかかった時は幼少の時の思い出の輪郭と重なり、気味の悪い思いをしておりましたが、それはもはや過ぎたこととなりました。


会話の折にわたくしは、正直に出会った時の心境を白状いたしました。これから仲良くなりたいと切に願うお相手に、そのような感情を抱いていたことを隠し続けることは、なんだが彼女を騙しているのと同じように感じたからでございます。


すると彼女もわたくしを目にされた時に、わたくしと同じ感情を抱いていたと打ち明けてくださいまして、そこに微かな嫌悪感が混じっていたところまでまったく同じだったのでございます。


これにはわたくしもなんだかおかしくなってしまい、わたくしたちは一緒になって笑いました。わたくしたちは短い間ながらお互いのことを怖がっておりましたのに!

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