六章
彼女の名前はカーミラと言うのだそうです。しかしそれ以外のことをわたくしは存じません。彼女は教えてくれないのでございます。
わたくしはあの晩より彼女と仲良くなったと思いますし、彼女も確かにわたくしを好いてくださっているのだと感じます。それにわたくしも先に書いた通り彼女に魅了されておりますが、しかしどうしても好きになれない部分もございました。
改めて彼女の容姿をご紹介いたしますと、カーミラという女性は、女のわたくしから見ても大変に羨ましくなるような美貌の持ち主でございます。背はスラリと長く、体つきはとてもほっそりとしておりました。身のこなしはとてもゆっくりでございましたが、それすらも優雅に見えてしまうほど、気品に満ちておりました。
動きが遅いことを除いては他にはお身体が弱そうなところは見受けられず、むしろいたって健康なご様子でした。肌は雪と見間違うほどに白く美しく、弾力もありしっとりとしております。目鼻立ちはとても整っており、大きな瞳に宿る紅玉色はいつまでも輝いておりました。
髪はそれは美しい銀色をしておりまして、それが結い上げずに流しておいでの時などは窓から入る風になびき、サラサラと銀のカーテンが部屋を優しく覆っているかのようでございます。あれほど流れるほど豊かな髪をわたくしは見たことがありませんでした。
わたくしは彼女の寝室で、椅子に座って休まれている彼女が甘く囁くような声でおしゃべりされているのを聞きながら、美しい銀の髪を編んでみたり、結い上げてみたりして彼女の髪型を頻繁に変えては、どれが彼女に似合うのかを試して遊んでおりました。
特にお似合いだったのは、以前雑誌で拝見したチャールズ・ギブソンのイラストのような髪型でございます。ギブソンガールのようになったご令嬢は、元々お持ちだった生来の気品さが見事に合い、それは美しい映画女優のようでございました。
さて、わたくしは彼女の好きになれない部分があると書きましたが、それはやはり先にも書きました、彼女がご自分のことについて何も話してくださらないことでございます。
これに関して言えば、確かにわたくしも大人げがなかったと思いますし、間違っていたとも思います。カーミラのお母様がわたくしの父にきつく口止めをされていたことでございますから、わたくしもその通りにするべきだったのでございます。
しかし、口止めをされればされるほど、好奇心というものは煽られてしまうものではないでしょうか。わたくしのような若い娘も例外ではございません。
知りたいと思う欲求を抑えることほど、わたくしにとって困難なことはございませんでした。わたくしがこれほどまでに知りたがっていることを教えたからといって、一体どこの誰が困るというのでしょうか。
わたくしのことが好きと彼女は仰るのに、わたくしのことをちっとも信用してくださらないのは、残念でなりません。聞いた話は必ず他言しないと、神にもお約束いたしましたのに。
そんなわたくしを彼女はただ見つめているのでございます。一片の手がかりを手のひらから零すこともなく、頑なにお話されることを拒む彼女には、年齢にそぐわない冷たさを感じておりました。
わたくしがどれほど詰め寄っても、彼女は全くと言っていいほど、怒ったり、言い返したりしませんでした。ですので喧嘩をしたこともございません。
そうして言い返さない相手を一方的に問い詰めようとするわたくしは大層はしたないことではございましたが、自分の気持ちに嘘を吐くことも出来なかったのでございます。何を聞いてもはぐらかされるばかりで、時間の無駄であったことは言うまでもないかと存じますが。
わたくしが藁の中から針を探し出すように見つけ、紡ぎ合わせたいくつかものもございますが、それはわたくしの満足に足るものでは到底ありませんでした。彼女のカーミラというお名前も、そのうちの一つでございます。
ですが、どうか勘違いして頂きたくはないのですが、わたくしがしつこく彼女を詰問して困らせたということではございません。
おしゃべりの最中、隙を伺ってはそれとなく訪ねたのでございます。一度や二度は問い正したこともございましたが。しかし、意地悪となじってみたり、逆に甘えるようにして搦め手を用いても、まるで効果はありませんでした。
わたくしがしつこく質問をした背景にはもちろん好奇心もございますが、何より答えをはぐらかされるご様子や、悲しげに聞かないでと懇願される彼女の姿がまた愛らしく、わたくしも図に乗っていたことをここに反省いたします。
彼女はわたくしのことを好いているし、その誠実さも信じていると誓ってくださいます。いずれ時が来たらその全て話してくださると約束もしてくださいましたから、わたくしもいつまでも不機嫌でいるわけにはいかないのでございます。
カーミラは時折その華奢な腕をわたくしに回しては抱き寄せて、わたくしの頬にご自分の頬をぴたりとくっつけ、耳元に甘い声で囁かれるのでございました。
「わたしの大切な、愛おしい人。あなたの可愛い心が傷ついてしまったのね。でもわたしを酷い人だとは思わないで。人は誰だって良いところも悪いところも持ち合わせているものよ。そしてはそれはわたし自身の心であるの。あなたが自分の気持ちに嘘がつけないように、わたしも自分の気持ちに逆らえないわ。でもね、ローラ。あなたの心が傷ついたのなら、痛いのはあなただけじゃない。わたしの心も一緒に血を流しているの。あなたと共に甘美な屈辱の中に打ち震えながら、それでも陶酔に身を預けているような快楽の中でわたしはあなたの心に溶け込むの。そしてあなたは死ぬ。とろけるような微睡みの快楽の果ての死の世界で、わたしとひとつになるの。これがわたしの運命だわ。わたしがあなたのことを愛しているように、いつかあなたの番が来たら、あなたも他の誰かを愛すのでしょう。そうしてこの残酷な愛のワルツを踊りだすの。全ては愛故のことなのよ。だからしばらくの間は、わたしやわたしの家族のことを知ろうとするのはやめてちょうだい。あなたのその慈愛の心でわたしを満たして。どうかわたしを信じて」
このような情熱に満ちた演説を終えると、彼女は震える体を鎮めるかのようにわたくしを抱きしめて、その火照った唇でわたくしの頬に口づけをするのです。
いったい彼女は何に興奮しているのか、この時のわたくしにはまったくわかりませんでした。
カーミラがこのようになる場面はさほど頻繁ではありませんでしたが、わたくしがこうして抱き締められている間、正直に申しまして、彼女の腕を振りほどいて逃げ出したい気持ちになっておりました。
ですが、彼女の声を聞いておりますと、力が抜けてしまうような感じがして、逃げられないのでございます。
彼女がわたくしの耳に愛を囁きますと、それは子守唄のように心地よく耳に馴染むのです。その甘い声音はわたくしの張り詰めた拒絶の心を静かに崩し、緩んだ心は心地よい陶酔感に包まれているのです。彼女がわたくしを解き放つその時まで、わたくしは夢心地の微睡みに支配されておりました。
このような時の彼女がわたしは好きではありませんでした。彼女の魔法にかけられている間、わたくしは不可思議な心の高揚を感じるのですが、同時に漠然とした恐怖と嫌悪感が入り混じった感情に支配されます。
しかしそれを不快だと思ったことはございません。そうしている間、わたくしは頭がぼんやりとして、わたくしを抱く彼女のことも考えられず、それでも移ろいゆく自分の感情だけははっきりと覚えているのでございました。
思い返せば、こうした時の彼女を知らなければ、今のわたくしはないのだとこの手記をしたためているこの時になって納得いたしました。
わたくしがわたくしでなくなるかもしれないといったこの気持ちが、改めてこの一連の出来事を見つめ直すきっかけになったと思えば、何が良くて何が悪いのか、それを思い知るに至りました。
カーミラの動きを予想するのはあの時のわたくしには困難でございました。彼女は一時間ほどわたくしに目もくれなかったかと思えば、急にわたくしの手を慈しむように握り、それを何度も繰り返すこともございました。
カーミラは頬を朱に染めて、気怠げな眼差しは恍惚に溺れ、ドレスの胸が上下するほど息を乱れさせております。
その姿は恋い焦がれる想い人を前にして気持ちが抑えられなくなった乙女のようで、わたくしはなんだか居た堪れない気持ちになりました。
しかし、うっとりとした目をわたくしに向けて、熱い唇をわたくしの頬に這わせる彼女にわたくしは抗えないのでございます。
「あなたはわたしのものよ。きっとわたしのものにしてみせる。わたしとあなたはいつまでもずっと一つになるのよ」
彼女が耳元で囁くのを終えるや、わたくしは彼女から逃げるように離れ、身を震わせました。
「もしかして、わたくしたちは血が繋がっているのかしら」わたくしはこのようなことをよく尋ねました。
「わたくしにはあなたの言葉が分からないわ。ねぇ、カーミラ。ひょっとして、あなたはわたくしに誰かを重ねているのね。それはあなたが好きな人なのかしら。でも嫌。気持ち悪いわ。愛を囁く時のあなたはまるで別人のよう。そんなお顔でお話されるとわたくしは自分が誰だかわからなくなるの。わたくしはわたくしであって、誰かを演ずるつもりはないわ」
わたくしの剣幕に彼女は深いため息を吐くと、それから不満げにわたくしの手を離して背を向けました。
カーミラがどうして、時折このような不可解なことを言うのか。わたくしは理由を求めてよく思案したものでございます。これらの彼女の言動がおふざけやお芝居には思えません。
あれは間違いなく、胸の奥深くにしまい込まれた感情が、ふとした拍子に込み上げてしまったものだと思います。
カーミラのお母様はそうではないと仰いましたが、やはり彼女は精神的な発作をお持ちで、それは短い時間ながらも現れてしまうのでしょう。
それとも昔小説に見たような、古城を舞台にした、変装した殿方との恋愛劇が繰り広げられているのでしょうか。
このお城の使用人の誰かが手引きして、想い人に気持ちを伝えるために女装をなさって会いに来てくれているとしたら、それはとても素敵なお話だとは思いますが、それにはいささか無理があるというもの。第一にわたくしに触れるカーミラの体は殿方とは程遠いのですから。
まず、恋をなさっている男性というものは、とても女性を気遣うものだと聞き及んでおりますが、わたくしがそうされた覚えはございません。
これまで記した情熱の場面を除いては、それは何事もないような平凡かつ陽気で、陰鬱かつ退屈な日々が過ぎております。
そうした日々でのカーミラは、こちらが火傷してしまうような熱い視線をわたくしに向けていることもあるのですが、それを除いてはまるでわたくしがそこにいないかのように振る舞われております。
それに、彼女が発作を起こしになって、神秘めいた長広舌をふるわれている時以外の彼女の言動は、同年代の若い娘と同じでございました。
そんな彼女が殿方であったならば、わたくしは恐らく世の中を信じることが出来なくなっていたでしょう。
わたくしのような田舎娘には都会の習慣がどうであるかについて明るくありませんが、そうでなくともカーミラの習慣は非常に奇妙でございました。
カーミラの朝はとても遅いのでございます。それはもはや朝と言っていい時間ではなく、彼女が起きるのはいつもお昼の一時頃でございました。
彼女はそれから居間にやってきて、一杯の温かいココアを飲むのですが、それ以外を口にしたところをわたくしは見たことがございません。
彼女がお城に来たばかりの頃、我が家のキッチンメイドが歓迎の印に腕によりをかけたご馳走を振る舞いましたが、彼女が口になさることはなく、大変落ち込まれていたのを覚えております。
ココアで体を温めた彼女は、それからわたくしを連れ立って散歩に出かけます。散歩と言ってもお城のそばを少し歩くだけで、彼女はすぐに疲れてしまうのです。
そうするとお城に戻るか、森のあちこちに電灯と一緒に据えられたベンチに座って休むのでございます。
確かに彼女には体力はございませんが、それはあくまでお体だけのこと。頭の回転にはなんら影響がなく、いつも活発におしゃべりしておりました。
ふとした時にカーミラは故郷のことをちらりと話したり、あるいは過去の体験な聞いたお話をしてくださいました。そのお話はどれもわたくしが知らないような風習であったりするなど、彼女の母国はわたくしが想像するどの国よりも遠い国なのかもしれません。
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