四章
さて、ご婦人を乗せたフランス製の古い車が森の中へ消えていった頃、その時になってようやく残されたご令嬢が目を覚まされました。ペドロン夫人の腕の中で気を失われていた彼女は、頭をもたげるとゆっくり辺りを見渡し、そこでようやくご自分を取り巻く異変に気がつかれたのでございます。
「ここは……どこかしら。それにお母様は? わたしは何故こうしているのでしょう」
ペドロン夫人は自分がおわかりになるだけ丁寧に答え、そして慰めの言葉をかけてさしあげました。
「そう、お母様はわたしを置いていかれたのですね。それもそうでしょう。わたしがいたら旅の邪魔になってしまうのは明らかでしたから。それでも心悲しいのはいたし方ないというもの」そう言って彼女はさめざめと涙を流したのでございます。
「お母様がご無事でよかったわ」彼女が最後にそう言ってからお泣きになるのをやめる姿を見て、わたくしはなんて心の強いお嬢さんなんだろうと感心いたしました。未だこの月夜の光で彼女のお顔は拝見できませんでしたが、きっとお母様に似てお美しい方なのだろうと手前勝手に推察しておりました。
わたくしも慰めの言葉をかけてさしあげようといたしましたが、ラフォンテーヌ先生が静かにそれを制したのでございます。
「お嬢さま、いけません。今は一度に一人とお話されるのが精一杯ですよ。興奮されるとお身体に障るかもしれません」
わたくしは少しだけむくれましたが、彼女が落ち着かれた後ならば、まだ機会があるだろうとこの場は引き下がりました。
その間に父は十二キロ先に住むお医者様に電話でお城に来てもらうように召使いに命じておりました。ご令嬢がお使いになる寝室の手配もこの時にしていたのだと思います。
ご令嬢はペドロン夫人の腕にすがり立ち上がると、ゆったりとした足取りでお城の中の門をくぐりました。玄関広間ではメイドが数名待っており、ご令嬢を真っ直ぐ寝室へ案内されたのでした。
わたくしは普段居間として使っている部屋へ赴きました。その部屋は細長いお部屋で四つにならんだ大きな窓からは跳ね橋と、それから先ほどまでおりました森の風景を眺めることができるのでございます。楢材の羽目板張りの壁には彫刻が彫られ、調度類が飾られた戸棚が並べられております。
タペストリーで覆われた壁には装飾が施された金の額に入れられた等身大の肖像画がかけられておりまして、どれほど昔の方であったかは失念いたしましたが、どのお方も大層奇妙な服装をしておりました。けれどもそれらの絵はどれも楽しげで、少しも堅苦しい感じはなく、とてもくつろげる部屋なのです。
ですからわたくしたちはお茶を飲むときはこの部屋を使っておりました。
わたくしはコーヒーや温かいココアを頂く方が好みではありましたが、母国贔屓の父は英国への愛国心を忘れぬようにと、定期的に英国の誇りたるお茶を飲むべしと主張されるのでございます。
ユトレヒト産の天鵞絨に包まれたクッションが貼られた椅子に座りましたわたくしは、さっそく今晩起きた出来事について、ペドロン夫人とラフォンテーヌ先生と共にお話を始めたのでございます。ご令嬢はベッドに横になられた途端に眠ってしまわれたので、お二人は後のことをメイドに任せこちらへやってきたのでございました。
「あのお方のご容態は?」わたくしはペドロン夫人が部屋に入るや否やそう問いました。
「はい、ぐっすりとお休みになられています」ペドロン夫人がそうお答えになると、わたくしは矢継ぎ早に尋ねました。
「それで、あのお方はどのような方なのか教えてちょうだい。わたくしは全てが聞きたいのです」
「とても素敵なお方ですわ」ペドロン夫人はどこか熱っぽいような口調でお答えになりました。「あんなにお美しい人は滅多にお目にかかれないのではないのかしら。お嬢様と同い年くらいで、それはもう大変お優しい方です」
「お嬢さまに勝るとも劣らない美女ですわ! わたくしったら夢を見ているみたい。まるで中世の姫君がお城にいらしたかのような、そんな錯覚を抱いてしまいます」そう仰ったのはラフォンテーヌ先生で、彼女も寝室での様子を覗いていたようでございました。
「それに声の綺麗なこと!」ペドロン夫人が更に言葉をお足しになりました。
「驚いたわ。お城の女性はわたくしを除いて皆お客さまの虜になってしまったようね。見目麗しい殿方の来訪よりも、お二人は目を輝かせているもの。年の近いわたくしがお会いしたら、わたくしはきっとどうにかなってしまうのでしょうね」わたくしはそのような冗談を言って笑いますと、お二人の先生方も一緒になって笑ったのでございます。
それからわたくしはテーブルの上に置かれておりましたブリキ缶の蓋を開けて、二人にたばこを差し出しました。そうしてわたくしも一本取り出しますと、マッチを擦り煙を口内へと招き入れたのでございます。
わたくしはたばこ臭いが苦手でございましたが、女性同士のお喋りに必要な潤滑油としてお茶に並んで大切なものとお二人の先生方は愛好しておりましたので、わたくしもお二人がご一緒の際は嗜んでおります。
父は紙巻たばこを労働者のものと軽蔑して、自身は熱心に葉巻をふかしておいでです。なんでも本国の保守党の政治家の友人の影響であると伺っております。
「それにしてもあの運転手」ラフォンテーヌ先生はたばこの煙を大きく口から吐き出されてからお話になりました。「とてもフランス人には見えなかったわ」
「それは昔の話よ。今は誰もが車を持てる時代だわ。貴女のお国はそうなのでしょう?」
わたくしはペドロン夫人の仰る昔の話というものがわからず尋ねました。どうやら昔、といってもほんの数十年前までは車といえば本日現れましたあの古めかしいフランス製のことを指したそうで、上流階級の方々は車と一緒にフランス人の運転手を雇われたそうなのです。ラフォンテーヌ先生はこのことを仰っていたようでございました。
「ですがあの運転手のお顔! なんて不気味だったのでしょう。人相が悪いと申しますか、とても恐ろしい方でした」
わたくしには手際よく車を修理されていたお姿しか記憶がございませんでした。思い返してみても、やはりそのお顔は浮かんで来なかったのでございます。
「確かに」ちょうどその時に父が部屋にやってきて答えました。わたくしども三人がたばこを吸っている姿に一瞬顔をしかめましたが、静かにわたくしの隣にお座りになりました。
「あんなに醜く品のない顔をした男には会ったことがない。あのご婦人、森であの男に身ぐるみ剥がされてなければいいが。とはいえ、手際は良かった。あっという間に車を治してしまうのだから」
「車での長旅できっとお疲れだったのでしょう」ペドロン夫人は仰いました。「人相が悪いということは抜きにしても、あの方も随分と奇妙にやつれておいででしたし、お顔も浅黒く陰気でしたもの。わたくしも興味がありますわ。でも、明日になってお嬢さまの体調が良くなれば、きっとみんな話してくださいますわ」
「それはどうかな」そう言って、父は含みのある笑みを浮かべると、一人で納得したように頷いているのでした。
その姿にわたくしは、あのご婦人が出立前に何かを父に伝えていたことを思い出したのでございます。あの時は聞きそびれてしまいましたが、わたくしはそれを聞きたくてうずうずしておりました。
部屋に父と二人きりになりますと、わたくしは父に詰め寄ったのでございます。父はいつものようにわたくしをなだめると、別段渋る様子もなく、あっさりと話してくださいました。
「特に隠し立てをするような話でもないんだ。ただお嬢さんをうちに預けることで我々に面倒をかけることになるのが申し訳ないと、そう言ったんだ。なんでもお嬢さんは体が弱く神経質なんだそうだ。だからと言って発作を起こして暴れまわったり、悪い幻覚に取り憑かれているとかそういう話ではない」
「まさかお父さま、それをお聞きになったのですか?」わたくしは僅かに芽生えた疑念を摘み取るべく、そう尋ねました。お客様としてこれからもてなそうという相手に対して、些か失礼な質問ではないかと思ったからでございます。
「いや、そうじゃないんだ。ご婦人が自分からそう断ってきたんだ。発作もなければ、いたって健康だと」
「ご自分から? おかしなことを仰いますのね」
「ああ、全くだ」と父は笑いました。「おまえが教えて欲しいと言うから答えてあげたいと思うが、残念だけど父さんが知っていることはほとんどないんだよ。ご婦人は流暢なフランス語で『とても重要な事情がございまして、わたくしは人目を忍んで急ぎつつ、長い旅をしております。三ヶ月後に娘を引き取りにまいります。それまでの間、娘はわたくしどもの出自や家名、旅の目的については一切お答えしませんが、どうかご理解ください』と言ったんだ。念を押すつもりだろうか、厳しい表情を私に向けて、それっきり黙られたのだ。今は世界が不安定な時期だ。高貴な家柄であると考えれば、"重要な事情"というものはさほど不自然なものじゃない。それにしても、あのご婦人の急ぎようを見ただろう? あのお嬢さんを預かるなんて言ってしまって、余計なお節介でなければいいんだが」
父の心配をよそに、わたくしはこの成り行きをとても嬉しく思っておりました。あのご令嬢とお話がしたくてうずうずしておりまして、お医者さまからお許しを頂けるのを今か今かと待っておりました。
時計の針が一時を指し示した頃、お医さまを乗せた車がお城にやってまいりました。わたくしはその間寝室におりましたが、眠ることなく待ち続けておりました。せっかく新しいお方と知り合いになれる機会だというのに、一人寝床につくのはもったいないという気になっていたからでございます。
わたくしが居間に降りますと、ちょうど診察を終えたお医者さまが父と話されておりました。それはとても良い診断をされておりまして、ご令嬢はもうベッドに身を起こされており、心身ともに健康そのものだそうでございます。双方がそう望んでいるのであれば、わたくしが彼女に会っても問題ないとお医者さまはお許しをくださいましたので、わたくしはすぐに使いの者に、少しの間寝室にお見舞いに行ってもいいだろうかと伝言を頼みました。
メイドはすぐに戻ってまいりまして、ご令嬢は是非にお目にかかりたいとの返事をわたくしに伝えました。わたくしが品もなく居間を飛び出したのはお伝えするまでもないことでしょう。
お客様が寝室として使われているお部屋は、このお城の中でも一等立派なお部屋でございます。もしかすると、いささか堅苦しいとお感じになられるかもしれません。ベッドの足向かいの壁には、毒蛇を首に巻きつけたクレオパトラを描いた荘厳なタペストリーがかけられ、他の壁にも厳しい古典絵画が幾つか飾られており、その古いタペストリーが生み出す重苦しい雰囲気を一層引き立たせておりました。
部屋の扉をノックいたしますと、噂に違わぬ美声が返ってまいりました。わたくしは逸る気持ちを抑えつつ、ゆっくりとその扉を開いたのでございます。
ベッド脇の燭台では、蝋燭が灯されてゆらゆらとその火を揺らしておりました。ご令嬢はベッドの上で半身を起こされておりました。遂にご令嬢のお顔を拝見する運びとなりましたわたくしは、ベッドの脇に立ち、ささやかな挨拶の言葉を口にしようとしましたが、それは叶いませんでした。
わたくしはご令嬢のお顔を一目見て、体が金縛りに遭ってしまったかのように動けなくなってしまったのです。鼓動は高鳴り、膝は震えが止まりません。
ご令嬢はやはりとても美しいお顔立ちではございましたが、わたくしは恐怖に震えていたのでございます。
何故わたくしがこうなってしまったのか。それを少しお話しなければならないと存じます。
わたくしは、そのご令嬢のお顔に覚えがあったのでございます。
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