煌々と輝く満月の下で:異説吸血鬼カーミラ

江藤公房

序章 ある医師の手記

私の父が熱病のようにうなされていた──あるいは異常なまでの興奮による妄想のような──日々が過ぎ去り、あのニュルンベルク裁判を生き延びたのは偏に父が親衛隊だったのにも関わらず熱心なナチ党ではなかったこと(後に知ったのだが、父はイギリスと通じていたらしい)と、医者であったことの二つによるものだろう。


無論ナチの烙印を押された父と私たち家族はユダヤ人に仕返しをされる運命を辿った。それが父が背負うべき罰だと言うのなら私も甘んじてそれを受け入れるつもりでいた。しかしながら体調を崩した母にはあまりに酷な話であり、私達家族は逃げるようにしてオーストリアの片田舎の村へと引っ越したのだ。


少年から一人の男として医学の道を歩み出すきっかけになったのも、このオーストリアの村でのことだ。


医者というかくも立派な職業に就いたのも立派な志からかと問われれば、私はそれを否定しなければならない。なぜなら私は日々の糧を稼ぐために医者になったのだから。戦争が終わってもうしばらく経つ頃であったが、若者を総動員で奪い去られた貧しい村に仕事がある訳がない。その頃には父が身を粉にして土木の仕事をするのにも限界が近づいており、その日暮らしは間も無く終焉を迎えつつあった。


いい年齢になっていた私はなんとか家族を養えないかと父から医学の基礎を学び、ようやく独学でウィーンの大学に進む道が開かれたのだった。かつて父に世話になったというドイツ人の庇護を受け、医者の資格を持って村に帰ったのはそれから数年のこと。


私がやっとのことで村の開業医となり、慎ましくもそれなりの生活を送れるようになってきた矢先に父が死に、母も死んだ。


残された私は気立ての良い女性と夫婦になり娘を授かり今に至る訳であるが、私がこのような手記をしたためているのは何気なしに父の遺品を眺めていたことがきっかけである。


父は恐ろしく几帳面な性格をしており、生前から書類をきっちり管理していた。その中で偶然見かけたとある女性の手記は、かつてこの地域で起きた不可思議な流行病についてこと細やかに書かれていた。


そしてその流行病は、奇しくも齢十六になろうかという私の娘が患っている病と瓜二つであったのだ。


さて、これからご覧頂くのはその女性の手記である。


私の娘が一体何に脅かされているのか、この手記には詳細に書かれている。その答えを知った時、私はその事実に打ち震え、もはや為すすべもなく命を落とそうとしている娘に何をしてやれるのだろうかと涙を零す。いや、手記をよく読めばまだ残された道はある。私はそうやって自分を奮い立たせ、妻にも言うことが出来ないこの事件の顛末を思い知るのだ。


この怪綺談は、この村の先にある一つの古城から始まる。

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