第十六章 ドナルドは帰ってこない
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レリックが戻ってきたのは四十分ほど経ってからだった。
「あれ、ハーブは?」
「トイレだってよ。ほんの少し前に出て行ったぜ」
「入れ違いになったのか……ふむ」
レリックはテーブルの縁に手をついて奥の扉に顔を向けた。
「ドナルドはまだ籠ってるのかい?」
「ああ、呼びかけても返事一つ返さない。よほどショックが強かったみたいだ」
「仕方ないさ。ドナルドも混乱しているんだよ」
六助はいつも不思議に思っていた。この白兎の少年の達観したような立ち振る舞いはどのようにして培ったものなのだろう、と。
彼は過去を語りたがらない。マッド・ハッタ―に所属する者は得てして不遇な過去を秘めている。鋼鉄のように冷たく、そして砕けぬ精神力を身につけるまでに、彼の瞳はいったいどれだけの悲劇を映してきたのだろうか。
それからクロックとハーブが揃って部屋に戻ってきた。
「頭は冷えたか?」
「ああ、なんとかな。それより――」
「どうした?」
クロックは隣に立つハーブを見やり、促すような視線を送った。
「ハーブ、何かあったのか?」
六助は努めて冷静な調子で訊いた。
「あのぅ、これ……」
彼女が差し出したのは、黄緑色の液体が入った小瓶だった。それが何であるかは、六助たちにとっては一目瞭然だった。
「解毒剤だな、どこにあった?」
「お手洗い場の棚の中です。紙がちょうど切れてしまったので、替えようと思って棚を開けたら……」
ハーブは小瓶をテーブルの上に置くと、そそくさとミーシャの許へ向かった。一同の視線は卓上の小瓶に釘付けになる。
「トイレの中、か。けっこう雑な隠し場所を選んだんだな。六助、どう思う?」
レリックがひょいと小瓶をつまみ上げ、手の中で転がした。小さく揺れ動く小瓶を見つめながら六助は言った。
「きっと外に出て処分する余裕がなかったんだろうな。いや、そこまでする必要もなかった」
「というと?」
「犯人としては毒が回って死に至るほんのわずかな時間を稼げればよかったんだから。隠し場所なんてどこでもよかったのさ。むしろさりげなく入ることのできるトイレなんてのは、怪しまれずに物を隠す場所としては絶好の場所だと言っていい。誰がいつトイレに入ったかなんて、いちいち確認するやつはいないんだから」
「つまり、どういうことだ」
クロックが椅子を引きながら訊く。
「こいつが今さら見つかったとしても、犯人を割り出す手掛かりにはならないというわけさ」
レリックが面白くもなさそうに答えた。
事実、この小瓶が見つかったからといって姿の見えない犯人に光を当てることなどできないのだ。もしこの小瓶が見つかった場所が女性専用トイレの中であるなら話は変わるが、アジトのトイレは男女共用だ。
「けっ、忌々しいぜ。そのちっぽけな瓶がありゃあ、キーラのアホは死なずに済んだのかよ」
「ところでクロック、監視の結果の方はどうだった? 女王軍は発見できたか?」
「これといった収穫はなしだ。まだ森にたどり着いてもいないんじゃないか。そもそも女王軍がいつ出発したかも、何を目的にしているのかも判らねぇ。いつもと変わらない、暗い森だぜ」
「そうか」
その後、一同は何をするでもなく、会議室に溜まっていた。途中ミーシャが空腹を訴え、退室した。
「こんな時に飯を食うなんて、なかなか肝の座ったばあさんだぜ」
「こんな時だからこそ、じゃないか? クロックも行ってきたらどうだい」
レリックが言う。
「俺はそんな気にゃあならんぜ」
「ふっ、僕もだ」
何がおかしいのか、二人は顔を見合わせて大笑いをした。神経が参っているのだろうか。それとも気を紛らわそうと必死なのか。リリーは相変わらず星空を眺めており、ハーブは退屈そうにテーブルに突っ伏していた。老女が戻ってきたのは、三十分ほどあとのことだった。
「腹は膨れたかよ、ばあさん」
ミーシャはしわがれた手でおなかをぽんぽんと叩いてみせる。
「いやだねぇ、あの子はまだ出てこないのかい」
「頭はとうに冷えてるだろうが、プライドが邪魔してるんだろう」とレリック。
六助は横目でドアを見る。
ドナルドは帰ってこない。
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