第十七章 ジャックとタルト その5
1
歩いても歩いても、同じような景色ばかりが続いてうんざりする。この森に足を踏み入れてからもう小一時間は経過したはずだ。しかし、マッド・ハッタ―たちのアジトどころか、その片鱗すらも見つからない。
自分は体力的な余裕はまだあるが、タルトはそろそろ限界だろう。腰を落ち着けるのにちょうどいい大きさの岩を見つけたので、ジャックは足を止めてタルトを振り返った。
「そこで少し休憩しよう」
苔むした岩に腰を下ろし、束の間の休息を取ることにした。そよ風が火照った体にしみ渡る。全身の疲労が汗と共に乾いていくような心地だ。
タルトは汗で額に張り付いた前髪を整えながら水筒の水を飲んでいた。
「ふう、こんなに汗をかいたのは久しぶりだわ。まだ夜にはならないのね」
「もう少しかかりそうだね。ほら、まだあそこに木漏れ日が落ちてるだろう」
ジャックは数メートル先の地面を指さしながら「あれが太陽の見納めになるかもしれない」
「ジャック、後悔してない?」
どきりとする質問だった。
「するわけないだろう。タルトのいない世界を生きるくらいなら、死んだほうがましさ。女王を裏切ったことに対して後悔はない。ただ――」
「ただ?」
後悔があるとするなら、それは自身の決断の遅さだった。
脱走を決意してから決行までの期間があまりにも短すぎた。もう少し早く――タルトの奉納を知った時から脱走の下準備を進めておくべきだった。あまりにも行動が急ぎ足だったと、その点は自分でも深く反省している。
「いや、何でもないよ」
このままマッド・ハッタ―たちが見つからなかった場合は、女王の陰に怯えながら生きていかねばならない。それがどれほど苦難に満ちた道であるかは、嫌というほど理解している。例えそうなっても、タルトだけは守らなければならない。
「そろそろ行こうか」
タルトの様子が落ち着いた頃合いになって、ジャックは立ち上がった。
「あ、待って」
「どうした?」
「感じるの」
タルトは急に機敏な動きで周囲を観察し始めた。表情こそ険しいが危険を察知しているというわけではなさそうだ。彼女の中の強大な魔力が何かを感じ取っているのだ、と想像する。
ほんのかすかな空気の揺らぎも見落とさぬよう、神経を集中させているようである。ジャックはタルトの邪魔にならない場所にゆっくり移動した。
「こっち」
そう呟いて、タルトは森の中を歩き始めた。花の甘い香りにつられる蜂のように、木々の合間を縫っていく。
「タルト、何を感じたんだ? もしかして女王軍がこっちに向かってきているのか」
「そうじゃない。いや、それについては断言できないけど。私が感じたのは大きな力。とてつもなく大きくて、底の深い魔力を感じたの」
「まさか、エリナ女王が……」
「違うわ。エリナ女王様よりももっと大きくて、無邪気な魔力よ。」
そんな人物が存在するのか、と疑問に思ったが、タルトがうそぶく理由もない。ずんずんと草木をかき分けるタルトの背中を必死に追った。
しばらく進むと、少し開けた場所に出た。そこで待っていたのは、三十メートルは優に超えているだろう大木だった。
「でっかい木だな。もしかしてこれかい?」
「違う、でもここには残り香が漂ってる」
大木の裏には花畑があった。満足に光も届かない森の中でよくも見事に咲いたものだ。
とその時、ジャックはあるものを発見した。
この周辺の地面の土はよく湿った柔らかいもので、歩くと足跡がついた。ジャックが見つけたものとは、他ならぬ足跡だった。花畑の付近に乱れたような足跡が残っている。
しゃがみ込んでよく観察してみると、二人分の足跡だということが分かった。一つは小さな革靴。そしてもう一つは女もののヒールだ。革靴がヒールの周囲を動き回ったようだ、と推察できる。
(マッド・ハッタ―かもしれない)
女王軍の中でエリナ女王以上の魔力を持つ者などいない。
タルトも足跡に気づいたようである。注意深く二つの足跡を交互に見つめたのち、彼女はヒールの方に興味を示した。
「こっちね。とてもすごい魔力を感じるわ。それともう一つのちっちゃい足跡はさっきの猫さんよ」
「何だって?」
あの予言猫はこのヒールの主と接触していたのか。だとすれば、彼をやり過ごしたのは失敗だったかもしれない。
「どんなやつなんだろうな。ヒールを履いているってことは少なくとも女なんだろうけど」
「それは判らない。でも私たちに敵意を持っていないことは判るわ。それとね、ジャック」
タルトは言いづらそうに両肘を抱きながら言った。
「嫌な感じの塊が近づき始めたわ」
抽象的な表現だったが、それが何を意味しているのかは考えるまでもなく理解できた。彼女は顔をしかめながら肘をさすっている。不穏な気配を肌で感じているようだ。
「それってもしかして……」
「きっとエリナ女王様が追手を放ったのね。凶暴な意志が少しずつだけど、この森の方に向かってきてる」
いよいよか、とジャックは気を引き締めた。もしやつらに捕まってしまえば、待っているのは破滅だけだ。そうなる前に、なんとしてでもマッド・ハッタ―と接触しなくては。
「先を急ごう」
タルトが何を目印にして強大な魔力を持つ某の痕跡を辿っているのかは判らない。彼女は目には見えない糸を手繰るように、迷いなく歩を進めていく。ジャックは神経を尖らせ、警戒を強めながらタルトのあとを追った。
伸び放題に伸びた草木が、むせかえるような青臭い香りを発している。地面はやけに柔らかく、不安定な足場だった。さながら無法地帯のような一帯をなんとか越えると、落雷にでも打たれたのか、倒木が行く手を遮っていた。
「よいしょっと」
その向こうは雑草が生い茂っている。目を引いたのが、右手にあるウツボカズラとハエトリグサだ。
「これって食虫植物よね。初めて見たわ」
タルトがウツボカズラの蓋部分に手を当てながら言った。
「あ、覗かない方がいいよ」
「どうして……うっ」
タルトはちらりと隙間から覗き込んだが、その中の光景を認めるとすぐに顔を離した。
「だから言ったのに」
「どろどろだった。可哀そうに」
酸っぱいものでも口に含んだようにタルトは唇をすぼめた。
「ほら、早く行こう。僕らには立ち止まっている時間はないんだ」
「そうね」
さらに進むと、二人は細い獣道に出た。
「こっちね」
タルトは一瞬の迷いさえ見せずに右の道へ進路を取った。それからほどなくして、辺りの様子が変化し始めた。
「ジャック、だんだん暗くなってきてない?」
「夜に向かっているんだよ」
「これが夜?」
タルトは顔を上げた。
「空の色が変わってる。さっき見たのと同じオレンジ色になってるわよ、ジャック」
「これが夕焼けの空さ。もう少しで本当の夜になる…」
「ホントだ。歩いていくたびにどんどん暗くなる。見て、オレンジ色から赤紫っぽくなったわ」
空の色彩の変化に、タルトは無邪気な歓声を上げた。彼女にとっては新鮮な光景なのだろう。
まもなく、辺りは完全に夜の世界に傾いた。ジャックが夜の世界に踏み入ったのはこれで三度目だった。過去二回、遠征で夜の世界を訪れたが、世界の空気が一変するこの感覚は何回味わっても慣れることはなかった。
呼吸をするたびに、淀んだ冷気が体を巡っていくようだ。太陽の代わりに顔を出した月がさめざめとした光を落としている。それは今まで見下してきた夜の世界からの復讐のようにも思えた。
両側に立ち並ぶ木には燭台が取り付けられており、その上に深紅の炎を灯したろうそくが立っている。誰が設置したのかは判らないが、少なくともこれらは人が近くにいるという大きな証明になる。
道は大きなカーブと小さなカーブを繰り返しながら伸びていて、どこまで進めばよいのか知れない倦怠感と、女王軍が迫ってきているという焦燥感が悪い具合に混ざり合い、ジャックの精神を削っていった。
「ジャック、歌を歌っていい?」
「なんだい、突然」
「ジャックが辛そうだから、歌で元気づけてあげようと思って」
「いいよ、そんなの。女王軍に居場所を知らせるようなもんだ」
「まだそんなに近づいてきてないから大丈夫よ」
ジャックの制止を振り切って、タルトはお気に入りの歌を高らかに歌い始めた。乾いた大地に雨が降り注ぐように、タルトの歌声が疲弊しきったジャックの心を癒していく。空を突き抜けていくようによく伸びる美声が、夜のしじまを震わせた。
愛する人が賢明に命を発散している。その事実がジャックの心を勇気づけた。
「タルト、もういいよ。ありがとう」
「元気出た?」
「おかげさまで」
「それはよかったわ。この歌はずっと昔にジャックに聴かせたことがあったのよ」
「あれ、そうだっけ」
「もう、憶えてないの? これは私が十歳の時に教母さんから教わったのよ。あまりにも美しい歌だったから、ジャックにすぐに歌ってあげたのに」
十歳というと、もう八年も前のことだ。散らかったおもちゃ箱を整理するように、その記憶を探す。
「ああ、そういえばそんなこともあったね」
「本当に思い出した?」
「思い出したとも。たしかあの頃は――」
そうして二人は過去を語り合い、懐かしい青春の思い出に浸った。喧嘩したこともあった。危うくジャックの侵入がばれかけたこともあった。嫌なことも楽しいことも、ずっと二人で共有してきた。今となってはどの思い出もかけがえのない宝物だ。
時間が経つのも忘れ、語らっているうちに両脇のろうそくが途切れ、二人は開けた広場に出た。
白銀の月がきらきらと光る星を従えながら空に君臨している。星たちの光を受けているのは、一軒の家だった。白塗りの壁に二つの煙突が特徴的だ。屋根の色はくすんだピンク色でところどころペンキが剥げかけている。なぜこんなところに家があるのか、という疑問は不思議と湧かなかった。
「これが、マッド・ハッタ―のアジトなのか?」
他に道はなく、ここが終点のようだ。
「魔力の痕跡はもっと先に続いてるけど……どうしよう、この家に入ってみる?」
「先って……?」
「あっち」
言ってタルトは別の方角を指そうとした――その時、
「あれっ」
突然、タルトは全身の力が抜けたかのようにその場に崩れた。
「だ、大丈夫か?」
ジャックはすばやく彼女の体を起こし、支えた。息が荒く、顔色も心なしか悪そうに見えた。悪い予感が胸に去来する。
「私は平気よ。なんだか疲れちゃったみたい」
弱い声だった。
「本当に大丈夫か? 無理はしなくていい。この家で少し休もう」
「うん。ごめんね」
ジャックは目の前の家をゆっくりと見上げた。この時になって、彼はこの家が白兎をモチーフにしていることに気がついた。
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