第十三章 ジャックとタルト その4

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 ありすが夢の中に迷い込んだのとほぼ同時刻――ジャックとタルトは馬に乗って荒野をひた走っていた。


「見て、ジャック。あっちの空、オレンジ色になってるわ。不思議ね」


 タルトの無邪気な声を背中で聞きながら、ジャックは馬を走らせていた。


「あれが夕焼けの空さ」


「夕焼け……初めて見た」


「本来は太陽が沈んで月が顔を出すまでの時間を指すらしいよ」


 脱走はここまで順調に進んでいる。


 タルトを王宮から連れ出すこと自体はそう難しいことではなかった。


 警備兵の配置されている場所、巡回兵の順路、またその時間帯などの情報は軍部に籍を置くジャックにとって比較的入手しやすいものだった。

 彼女を抜け穴から連れ出し、警備の隙をついて王宮から脱出したのが二時間前。それから人混みに紛れながら厩舎から借り受けた馬の許へ急いだ。

 一番の難所だと思われていた検閲所も、意外とすんなり通ることができた。奉納される娘が逃げたという連絡を受けていなかったのと、末端の兵士にタルトの顔が知らされていなかったためだろう。


 しかし、そろそろ気づくはずだ。


 女王軍がどれだけの規模で追ってくるかは判らないが、今のところ追手の兆候はない。

 じりじりとした陽射しが肌を焼き付ける。乾いた風が体の水分を奪っていくように思えてならない。ベルトに巻き付けた水筒で喉を潤し英気を養おうと試みるも、強大な恐怖心がジャックの心を衰弱させる。

 生きている、という実感が湧かないのはまだ女王の支配区域を出ないからだ。背中に感じるタルトの体温だけがジャックの唯一の救いだった。


「まだ追手は来ないようだな」


 振り返ると、遠い地平線の上に灰色の城壁が小さく見えた。王国の周辺は平坦な荒野となっているため、非常に見通しがよいのだ。それがジャックたち逃亡者にとって都合が悪いことは言うまでもないだろう。万が一の時に身を隠せるような場所などなく、細い枯れ木が佇んでいるだけである。


「まだ大丈夫みたいよ。休憩する?」


「いや、そんな余裕はないよ。本当は今日が君の奉納の日だったんだからね。とにかく少しでも遠くに逃げなくてはならない。休むことはいつでもできるけど、捕まってしまっては元も子もない」


「馬の上ってすごい揺れるのね。私、初めて知ったわ」

「しっかり掴まってなよ」

「うん」


 見通しの良い荒野をしばらく進むと、はるか前方に緑色の塊が見えてきた。


「よし、やったぞ。森だ」


 ここまで順調にことが進むとは正直思ってもいなかった。追手の気配もない。あとはこの森のどこかに潜んでいるというマッド・ハッタ―に接触するだけだ。


「道らしい道がないな……ここからは歩いていこう」


 馬が通れるような道が整備されていないため、二人は馬から降りることにした。


「この馬はどうするの?」


「一人で戻るさ。利口だからね」


 ジャックが借りた馬はが可能なように特別な調教を受けた馬である。自分が走ってきた道を覚えているため、どんな僻地で解放されてもまっすぐ主人の許へ帰ることができるのだ。足がつかないという利点もある。


「ねえ、ジャック、あれは何? 手紙が空を飛んでいるわ」


 タルトが不思議そうな顔をして空を見上げた。つられてジャックが顔を上げると、一通の手紙鳥が自分たちが走ってきた道を引き返すように直進していくのが見えた。


「手紙鳥だね」

「空を飛ぶ手紙なんて初めて見たわ。すごい」


 タルトは初めて玩具を与えられた子供のようなまぶしい笑顔を見せた。


「……さあ、行こう。何か嫌な予感がする」


 あの手紙鳥は森の方から飛んできた。ということは少なくとも手紙鳥の差出人は夜の方角にいる、もしくは近い者だということになる。この森を越えると山にぶつかるが、そこに人が住んでいるという話を聞いたことはない。




(この森で何かが起こったんだ)




 それが何なのかを知るすべはない。この森に潜んでいるというマッド・ハッタ―が出した手紙鳥だろうか。小さな不安の種がジャックの心に植え付けられた。

 草木をかき分け、二人は進んだ。裏切り者に牙をむくように容赦なく降り注ぐ陽射しが二人の体力を少しずつ奪っていく。


 疲労が溜まっているのか、足は重りをつけられたように重かった。タルトの顔色もよくない。慣れない環境で精神が疲弊しているのだろうか。しかしここで立ち止まるわけにはいかない。休むにしても安全な場所を確保してからでなくては。彼女を連れ出したのは己のエゴだ。


(僕には彼女を守る義務がある)


 そう自分に言い聞かせて、ジャックは気を引き締めなおした。しばらく進むと、大きく伸びた枝が太陽光を遮るようになり、いくらか楽になった。木々を渡るそよ風が心地いい。


「タルト、頑張れ」

「私は平気よ」


 半ば引きずるようにして無理やり足を動かした。


「それにしても、静かなところね。この森というところは。木がいっぱいで、なんだか気味が悪い……ねえ、ジャック、誰か来るわ」

「えっ」


 ジャックは思わず足を止めた。


「聞こえない? 誰かの足音がする。近づいて来てるわ」


 一瞬、女王軍の追手がやってきたのかと肝を冷やした。冷静になって考えてみれば、この森に追手が先回りすることなどあり得ない。とはいっても、正体の知れない者にこちらの姿を見られることはできるだけ避けたいので、ジャックはタルトの手を引いて木の陰に隠れた。

 耳を澄ませてみると、たしかに誰かの足音がどこからか聞こえてくる。鳥の鳴き声や虫たちの語らいすら聞こえない静寂の中で、その足音は異様な存在感を放っていた。方角は判らないが少しずつこちらに向かってきているようだ。


「猫さんね」


 タルトが囁いた。五メートルほど先に猫の姿があった。背後に迫り来る何かから逃げるような足取りだった。


「あれは有名な予言猫のチェシャだ」

「予言猫?」


 タルトが首を傾げた。


「ああ、いい意味でも悪い意味でも有名な予言者だよ。百発百中の予言の腕と相手を選ばずきっちり仕事をするその姿勢から、予言者としては一級のやつなんだけど……」


「悪い意味はどうなの?」


「とにかく口が軽い。思ったことがすぐ口に出るから、それが原因でいらぬトラブルを巻き起こす悪癖がある。関わらない方が安全だよ。僕らがここにいることをばらされるかもしれない」


 息をひそめてチェシャが遠ざかるのを待った。


「ねえ、ジャック」

「何だ」

「ちょっと恥ずかしい」

「えっ、あ……ごめん」

「いいよ」


 気づかぬうちにジャックはタルトを抱き寄せていたらしい。自分の腕の中に彼女がいると思うと、ジャックは急に体が熱くなるのを感じた。お互いに想い合っている二人だったが、友人としての期間が長かっただけにどうにも恥じらいが捨てきれなかった。


「行ったみたいだな」


 チェシャの姿が見えなくなると、ジャックは安堵の息を吐いた。だが、道のりはまだまだ長い。マッド・ハッタ―と接触することがゴールなのだ。現状彼らの尻尾さえ掴めていない。ここで無駄な時間を消費してはいけない。


「行こう、タルト」


 二人は再び歩きだした。

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