第十二章 ありすは殺されかける

 1


 人が死ぬ瞬間を見たことがある、という人は決して多くはないだろう。自分が他者の命を奪う当事者になるか、一部の特殊な職業につかない限りは。

 「死」というものは日常とはおよそかけ離れてところにあるのだ。人はそう簡単に死なない。


 夢の中ではあるけれど、私にとってそれは初めて目撃した死の光景だった。命の消失とはこうもあっけないのか。


 そう私が感じた理由は彼の死にざまにあった。


 キーラは最終的に、光となって消えたのだ。まるで魂が天に召されるように。


 クロックは空中にわずかに残る光の尻尾を掴もうと手を振り上げたが、光はその勢いによって完全にかき消されてしまった。


 無音の時間が過ぎていく。誰もがその場に固まったまま動こうとはしなかった。状況に思考が追い付かないのだろう。


「レリック」


 沈黙を破ったのは責めるようなクロックの一言だった。


「お前、なにすました顔してんだよ。悪戯? これのどこが悪戯だ」


 二人の間に鋭利な視線が交わされる。一瞬即発の空気を感じ取ったのか、ドナルドが仲裁に入った。


「待ちなよ、クロック。レリックを責めるのは筋違いだ。とりあえず席に着いてくれ。イリヤたちもだ。皆、落ち着いて、冷静になろう。いったい何が起きているのか」


 ドナルドの穏やかな声色に平静を取り戻したのか、クロックは「すまん」とだけ言って自席に戻った。レリックは顔色一つ変えずにキーラのいた席を注視している。


「ねえ、キーラは?」


 イリヤが誰ともなしに尋ねた。その答えは私の隣の空席が端的に示している。ドナルドが曖昧に首を振ってみせると、彼女は握りしめた拳で壁を殴った。


「確認しよう。イリヤ、リリー、薬剤庫に分解蜂の解毒剤はんだな?」


 六助の問いに二人は揃って頷いた。


「あの」と私はたまりかねて質問する。


「今のはいったい何なんですか? キーラさんが、光になって消えちゃったのは」


「分解蜂という蜂の毒だよ。この蜂に刺されるとしびれや吐き気に襲われるんだ。同時に体が分解され、光の粒になって消滅してしまう。解毒剤が流通しているから、この蜂に刺されて死ぬなんて事故はほとんど起きないはずなんだ。しかし、今のようにろくな手当もしないまま放置すれば確実に死ぬ」


 レリックが顎に手を当てながら言った。


「なんでそんな危険なものがここに?」

「あれはキーラのコレクションの一つだ。彼は抽出した毒を瓶に集めて保管していたんだ。光に包まれて遊ぶためにね。服毒量が少なければそれほどひどい麻痺には襲われないから自力で解毒剤を服用できる。しかし、今のはかなりの量を盛られていたようだ」


「この毒がキーラの紅茶に混じっていた。ということはこの中の誰かがキーラを殺そうとしたってことか。ご丁寧に解毒剤を隠してまで」


 クロックはまだ感情が抑えきれないようで、当たり散らすような口調だった。その時、私はあることに気づいた。墨が半紙に滲んでいくように、恐怖心が私の心を黒く染めていく。


「違います、クロックさん。毒が入っていたのはキーラさんのカップじゃない」


「ありすの言う通りだ。キーラはお茶を飲む直前にありすとカップを。しかもそれはキーラから持ち掛けたことだ。紅茶はすでに淹れてあった」


 そう、キーラが飲んだお茶――毒が仕込まれていたお茶は元々私にあてがわれたものだった。言い換えると、毒は私に仕向けられていたのだ。

 足元から寒気が這い上がってくるような感覚がした。夢の中ではあるけれど、私は今、死にかけたのだ。


「誰かがありす様を殺そうとした。なんてこった。革命を誓い、互いに命を預け、支え合った仲間の中に〈過激派〉が潜んでいたっつうことか? ふざけんじゃねぇぞ。誰だ!」

「過激派?」


 私は誰にともなく尋ねる。


「我々マッド・ハッタ―は一枚岩じゃないということです。先ほど娯楽室で話しかけた面倒なこと、というのがつまり、過激派の連中のことなのです。奴らはありす様が女王の手に渡り、革命の兆しが失われるくらいなら、いっそのことこの世界を終わらせてしまおう、という狂った信念を掲げているのです」


「世界が終わるっていうのは?」


 六助は固く組んだ手の上に顎を乗せ、神妙な顔つきで言った。


「あなたはこの世界の分身である、ということはすでにお話ししました。つまり、あなたの死は世界の死。


 なんてこった。


「じゃあ、まとめるとこの中の誰かが私を殺して世界を終わらせようとした。だけど、運悪くキーラさんが毒入りの紅茶を私の代わりに飲んで、それで死んでしまった」


「その通りです」

「そんな……」


 ふと、その時思い出したのは父との会話だ。核によって世界が消滅する『ある日』。

 彼らにとって、私はまさに核兵器なのだ。この夢の世界の『ある日』は、私の死によって訪れる。ゆえに彼らは私をしたいのだ。世界を終わらせることのできる私を味方につければ、女王の圧政に対する強大な抑止力となる。


 ああ、きっと父があんな話をするから、J**国が核ミサイルを飛ばすなどと宣言するから、私はこんな夢を見てしまったのだ。


「いや待て」とクロックが口を挟んだ。


「犯人は最初からキーラを狙ったのかもしれねえだろ。あいつがカップを交換することを予想した上でありす様のカップに毒を仕込んだんだ」


「それはないよ」とレリック。


「犯人がキーラを毒殺したかったのなら、そんなまどろっこしい工作をする必然性がまるでない。最初からキーラのカップに毒を塗るか紅茶に混ぜておけばよかったんだ」


「その場合だとキーラがカップの交換を要求したらその毒はありす様に行くじゃねえか」


「キーラがカップを交換することは犯人にとって予期せぬ事態だったに違いない。仮にキーラが交換を要求しなかったら、ありすが死に、世界が消滅していた。犯人の狙いがキーラだと仮定するなら、ありすのカップに毒を仕込むのは合理的ではない。世界の終わりを天秤にかけてまでキーラを殺害する理由はないからだ。彼はたしかに異常者ではあるけれど、彼を心底嫌っていた者はいないはずだ」



「それはそうだが」


「そもそも、キーラを狙うのであれば今この場でなくともいいじゃないか。わざわざ全員が集まっている場でキーラを暗殺するメリットはなんだ? 今まで二人きりになれるチャンスがいくらでもあったのに」


「じゃあ、誰が……」


「誰がやったのかは判らないが、犯人がありすの殺害を企てた過激派だということに疑いの余地はないだろう。ありすのカップに毒が仕込まれていたことと解毒剤が事前に隠されていたのがその証拠だ」


 そこでレリックは言葉を切った。大きな耳がひくひくと動いている。気が立っているのだろうか。怒ってる顔も可愛いなと不謹慎なことを思う私だった。


 2


 沈黙が垂れこめた。喉の渇きを覚えてカップを取ろうとしたが、すぐに手を引っ込めた。この紅茶にも毒が入っていないとは限らない。


「考えるべきは、誰がいつ、毒を混入したかですね」


 ドナルドが栗色の前髪を撫でながら言う。


「この場で毒を仕込むのは不可能でしょう。たくさんの目がある中で、手早く毒を混入させるなんて、どんなに上手くやったとしてもバレてしまう」


 毒の混入したカップは私の目の前にあった。私とて鈍感ではないから、誰かが私のカップに毒を仕込もうものならすぐに発見できただろう。


「それにこのテーブルはガラス製だ」ドナルドはコンコンとテーブルを叩きながら「怪しい挙動をすれば、たちまち目につくでしょう。となると、毒が仕込まれたのはお茶会が始まる前、準備の段階ですね。僕を含めてお茶会の準備をしていた者たちは全員その機会があったということになる。名前を挙げましょう。僕、レリック、ミーシャ、ハーブ、キーラ、リリー」


「クロックと六助もそこに追加なさい」


 ミーシャがしわがれた声で言った。クロックがぎろりと老女を睨む。


「何だとばあさん。俺たちは邪魔だからと娯楽室に追いやったのはあんただろうが」

「あなたたち二人だって毒を仕込む機会くらいはありましたでしょう」


「ねぇよ」


「いえ、ありました。あなたたちが出て行ったのはだいたいの準備が終わってからです。具体的に言うのであれば、カップをテーブルに並び終えたあと。ありす様のカップに毒を塗るくらいのことならできたでしょう」

「このばばあ」

「ミーシャさんの言う通りだ、クロック。僕らにもチャンスはあった。それは認めなくてはいけない」


 六助がひときわ低い声で言った。彼はこの異常な場でも感情をコントロールするすべを心得ているらしい。


「完全に疑いが晴れるのはイリヤだけか。彼女はずっとありす様と一緒にいたからな」


「その通りです」と私が頷く。そう、イリヤは私がこのアジトに来てから、片時も私のそばを離れなかった。


「ちなみにカップをキッチンから運んだのは誰だ?」

「ハーブとリリーだ」

「どっちがありす様の分のカップを運んだんだ。またその時、それがキーラが普段使っていたカップだとは気づかなかったのか?」


 六助の詰問するような調子に、ハーブは物怖じしているように見えた。おっとりとした見た目に反して、彼女は繊細な心の持ち主のようだ。そんな彼女を気遣ってか、リリーが答える。


「ありす様の席にカップを運んだのは私よ。それがキーラのだとは思ってもみなかった。これで満足?」


 華奢な腰に手を当て、彼女は六助をにらみつける。


「そうカリカリするなよ。あくまで確認をしてるだけなんだから」

「そういうふうには聞こえなかったわ」


 リリーがそっぽを向くと、六助は困ったように肩をすくめた。


「そういえばレリック、あんた会議の前にリビングから出て行ったね。その時、毒を取りに行ったんじゃないのかい?」


 思い出したようにイリヤが言った。たしかに、レリックは二階に上がる前、一度廊下に出ている。五分ほどで戻ってきたが……まさか彼が犯人だとは思えない。思いたくない。


「トイレに行っただけだよ」


「本当かい?」


「本当さ。それにね、イリヤだけじゃなく、僕もまた絶対に犯人ではないと言い切れる証拠がある」


 レリックのこの言葉に場がざわついたのは言うまでもないだろう。一同の視線が白兎に突き刺さる。


「ありすと最初に出会ったのは他ならぬこの僕で、クロックとリリーたちに合流するまで僕と彼女は二人っきりだったんだ。これがどういう意味を持つか判るかい? 僕にはいつでもがあったんだ。仮に僕が世界の終わりを望む過激派だったら、彼女があの『ありす』だと判った時点ですぐに殺していたよ。これはさっきまでありすと二人きりだったイリヤにも同じことが言えるね」


 仮定の話だとしても、私を殺すだの、殺せるチャンスがあっただのという話は聞いていて気持ちのいいものではない。

 レリックが私と出会った時の反応を思い出してみても、彼が私の死を願う異端者だとは思えない。それに加えてあの薬剤庫には殺された当の本人、キーラがいたのだ。彼の証言によると、彼はずっとあの場所にいて、そこを訪れる者はいなかったという。

 もし何者かが彼のコレクションである分解蜂の毒とやらを盗むとするなら、それはキーラが薬剤庫から出て行ってからのことだろう。それは私とイリヤが薬剤庫を訪れたあとだ。


「誰がやったのか、という議論はここで打ち止めにしよう。これ以上建設的な意見はでないだろう。ここまでで判ったことをまとめると、犯人はありす様の命を狙う過激派であること。イリヤとレリックは犯人ではないということ。それ以外の人物には毒を仕込むチャンスが少なからずあったこと。異論は?」


 六助が出した結論に異を唱える者はいなかった。



「可哀そうなキーラ」



 イリヤがぽつりと漏らした。

 志を同じくした仲間を失った痛みを感じているのだろう。ミーシャがふところから棒のようなものを取り出した。しわがれた老女の手に握られているのは一本の笛だった。

 血色の悪い唇に笛を押し当て、彼女は死者に捧げるレクイエムを奏で始めた。


「これからどうする? 俺たちはどうするべきなんだ」


 クロックが葉巻を取り出しながら言った。


「どうするもこうするもないでしょ。とにかくありす様を本部にお連れするのよ。ここには過激派が混じっているんだから、一刻も早くありす様を安全な場所にお連れしなくてはいけないわ」


「そうしたいのはやまやまだが、まだ本部から連絡が来ない」


「そんなの待ってる余裕はないでしょ。世界の危機が迫っているのよ」


 そう言ってリリーが立ち上がった時、どこからともなく一羽(一通?)の手紙鳥が舞い込んできた。小さな羽をぱたぱたさせながら、その四角い鳥は弧を描くように空中を飛び回る。

 一同は息を飲んでその異形の鳥を見守っていた。やがて勢いを失った手紙鳥はらせん状に降下しながら六助の手許に落ちた。


「本部からの伝達だ。ちょうどいいタイミングだな。どれ」


 六助の手元を覗き込むようにリリーとレリックが彼のそばに寄った。


「これは……」


 開いた手紙に目を落とした三人の顔が、見る見るうちに強張っていく。


「何が書かれているんだい?」

「俺たちにも見せてくれ」


 イリヤとクロックが席を立ち、リリーとレリックが入れ替わるようにして場所を譲った。それからその手紙はハーブ、ドナルド、ミーシャの順に渡った。

 驚いた者もいれば、難題を突き付けられたかのように顔をしかめる者もいたりと、皆の反応はまちまちだったが、共通しているのは彼らの表情に怯えるような態度が窺えたことだった。

 私はこの世界の文字が読めなかったため、手紙を受け取っても何の反応もできなかった。


「なんて書いてあったんですか?」

「簡単なことだよ、ありす」


 レリックが曇った表情のまま言った。


「どういうわけか知らないが、女王軍がこの森に向かっているらしい。まずいな」


「女王軍って、エリナ女王の?」


「ああ、正直かなりやばいね。マッド・ハッタ―の本部はここから東に行ったところにあるんだけど、今そこに移動すると女王軍と鉢合わせる可能性がある。それ自体もまずいが、何より避けたいのがありすの存在が女王軍に知れ渡ることだ。君が奴らの手に落ちれば、マッド・ハッタ―の勝機は完全に無くなる。この世界はエリナ女王に支配されてしまう。くそっ、なんで女王軍がこっちに向かっているんだ。チェシャからありすの情報が漏れたのか?」


「全くの別の可能性もある。ここにアジトがあることは知られていないはずだからな。ありす様や俺たちには関係のない、何か別の目的があって遠征しているとも考えられるさ」


 そう言いながらも、六助は眉間に深いしわを刻んでいる。


「ここに残れば過激派がありす様を殺そうとする。出ていけば女王軍にありす様を奪われる危険がある……過激派からありす様を守りつつ、女王軍をやり過ごす。その後で本部に向かうのが最善の手かな」


「そうだね。それがベストだ。過激派がこの中に潜んでいるというのはかなりやばい状況だけれど。誰か反対の者は?」



 イリヤが手を上げた。



「過激派がここに混じってるなら、あたしはすぐに本部に向かった方がいいと思う。だってそうだろ。下手すりゃいきなり世界が終わる可能性だって考えられるんだぜ。今この場で過激派のやつがありす様に飛びかからない保証なんてない」


「それもそうだけど……女王軍にありすの存在がばれるのだけは避けたい。さっきも言ったけど、やつらの許にありすが渡れば、革命はそれこそ不可能だ。どうだろう、少なくとも女王軍がこの付近から遠ざかるまではここに留まっていた方がいいと思うんだ。この森を越えて西の山の方へ行くかもしれない。ここが、僕らが未来の勝利を手にできるかどうかの正念場だ。キーラの死を無駄にしないためにもね」


「……判ったよ」


「つまり、どういうこと?」


 レリックに再度尋ねる。


「僕たちはね、このアジトから出られなくなった、ということさ」

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