第一章 ありす イン ドリームランド

 ぼやけた緑色が視界を埋め尽くしている。それはやがて、鮮明な自然の風景となって現れた。


 気がつくと私は森にいた。


 背中がひんやりとしていて気持ちいい。どうやら木の幹に寄り掛かっているようだ。辺りには見慣れない植物が群生していて、生温い風が木々の間を渡り歩いていた。


「……ここはどこ?」


 静思する間もなく、ここが夢の中であると直感できた。


 そう、私は夢を見ているのだ。そうでなくては、普通のちょっとだけかわいい女子高生である私、津田つだありすがこんな見知らぬ森の中にいる理由に説明がつかないではないか。

 寝ている間に誘拐されたとも思えないし、そんな目に遭う覚えもない。となれば、ここが夢の中であり、私は今、明晰夢を見ているのだということを疑う余地はないだろう。


 明晰夢。


 夢を夢であると自覚しながら見ている夢のこと。

 ほとんどの人間は目覚めてから睡眠中に見た不思議な体験を夢だと認識する。それがいかに突飛で不可思議な内容であろうとも、夢を見ている段階ではそれを微塵もおかしく思うことはない。

 夢を見ている間は、夢の世界こそがであり、なのだから。しかし、まれに夢の中で自意識を取り戻す現象がある。それが明晰夢というやつだ。


 私も過去に何度か明晰夢を見たことがあるが、今回ほどはっきりとしたそれを見るのは初めてだ。

 私の実体験においては、夢を夢だと認識した瞬間、まるで幽体離脱をしたかのように、私の意識とも呼ぶべきものがその世界からすっぽりと抜き取られ、目が覚めたものだ。しかし、今のところそのような兆候はない。


 自分の現状を認識したところで、私は自分の装いに目を向けた。

 真っ白なリボンを胸元にあしらった水色のエプロンドレスを着ている。白色のフリルとレースがいいアクセントになっていて可愛らしい。

 自分でも言うのも何だが、陸上部で鍛えた細くてすらっとした足は、純白のタイツのおかげでより美しく見えた。足元は真っ赤なヒールで、それが白を基調としたこの服装によく映えていた。


(これはもしかして……)


 夢の内容と寝る前の体験には因果関係が存在するとかしないとか。


 「ふしぎの国のアリス」を久しぶりに観た結果、私の夢を生み出す脳のどこかの細胞が刺激され、私は「アリス」として夢の世界に迷い込んでしまったのだ。そうに違いない。

 おそるおそる足を踏み出してみた。木漏れ日が落ちる暗褐色の地面を十歩ほど進み、振り返ってみる。


「うわぁ、おっきい……」


 私は思わず息を呑んだ。というのも、今まで寄り掛かっていた木が、驚くほど立派な大樹だったからだ。

 十七年生きてきたが、これほど大きな木は見たことがない。太くたくましいその幹は、直径五メートルはあるだろう。

 ところどころに生えた苔が、厳かな雰囲気を醸し出している。しめ縄でも巻けば御神樹として祀られそうだ。高さは優に三十メートルを超えていて、見上げていると首が痛くなった。


「さすが夢の世界……」


 大樹の裏手には色とりどりの花が咲いていた。薔薇、パンジー、チューリップ、百合、ひまわり……

 風に乗って漂ってくる花たちの香りは、これまた今まで嗅いだことがないほど甘く、かぐわしい香りだった。

 そのカラフルな情景を眺めているだけで心の奥がむずむずとしてくる。童心に返ったような好奇心と興奮が全身を駆け巡った。


 ここは夢の世界。


 気がつくと、私は目の前の花たちに向かって話しかけていた。


「こんにちは。お花さんたち。ご機嫌はいかが? 私の名前はありすよ」










 返ってくるのは非情なまでの静寂。風がそよそよと私の髪をなびかせ、それが私の羞恥心をじわりじわりと刺激する。


「……おほん、恥ずかしがり屋さんなのかしら。そうよね、きっと。だってここは夢の中なんだもの。お花さんたちだって喋ることができるに決まってるわ。それなのにこうして黙っているってことはシャイな証拠よ。そうに決まってる」


 私の声だけが閑散とした森に吸い込まれていく。やがてゆったりと吹いていた風すらもやんでしまい、いよいよ、時間が止まってしまったかのような空虚な静けさが私を中心とした森の中を支配し始めた。


「……」


 いったい何なのだ、これは?


 私は強い憤りを感じていた。


 ここは夢の中なのだ。私が作り出した世界。いわば、この世界において私は神にも等しい存在なのだ。しかも私の自意識がある明晰夢ときている。


 聞いた話では、明晰夢の中では自分の思うままにやりたい放題できるらしい。

 空を飛びたいと願えば体はふわりと宙に浮き、魔法を使いたいと願えばその瞬間からあらゆる魔法を熟知した大魔導士になれる。現実ではとうてい叶わぬ願望も思いのままのはずなのだ。


「私のことが大好きで大好きでたまらない十歳くらいの可愛い系男の子よ、出てこい」















 何も起きない。


「松坂牛の特上霜降りステーキよ、出てこい」


















 何も起きない。


「空飛ぶ魔法の絨毯よ――」



















「あっはっはっは、頭は大丈夫かね? お嬢さん」


 突然、小馬鹿にしたような笑い声がどこからともなく聞こえてきた。こもりぎみの低い声だ。


「誰? どこなの」


 私は問いかける。


「ここだよ、ここさぁ」


 声の主はよりいっそうこちらを煽るように語尾のトーンを上げた。


「どこにいるの」


 きょろきょろと周囲を見回してみるが、目に映るのは深みのある森の風景だけ。人影どころか、動物の気配すらない。

 ひっそりとした静寂の中に、私の声が雷鳴のように轟く。


「あなたはだれなの? どこにいるの?」

「こっちさ」


 不思議なことは、この低く、そしてくもぐった声が様々な方向から聞こえてくることだった。まるでその都度移動して、位置を変えているかのように。それに気づいた私は、さっと視線を下げ、地面をよく観察した。


(……やっぱり)


 私の半径二、三メートルの土の上には、子供が走り回ったような足跡が散見できた。


「ここだよーん」


 声のした方に視線を滑らせた。


 獲物を発見した山猫のように、息を殺す。

 私が思いついたこと、それはこの成立する考えだった。声はそう遠くから聞こえているわけではない。それなのに、声の主は姿どころかその気配すら見せない。そして、その声は毎回異なる方向から聞こえてくる。


 全神経を尖らせ、地面を注視した。やがて、柔らかく湿った土が、わずかにへこむのを見つけると、私は反射的にその方向へ飛び出した。

 前のめりになり、二メートルほど走ると、目には見えない何かにぶつかった。私はすかさずそれを抱え込む。


「いた! 捕まえた」

「もうばれちゃったか。降参だよ、降参。離してくれ」

「じゃあ姿を見せてくれる? あなた、があるんでしょ?」


 そういって私は胸の中でもがき続けているものを開放してやった。ややあって、目の前の風景がぼやけたかと思うと、そこにタキシードを着た猫が浮かび上がるようにして現れた。


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