第二章 ありすは夢の中を探検する
1
その猫は普通の猫とほとんど変わらない大きさの小さな猫だった。品種はブリティッシュブルーだろう。灰色の毛並みに琥珀色の瞳のコントラストが美しい。
異なるのは、どこで仕立てたのかもわからない立派なタキシードに身を包んでいることと、立派な革靴を履いた二本の足で立っていることだった。
「こんにちは、可愛いお嬢さん。しかし、僕を捕まえるとはただ者ではないね。どうして僕が透明になれるって判ったんだい?」
猫は心底不思議だというふうに首を傾げた。
「どうしてって、それは決まっているわ。声はいろんな方向から聞こえているのに、あなたはいっこうに姿を見せない。遠くにいるふうでもない。ということは、透明になって私のそばをぐるぐる動き回っていたってことでしょう」
「……飛躍が過ぎる論理だね。まあ、しかし間違ってはいない。そう、僕は透明になれるのさ」
そう言って、猫は再び体を透明にしてみせた。彼の向こう側の景色が、ぼやけた形で視界に入った。この不思議な猫の登場に、私の興奮はぐんぐん上昇していった。
「ねぇねぇ猫ちゃん、あなたのお名前はなんていうの?」
「人に名前を聞くときは、自分から名乗るものだよ」
猫に話しかけるという行為は珍しいことではない。
現実世界において、動物に一方的に話しかけるのは動物好きなら誰もが一度は経験したことがあるだろう。しかし、私は今、猫と会話をしている。言葉を交わしている。
この摩訶不思議な状況に私は順応していた。なぜならここは夢の中。ありえないことがありえてしまう世界なのだから。
「私の名前はありすよ。津田ありす」
「ありす、ねぇ……ふーむ……ありす?」
いつのまにか、猫は私の背後に移動していたらしい。もこもことした頭を右足(右手?)で撫でながら、彼は私の横をすり抜けて一メートルほど歩くと、いやに神妙な顔つきで言った。
「おかしなことを訊くけれどね、ありす、というのは本名かい?」
「ええ、そうよ」
「本当に本当?」
「そうだって」
「ふーむ」
猫の様子はどこか驚いているようにも見受けられた。私は一歩距離を詰める。
「ああ、自己紹介が遅れたね。レディ相手に礼儀を欠くことは紳士にあるまじき振る舞いだ。僕の名前はチェシャ。予言猫をしているんだ。今日もここから少し行ったところに住んでるお得意様の頼みで一つ予言をしてきたところさ。で、一仕事終えた帰りに花に話しかけている君を見つけてね。あまりにもおかしくってちょっとからかってみた、という次第なのさ」
「その行いは紳士的と言えるのかしら」
「だって」とチェシャは右足を口元に当て、笑い声を押し殺すように言った。
「花に真剣に挨拶をするやつなんて、世界中どこを探してもいないよ。花が喋るなんて、そんなおかしなことがあるかい? くすくす、うぷぷぷぷ」
チェシャがいよいよ肩を震わせて笑い出したので、私はかすかに込み上げてきた怒りをぐっと堪え、諭すように言った。
「でもあなたは猫なのに喋ってるじゃない」
「猫は喋るものだろう?」
「え?」
「へ?」
その場に重苦しい沈黙が流れた。
チェシャは笑うことを止め、「こいつ、頭は大丈夫か」というような面持ちで私をじっと観察していた。その琥珀の瞳には哀れみの色さえも窺えた。私は私で、この世界の常識について考えを巡らせていた。
猫は喋ることができる。しかし花は喋ることはできない。
いったい何が違うのか。
一般的な見解でいえば、両者の違いとは動物か植物かの違いだ。現実世界でも、鳴き声を発して意思の疎通をはかる動物がいるという。そしてそういった意味でいうところの「声」を出す植物がいるということを、少なくとも私は聞いたことがない。
そういうことなのだろうか。
それとも意識、すなわち心があるかないかの違いなのかもしれない。客観的な判断でしかないが、私は動物に心と呼ぶべきものがあると思っている。
ただ、このチェシャという猫はあくまで私の夢が作り出した架空の存在だ。彼に「心」や「意識」があるなんて、それこそおかしな話ではないか。
(ここは夢。深いツッコミはやめよう)
夢には夢のルールがある。そう結論づけて、私はそれ以上そのことについて考えるのを止めた。
「それにしても、君は不思議な人だねぇ」チェシャは前足の肉球を擦り合わせながら「僕の能力と悪戯を見破る鋭い観察眼があるのに、一般的な常識は持ち合わせていない。いやはや、君のような人を世間では天才というのかもしれないなぁ」
皮肉るような調子である。
「そういえば、さっき言ってた予言っていうのは?」
「ああ、あれね」
チェシャは懐から小さな棒のようなものを二本取り出すと、大きい方の先端を鼻に近づけて大きく息を吸った。そして残った一本を差し出しながら、
「ふぅ、今日のような日は、シノブ産のマタタビに限るな。君も一本どう?」
「いえ、私は遠慮しておくわ」
「ああそう。ふぃー。おっといけない。トんじまうところだった。話を続けようか。さっきも言ったけど、僕の職業は予言猫。いいことも悪いことも僕にかかればなんでもお見通しなのさ。自慢じゃあないが、僕の予言は外れたことがない。ありす、君も占ってあげよう」
「でも私、お金がないわ」
「そんなものいらんよ。君は面白いやつだから、今日だけ特別さ。からかってしまったお詫びだよ。さぁ、手を出して」
手相占いだろうか。言われるままに右手を出すと、チェシャはマタタビを口に加え、両方の前足で私の手を触り始めた。肉球のぷにぷにとした感触がこそばゆい。
「ふーむ、君の誕生日は?」
「八月十九日よ」
「好きな食べ物は?」
「焼肉かしら」
「身長と体重は?」
この質問はセクハラではないか?
「その情報いる?」
「何言ってるんだ、一番重要な項目じゃないか」
「……一六〇センチの、五十三キロよ」
「なるほどなるほど。これはまた大変な」
「それ、占いのこと言ってるのよね?」
「それはそうだろう」
そこで質問を打ち切ると、チェシャは唸るような声を上げた。その声には聞くものを不安にさせるような重たい響きが含まれていて、私は自分でも気づかぬうちに緊張していた。
「ありす。よく聞くんだ。いいね?」
チェシャは名残惜しそうに私の手を放すと、教師が聞き分けのない生徒に言い聞かせるような温和な口調で言った。
「とても不吉な結果が出たよ。ありす、君の運命の先には大勢の人の死が待っている」
「えっと、それは……どういう――」
突然の宣告に私は困惑を隠せなかった。そんな私を無視するようにチェシャはまくしたてる。
「ああ、きっとあれはそういうことだったんだろうな。いいかい、よく聞くんだ。この予言を避けることはほぼ不可能だ。これから先、君のせいで多くの人間が死ぬだろう。しかし、被害を軽減することはできるかもしれない。ここから少し行ったところにさっき僕が予言をしに行った客の家がある。その客に出た予言はなんと『待ち人の名はありす』というものだった。だから僕はさっき君の名前を聞いた時、驚いたんだ。でもね、ありす。その客に出た予言は吉報の類のものだったから、もしかすると彼と会うことで、君はこの負の予言を少しでも回避できるかもしれない」
「ちょっと待ってよ。人が死ぬって、そんなこといきなり言われても……」
「すまない、ありす。僕はもう行くよ。薄情だと思わないでくれ。僕の予言は絶対に当たってしまうんだ。運命には逆らえない。君といると僕までその『死』の運命に巻き込まれるかもしれないんだ。僕だって命は惜しい。じゃ、そういうことで、バァイ」
それだけ言うと、猫は透明になり姿を消してしまった。
「ちょっと待ってったら」
一人取り残された私は、猫の後を追おうとするも何かに足を取られ、その場で転んでしまった。見ると、マタタビの棒きれが足元に転がっていた。体がじんじんと痛む。夢の中でも痛覚は働くようだ。
「夜の方角を目指せ。そこに君を待っている者がいる」
チェシャの声が遠くから聞こえてきた。
2
よくよく考えてみれば、夢の中の人間が死ぬからなんだというのだ。彼らは一夜限りの存在でしかない。
朝が来て私の本体が夢から覚めれば、熱湯に放られた氷のように跡形もなく消えてしまう運命にあるのだ。
「それにしても、夜の方角ってなんだろ」
チェシャが言うには、私を待つべきだ、という彼の予言を受けた者が夜の方角にいるようだ。
私の予言は別として、この世界をもう少し探検したいという欲求は抑えられない。夜、ということは西だろうか。太陽が沈む方角のことを指しているのかもしれない。
しかし――
「西ってどっちなんだろ。それとも……」
チェシャの言う「夜」とはすなわち「night」のことではないか。つまりN、北を目指せということなのかもしれない。ただ、そうだとしても結局方角を確かめるすべはない。
大ぶりの枝が空を覆っている。
隙間から覗く空は青いことには青いが、それだけでは何も判らない。木に登って太陽の位置を確かめようと試みたが、手足を引っ掛けられるだけの枝やくぼみが私の背では届かない高さにしかなく、断念した。
今現在の時刻すらも判らない。そもそも夢の世界に時間という概念はあるのだろうか。
「とりあえず歩くしかないか」
何もせずじっとしているのは性に合わない。花たちに別れを告げ、私は歩き始めた。
「歩きにくいなぁ」
森の中に舗装された道などあるはずもなく、私は足元に注意を払いながら少しずつ進んだ。ヒールでこのような場所を歩くのは初めての経験だった。
土はならした後のグラウンドのように柔らかく、足にそれほどの負荷はかからなかった。空気は澄んでいて、ストレス社会に疲れた大人たちが森林セラピーをするには持ってこいの場所かもしれない。もっとも、ここは私の夢の中だから訪れることはできないだろうけど。
腐りかけの倒れた木を乗り越え、雑草の茂った一帯を抜けた。右手には大きなハエトリグサとウツボカズラが並んでいる。こういった取り合わせも、夢の中ならではだろう。
ウツボカズラの中を覗いてみると、悲しそうな顔をした人面ハエと目が合った。
「助けて、助けて」
ハエが蚊の鳴くような声で訴える。
「どうしたの?」
「助けて、食べられちゃった」
「ふーん」
もはや並大抵のことでは動揺しない私だった。花は喋れなくても虫は喋れるのだな、とそんなことを考えながらその場を後にした。
「あ、待って、行かないで」
絞り出すような声を背中に受けながらさらに進む。可愛い少年だったら助けてあげたが、残念ながらおっさんの顔だったので無視する。虫だけに。
最初の大樹から十五分ほど歩いたところで、細い獣道に出た。
「どっちかな」
道は左右にどこまでも延びていた。案内看板のようなものはなく、左右どちらの道も同じような狭い道だ。
どちらに進めばよいのか。
チェシャの足跡が残っていないか確認してみたが、落ち葉や木の枝がほどよく散乱していてよく判らなかった。一本道なのだから、たとえ間違えても引き返せばよい、とそう楽観的に考えて、私は右の道を選んだ。
五分ほど歩くと、あることに気がついた。
前に進むにつれて、辺りがどんどん薄暗くなっていくのだ。大気はひんやりとしていて、少し肌寒い。そして極めつけは空の色だ。枝の隙間からわずかに見える空は、なんとすでにオレンジ色に染まっていた。
「えっ、どうして?」
まだ森の中を三十分も歩いていない。それなのに、どうして空は黄昏ているのか。
さすがの私もこの時ばかりは恐ろしくなった。とっさに踵を返して駆け出した。すると、ものの数十秒で辺りの雰囲気は元に戻り、地面には木漏れ日が落ちているのが見えた。
(……これは)
なるほど、これがあの予言猫の言うところの「夜の方角」というやつなのかもしれない。進めば進むほど、夜に向かっていく方角……
タネが判ってしまえば恐れることはない。私は再び「夜」へと進んだ。
やはり私の解釈は間違っていなかったようだ。この道を右方向に進むと、日は沈み、うっそうとした森の中に夜のカーテンが下りる。
(どういう原理になってるんだろう)
ほどなくして、辺りは完全に夜の世界になった。
発光するものが手元になかったため、いずれ真っ暗になってしまうのではないか、と不安になったが、それは杞憂に終わった。誰が取り付けたのか、道を挟む左右の木々に燭台が設置されており、白いろうそくが火を灯しているのだ。このおかげで灯りには困らないが、少し危険なようにも思えた。
(山火事にならないのかな? まあ夢だし細かいことはいいか)
ただでさえ静かだった森はいっそう静まり返り、私の足音だけがさくさくと耳に残った。
その暗がりの中をいったいどれだけ歩いただろうか。それは長い、とても長い道のりだった。
人間、終わりの見えないものには本能的に退屈や恐怖を感じるものだ。苦しい長距離走や苦手な勉強も、終わりがあると判っているから頑張れる。そういった意味では、私はこの果てしない道に負の感情を抱くことはなかった。理由は二つあった。一つはこのぼんやりとしたろうそくの灯りが、心の中の不安をかき消してくれているような気がしたから。もう一つは、この世界が終わりのある夢だから。
道は次第に蛇のように曲がりくねっていく。
歩きながら私は考えた。
先ほど出会ったチェシャという猫の紳士はおそらく、いや、まぎれなく「アリス」のチェシャ猫をモチーフにしたキャラクターだ。しかし、ディズニー版や原典のそれとは異なり、意味もなくにやにや笑うことはせず、(自称ではあるが)紳士的な性格をしていた。それに花たちも喋ることはできないでいた。
ここから判ることは、私のこの夢は「アリス」をモチーフにしながらも、ところどころで差異があるということだ。
そのうち、白兎やハートの女王にも出会うかもしれない。奇妙なお茶会に招待されたり、大きくなったり小さくなったりするかもしれない。その時、どのようなアレンジが施されているのか、今から楽しみだった。
(それまで夢から覚めませんように)
ゆらめく炎に導かれて私がたどり着いたのは、開けた場所に建つ二階建ての洋館だった。三十分ほどの道のりだった。この辺一帯は木々が開けており、今まで隠されていた空が満開の星明りを伴って現れた。
星々に照らされたその館を見て、私の心は踊りに踊った。
白く塗られた壁。ピンクの屋根から生えた白い二本の煙突は、まるでピンと立った耳のよう。二階には窓が二つあり、玄関と合わせて顔のように見える。白兎の家だ、と私は直感した。
チェシャがつい先ほどまで訪れていたのはきっとこの館だろう。となると、私のことを待っている者とはつまり、白兎ということになる。
「アリス」の世界において、白兎とはアリスの興味を促し、不思議な世界へと誘った張本人だ。「遅刻する」が口癖で、物語の中でたびたびアリスの前に現れては彼女を導いたり騒動に巻き込んだりするキーパーソンである。
玄関の前に立ち、軽くノックしてみる。
「こんにちは……いや、こんばんは?」
返事はない。ノブを捻ってみると、玄関扉はギィ、という音を立てて開いた。
「お邪魔しまーす」
室内は何かしら甘ったるい匂いがたちこめていた。お香でも焚いているのだろうか。中は森と同じようにところどころにろうそくが置かれていて、真っ暗というわけではなかった。けれども、やはり人の気配はない。
玄関を抜けると二階へ続く階段があり、その奥に廊下が延びていた。
廊下を進み、目に入った扉を手当たり次第に覗いてみたが、どこにも白兎はいない。兎を象った調度品があるところを見ると、やはりここは白兎の家なのだろう。しかし、肝心の家主が見つからない。風呂場やトイレも確認してみたけれど、結果は変わらなかった。
いささか拍子抜けした私は、新しい発見を願う気持ちで二階へ上がった。
階段を上った先に左右二つの扉があった。二階は二間で構成されているようだ。まず左の部屋へ。
ここは寝室らしい。窓際に小さなベッドが据えられ、そのすぐそばに脚の長いティーテーブルがあった。書き物机や書架もある。本を一冊手に取ってみたが、アルファベットをより複雑にしたような文字で綴られていて解読は不可能だった。ティーテーブルの上には飲みかけの紅茶とお茶菓子が残っている。と、そのすぐそばにある不思議な何かが私の目に留まった。
「飴ちゃん? それともガムかな?」
円形のティーテーブルの隅に底の深いジャム瓶のようなものがあり、その中に直径二センチほどの丸っこいものが入っていたのだ。
赤い玉と青い玉の二種類がある。その鮮やかな色合いは、この暗い空間で異様なまでの存在感を放っていた。
私の目はその赤と青に惹きつけられてしまった。夢の中の食べ物はいったいどんな味がするのだろう。いや、そもそもこれは食べ物なのだろうか。
コルク製の蓋を外して赤い玉を取り出してみる。表面はつるつるで、コンビニのレジ横によく置かれている安っぽいガチャガチャのガムのようだ。草のような青臭い香りもする。
(食べたら大きくなったりして……)
そんな期待を胸に私はその赤い玉を口に放り込んだ。がりがりかみ砕いてから飲み込む。味はお世辞にもおいしいとは言えず、なんだか薬を食べているようだった。
(青い方はどんな味なのかな)
そうしてもう一つの色に手を伸ばしかけた瞬間、その変化が起こった。
「えっ?」
ひゅん、とした寒気が全身を走ったかと思うと、視界に映る全てのものが膨張を始め、大きくなっていった。いや、正確には私が小さくなっているのだ。天井がどんどん遠くなっていく。
私はたまらず叫び声を上げた。
「きゃあああああ」
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