第三章 ありすは白うさぎと出会う
1
気がつくと私は床の上にいた。
「嘘でしょう」
信じられない気持ちで自分の体を見た。どこにも怪我はなく、服もそのままだ。
まさか本当に体の大きさを変える薬だったとは。興奮よりも驚きの方が勝っていた。
心臓がばくばくと鼓動を強めて、腋の下に汗が伝った。
十畳ほどしかなかった部屋は今や、野球のグラウンドを二つほど詰め込んだとしても余りが出るような、とてつもなく広い空間へと変貌していた。
腰の辺りまでしかなかったティーテーブルでさえ、今の私からしてみれば、四階建てのビルに相当する高さがあった。
まるで映画のセットの中にいるようだ。放心状態のまま、私はしばらくうろうろしてみた。
床に積もり固まった埃は、灰色の雪のようで楽しい。蹴とばしてみようと足を出すと、蹴りあがるどころか逆に足の先に絡みついてしまい、取るのに苦労した。ベッドの傍に白い紐のようなものが落ちているので拾い上げてみると、白い抜け毛だった。
(白い毛……)
白兎の家に迷い込んだアリスは、体が大きくなるクッキーを口にし、家を壊してしまうほど大きくなってしまった。
今の私はその逆。
「アリス」の世界をなぞらえているようで、やはり微妙に違っている。私を待つという白兎にもまだ出会えていない。――とそこへ、
突然、腹に響くような重たい音がどしん、どしんと聞こえてきた。
「何なの?」
音はどんどん大きくなる。床も音に合わせて微弱に揺れているようで、ついには音が響くたびに、私の小さな体はトランポリンではねるように宙に浮かんでは落ちた。
誰かが家に入ってきたらしい。その者の歩く音と衝撃が、小人のような私をこのように弄んでいるのだ。やがて一人の人間が寝室に入ってきた。
(よく見えない)
私から見れば、ティーテーブルすら四階建てのビル並みの高さがあるのだ。入室してきた者の顔を見上げてみたが。周囲の暗さも相まって、ぼんやりとしか判らなかった。性別も定かではない。
その巨人は私を直立したままひとしきり私のことを見下ろすと、やがてティーテーブルに手を伸ばし、青い玉をつまんで私に手渡した。
「食べるといいよ。元の大きさに戻れる」
巨人はそっけない声で言った。
「あ、ありがと」
この体だからか、青い玉はやけに重く、両手で抱え込むようにして何とか持てているといった状態だった。歯を立てるようにしてかじりつく。
一口食べるたびに体が段階的に巨大化し、食べ終えると元のサイズに戻ることができた。そうなれば当然、正体の判らなかった巨人も、はっきり認識できるようになる。
私の目の前には少年がいた。
(あ、可愛い)
年齢は十歳ほどだろうか。クリーム色の長い髪に、透き通るような白い肌をしている。顔立ちは柔らかく、可愛い系の少年だ。
チェック柄のシャツにはしわ一つなく、半ズボンから細い足が覗いていた。腰に巻かれたベルトには鞘に納まった剣が吊るされている。
最大の特徴はなんといっても、彼の頭部から生える白い耳だろう。ちょこんと垂れた白くて長い兎の耳……
「君は誰だ? 僕の家で何をしている?」
少年は威嚇するような調子で言った。
私の行動は明らかな不法侵入なので、彼の怒りはもっともだ。今にも腰の剣を抜きかねない剣幕だった。しかし、幼い見た目で凄まれてもただ可愛いだけである。 私は少年に詰め寄りながら、努めてにこやかに言った。
「私の名前はありすっていうの。勝手に入ってしまってごめんなさい」
「ありすだって?」
少年はびくっと肩を震わせ、遠慮のない真っすぐな視線を私に向けた。この反応は予想できたことだった。
おそらくチェシャの言う「私を待つ者」とはこの少年のことだろう。白兎の少年は私の体を文字通り頭のてっぺんから足のつま先までじっくり観察していた。その表情にはどことなく高揚しているような一面が窺えた。
「本当に君がありすなのかい?」
「そうよ。チェシャっていう予言猫が教えてくれたの。私を待っている人が夜の方角にいるって。君でしょ?」
嘘をついても始まらないので、私はこの世界に来てからのことをありのまま話した。もちろん、ここが私の夢の中だということと、私が授かった「死の運命」については伏せて。少年は余計な質問で話を遮ることはせず、ただ黙って私の話に耳を傾けていた。
「うーん」と右手を顎に当てながら少年は唸った。悩ましげな姿も可愛らしい。
「勝手に入ったことは謝るわ。ごめんなさい」
「いや、いいよ。そうか、君がありすか。ふーむ。それにしてもあの予言猫め。顧客の情報をこうも簡単に流出させるとは……いやしかし、そのおかげで君に巡り合えたんだ。むしろ感謝すべきかな……」
「やっぱりあなたが?」
「そう、僕の名前はレリック。僕は、いや僕たちは君のことを待っていたんだ。しかし、今はタイミングが悪いな」
レリックは眉間にしわを寄せ、悩ましげに言った。
「僕たちって?」
「それは……今は内緒だけど、とにかくありす、君は僕たちにとって大切な存在なんだ。こうしちゃいられない」
レリックはさっと私の横をすり抜け、書き物机に飛びついた。
「何してるの?」
覗いてみると、どうやら彼は手紙を書いているようだった。ここでも私の知っている文字は使われていない。そのため、手紙がどのような内容のものなのかは判らなかった。
「仲間に手紙を書いてるんだ。ありす、ちょっとそこどいて」
レリックは抽斗を開けて封筒を取り出した。いたって普通の洋風封筒だ。
折りたたんだ手紙を大事そうにしまい、壁のろうそくを手に取って、閉じ口にろうを垂らして封蝋した。
次に彼は窓際に歩み寄った。何をするのか、と目を配ると、彼は窓を開いてその封筒を窓の外に放り投げたではないか。
「何やってるの?」
「手紙鳥を出してるのさ。見てごらん」
レリックの隣に立ち、顔を突き出して窓の外を見た。空は依然として暗いままだ。
「あっちだよ」
少年の指さす方向に目をやると。これまた不思議な光景が私の目に焼き付いた。先ほど彼が投げた封筒は地面に落ちているのでも、風に飛ばされているのでもなく、空を飛んでいた。
丸みを帯びた天使の羽のようなものが封筒の背中に生えており、それがぱたぱたと風に乗って闇の彼方へ飛んでいくのである。
手紙鳥が見えなくなると、ようやく私たちは窓辺から離れた。
「手紙が鳥のように空を飛んでいくなんて、素敵な手紙の出し方ね」
これまで数多くの夢の世界の文化に触れてきたが、どれも感動より先に驚きが勝ってしまっていた。ようやくメルヘンな世界にふさわしい、心にじーんとくる体験ができたことがうれしかった。
「ところで、いろいろと訊きたいことがあるのだけど」
「なんだい」
「この赤と青の薬は体の大きさを変える薬であってるのかしら」
「そうだよ。赤い方が小さくなって、青い方が大きくなる。元に戻るには一時間待つか、もう片方を食べて効果を中和するしかない。子供向けの遊び道具だけど、けっこう値が張る貴重品なんだよ。だいたいさぁ、人の家に勝手に上がり込んで、物を物色するなんてどういう神経をしているんだい?」
ぐうの音も出ないほどの正論である。
「それはその、ごめんなさい」
「別にいいよ。怒ってるわけじゃないから。むしろ僕は今、体が爆発しそうなくらいにうれしいんだ。ありす、君に会えたからね」
言い忘れたが、私はショタコンである。幼い少年が性的に大好きだ。ど真ん中のタイプは小学校中学年の可愛い系の男の子だ。
「そういえば、どうしてあなたは私のことを待っているの? それに仲間ってことは、そのお仲間の人も、もしかして私のことを?」
「その辺の詳しい事情は今は話せないんだけど」レリックは困ったように顔を曇らせながら「よければありす、僕と一緒に来てほしい」
「どこへ行くの?」
「それも言えないんだけど……さっきの罪滅ぼしだと思ってさ、付いて来てくれないかな」
レリックからの誘いを断る理由はなかった。了承の意を伝えると、彼は満面の笑みを浮かべて部屋中をピョンピョン跳ね回った。
言葉遣いや佇まいこそ、大人びて見えるが、まだまだ子供のようだ。彼の姿が愛らしく、私はむずむずと湧き上がる劣情を抑えるのに必死だった。
(私の妄想力も捨てたもんじゃないな)
この世界でどのような行いをしようとも、現実世界で私を咎める者などいはしない。およそ現実ではお目にかかれないような美少年と二人きりというこの状況が、私の理性を溶かしていく。腕力だって私の方が強いはずだ……
「……」
下劣な感情が暴走しかけたので、私は大きく深呼吸をして心を落ち着かせた。
(だめよ、ありす。無理やりはいけない)
「どうしたの?」
レリックが純粋に輝く目を向けた。
「なんでもないわ」
こうして私は白兎の少年レリックと行動を共にすることにした。
……この時、私はまだ気づかなかった。チェシャの予言した死の運命が、今この瞬間から静かに、そして確実に動き始めていたことに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます