第二十一章 ジャックとタルト その6

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 その家は無人だった。ジャックは神経を針のように尖らせながら、一つの物音も聞き逃すことのないように慎重に足を運んだ。


 生活の匂いはそこかしこに散見できるが、人の気配はない。外出しているのだろうか。それにしてはチェシャを除いて、ここまで来るのに誰とも出会わなかった。ここがあの予言猫の家だということはないだろう。何せこの一軒家は猫ではなく白兎をモチーフにしているのだから。


 無人である、ということにジャックは安堵したと同時にがっくりと気を落としもした。ここはマッド・ハッタ―たちのアジトではないようだ。タルトが示しかけた魔力の道しるべを強引にでも辿っていくべきだったか。いや、何よりも彼女の体を優先しなくてはならない。


 急激な環境の変化に耐えられなかったのだろう、と推測する。加えて、あの王宮はエリナ女王の魔法によって害悪な存在が遮断されるのだ。温室育ちのタルトにとって、このうすら寒い森の空気はあまりにもが強いのだろう。ひとまずリビングのソファに彼女を落ち着かせた。


「ありがとう、もう平気よ」


 タルトは横になりながら笑って見せたが、ジャックにはから元気にしか見えなかった。


「ここで少し休んでいこう。だいじょうぶさ。きっとだいじょうぶ」


 何がだいじょうぶなものか、とジャックは己を叱責した。求める者は見つからず、愛する人を苦しませている現状に苛立ちを覚えた。全ては自分のせいだ。


「ジャック、そう自分を責めないで」


 弱弱しい声でタルトは言った。


「……女王軍は今どの辺りにいるかな」


「判らない。でも確実に近づいてきているわ。でもね、なんだか変なの」

「変?」

「うん。変。なんだかね、おかしい感じなの。なんていうか、怒りじゃなくて、もっと別の何かを感じるの。なんだろう。むしろ嬉しいような」

「それは女王軍が発しているのかい?」

「うん」


 ジャックは改めてタルトの潜在的な魔力の深さに驚いた。彼女は他者の感情や心情などを、魔力を通じて受信することができるらしい。


「なんだかね、不思議なの。とにかく不思議。私たちに対して怒りを持っているような感じじゃない」


「よく判らないな。じゃあ僕たちを追っているわけではないのかな」


「それは何とも言えないけれど……」

「僕たち以外の別の何かが目的なら……」


 だとすればいいが、それは希望的観測に過ぎないだろう。事実、自分たちが脱走した直後に女王軍がこの森に向かい始めたのだ。この二つに因果関係がないとはとうてい思えない。


 タルトは大きく胸を上下させながら、懸命に荒い呼吸を繰り返していた。ジャックは彼女の小さな手をぎゅっと握りしめていた。


「ねえ、ジャック」


「なんだい」

「喉が渇いたの。何か持ってきてもらえるかしら」

「判った」


 ジャックは玄関に置いてきた荷物を漁り、水筒を手に取った。が、持った感覚で判った。


「……空だ」


 彼はキッチンを求めて館内を歩き回った。

 先ほど目にしたこの家の外観と同じ、白兎を模した内装や調度品が目をひいた。五分ほど歩き回り、彼はキッチンにたどり着いた。

 テーブルの上に置いてあった縦長のミルク壺に目を留め、軽く振って中身がまだあることを確かめると食器棚から綺麗なカップを手に取り、来た道を引き返した。


「ありがとう」

「落ち着いたかい」

「うん」


 タルトはミルクの残ったカップを両手に持ちながら、深くソファにもたれた。その様子を見る限りでは、まだまだ彼女の体調は万全ではないように思われた。

 汗が引かず、頬がほんのりと赤い。表情は気だるげで、ぼうっとした視線は焦点が合っていないようだ。かすかに体が震えているのは寒さのせいか。


「寒いかい? ちょっと毛布を探してくるよ」


 立ち上がったジャックを、タルトの物憂げな視線が引き留めた。


「待って。一人にしないで」


「でも……」

「私の隣に座って、抱きしめて。それだけでいいの」


 彼女の言うがままにジャックはソファへ腰を下ろし、彼女を抱きしめた。この上ない幸福感がジャックを包んだ。


「ねぇ、ジャック」

「なんだい」

「お願いがあるの。聞いてくれる?」

「君のためならなんでもするさ」

「もし、もしね。二人で完全にエリナ女王から逃げ出せて、自由の身になったらね」

「ああ」

「私、ジャックとね――」

「その先は僕が言うよ」


 ジャックはタルトの小さな背中を撫でながら言った。


「タルト、僕と結婚しよう」

「うん」

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