第十章 ありすは世界の秘密を少し知る
1
イリヤと目が合った。細く吊り上がった彼女の目は、狩人の放った矢のように一直線に私の瞳を貫いている。それは敵意を向けているというよりも、己の覚悟を示すかのような、そんな視線だった。
クロックは懐から葉巻を取り出し、マッチで火をつけた。灰色の煙が立ち昇る。
私は今しがたのイリヤの発言に心を囚われていた。
彼女は言った。ここが私の夢であることを自分たちは知っている、と。
それはつまり、自分たちが夢の世界の住人であるということを認識し、それを受け入れている、ということなのか。いや、そうだとしても、それは全く不自然なことではない。
極論を言ってしまえば、彼女たちはあくまで夢の世界の登場人物であり、彼女たちの意志、言葉、行動は全て私の脳細胞が生み出した幻覚に過ぎないのだ。「私」が夢を夢と認識できているのだから、彼女たちに同じ現象が起きていてもおかしくはないだろう。
「ありす様?」
六助が気遣うような声色で言った。彼は見た目こそ好みではないが、なかなかの紳士のようである。
「あ、ごめんなさい。ぼうっとしてました。それでどうして皆さんはここが私の夢の中だってことが判るんですか?」
彼らにとってそれは認めがたい事実のはずだ。自分たちが単なる作り物に過ぎない、ということを自覚してしまっているのだから。
「夢、という言葉については、私たちはあくまで知識としてしか知りません。眠る際に起きる現象であるといいますが、私たちは眠ることがありませんので。聞くところによると全く新しい世界を構築するというとんでもない魔法だとか」
「まあ、そういう感じであってますね」
「この世界には古くから伝わる神話があるのです。その昔、この世界が生まれる前、そこには無があったそうです。無がある、という表現はいささか奇妙ですがね。何もない場所。色もなければ、空気もない。咲き乱れる花の美しさも、たゆたう水の清らかさも、人の心に巣くう悪意も、何もない世界」
夢を見る前のノンレム睡眠の状態だろうか、と水を差すようなツッコミを心の中で入れた。
「それから?」と続きを促す。
「そこにありす様、あなたが現れた」
「私が?」
「そうです。あなたは無の世界を憂い、『夢』という魔法を使ってそこに世界を生み出した」
「ちょっと待ってください。私、そんな記憶はありません。だって私は、いつものようにご飯を食べて、寝る前に『ふしぎの国のアリス』を観て、それで気づいたらこの夢の中にいたんですから。それに私には何の魔法も使えないんですよ。さっき色々と試してみましたけど、どれも叶わなかった。猫に笑われただけで……」
「それは仕方のないことです。あなたはこの世界を維持するために膨大な魔力を消費しているのですから。創造神『ありす』は世界を生み出したのち、余計な魔力を浪費しないために眠りについたと言われています。そして長い年月が経ち、あなたは蘇った。己の分身として生身の体を作り、少女ありすとしてこの世界に迷い込んだのです」
「はぁ……」
このデブは何を言ってるのだ?
ああ、判った。そういう設定なのだ。
おそらく彼らは「ありす教」なる宗教にかぶれていて、この私を信仰の対象にしているのだろう。世界を造った創造神だとか、そういうことはよく判らないが、世界=私であるというところは間違っていない。ここは私の夢だから。
「伝承の中で、『ありす』は森の中で目覚めるとされています。我々とて、子供ではありませんから、少し前まではこの話も単なるおとぎ話の一つのようにしか見ていませんでした。数年前、マッド・ハッタ―の中でも特に能力が高く、高名な予言者の間で『ありす』の復活が予言されました。当初はそれを信じる者など皆無でした。が、いくつも検証を経て、それは確信に変わりました。同時に『ありす』の復活は我々にとって大きな希望となったのです。残念なことに脱退者や捕虜となった者から女王にもこの事実が漏れてしまい、それによって色々と面倒なことにもなりましたが……まあ、そんなことはもうどうでもよいのです。今、あなたは我々の許にいらっしゃる」
「エリナ女王が、ありす様がすでに降臨していると知ったら、きっと血眼になって探すでしょう。余計な血が流れる可能性もある。目的のためなら手段を選ばない。あいつはそういう女です。俺たちは本当に運が良かった」
クロックが煙を吐きながら言った。目を細めているのは煙がしみたのだろうか、それとも感慨に浸っているのか。
「女王なんて目じゃあない。あなたが新たな女王となり、太陽をエリナ女王から取り返す。それが我々の目的なのです」
六助はここぞとばかりに語調を強め、イリヤがそれに賛同するよう大きく頷いた。
「女王って……」
思っていたよりもスケールの大きい物語になってきた。普通の女子高生である私にとって、これは荷が重いぞ。
そういえばレリックもチェシャから予言を受けていた。
事情を知った上で思い返してみれば、彼の高ぶった様子も理解できる。それにしてもエリナ女王というのはどんな女なのだろう。彼女も私のことを狙っているらしい。自分の立場を脅かす私の存在を危険視しているのか、いや、そうではない。たとえエリナ女王でも私の命を奪うことはない、とここへ来る道中リリーから聞いた。
そのことについて尋ねると、六助は言い渋るように首を振った。
「それについては、またのちほど詳しくご説明します。なぜかって? どうやらお茶会の準備が整ったようですから、ほら」
六助の視線の先――入り口に目をやると、やや緊張した面持ちのリリーが直立していた。結局、夢の世界の遊びは後回しになってしまった。
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