第八章 女王と帽子屋
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それから私たちはリビングに戻ったが、レリックたちが戻ってくる気配はなかった。ソファに座り、視線をうろうろさせる。
まず目についたのが、壁に掛かった時計だった。一時十五分を指している。
(午前と午後、どっちなんだろう)
そもそも太陽が動かない世界において時間という概念が成り立っているのが不思議だった。一日はどのようにして計っているのだろうか。秒針はきっかり一秒ごとに移動しているけれど。
「退屈ですか?」
イリヤはおずおずと言った。時計ばかりを気にしているからそう思われたのだろう。
「いえ、全然。むしろ不思議な体験ばかりで楽しいです」
私がそう言っても、イリヤは気を遣った返事だと受け止めたようで、
「もしよろしければ、娯楽室がありますが」
「あ、行きます」
私は即答した。
夢の世界の遊びに好奇心を刺激されたのだ。
娯楽室はリビングから廊下に出た正面にあった。室内には正方形のテーブルがいくつかあり、緑色のクロスが敷かれていた。左右の壁には三つ足のスツールが並んでおり、右側のスツールには赤いクッションが、左側には緑色のクッションが載っていた。
奥の壁には暖炉があり、マントルピースの上に木彫りの兵隊の人形と木製のランプが置かれていた。その横の壁に火かき棒が立てかけられている。
「あれ」
「どうされました」
ここで一つ疑問が浮かんだ。この家を外から眺めた時、煙突は無かったように思う。暖炉があるということは煙を排出するための煙突があってしかるべきなのだが……
イリヤに訊いてみると、彼女は暖炉に近づきながら言った。
「たしかに煙突がなくては暖炉は機能しません」
「じゃあ、観賞用ってことですか?」
「表向きはそういうことになっています。ただ」
イリヤは暖炉の前にかがみ、上半身を入れた。ややあって、かちっという音が聞こえたかと思うと彼女の体が完全に暖炉の中に吸い込まれて消えてしまった。
「えっ? イリヤさん」
その突然の出来事に困惑した私は駆け足で暖炉に近づき、中を覗いた。底の深い闇の奥にイリヤの白い顔があった。
「抜け穴になっているんです。この下にもう一つ部屋があってこの暖炉はその入り口なのです」
目を凝らすと、そこから鉄製のはしごが下りているのが判った、イリヤははしごの中腹につかまっているようで、その深さはここからでは計り知れなかった。
(なんでこんなものがあるのかしら)
秘密の地下室への入り口があり、それを暖炉であえて隠すようにしている。単なるからくり趣味とは思えない。何か別の意味があるような気がした。そしてそれは同時にレリックたちの正体にも繋がっているようにも思えた。
イリヤがはしごを上ってきたので、私は横にずれて暖炉の入り口を開けた。隠し通路はかなり汚れているようだ。イリヤの着ている白い服は砂埃やすすで茶色くなっていた。
「それでは遊びましょうか。何をしますか」
暖炉の右横には腰の高さほどの台があり、様々な種類の遊具が並んでいた。
赤と黒のルーレットや、ガラス製のチェス盤と駒、縁が擦り切れているトランプ、六面サイコロに金のコインなど、遊戯に必要な小道具も大抵の物が揃っていた。暖炉の左側にはダーツの的のような円形の木板が吊るされている。
どうせだったら夢の世界独自のゲームに触れてみたい。そう思い、イリヤを見やったところで、入り口の扉が開かれた。
「あれ、イリヤにありす様じゃあないですか」
初めて見る男だった。
卵に饅頭を乗せたようなずんぐりむっくりとした体型で、神経質そうな縁なし眼鏡をかけていた。白いシャツはボタンが飛びそうなほど張っており、黒いズボンはベルトが通っていない。現代風な装いが私の目には異質に映った。
「あら、
「少し前に終わったよ。他の皆はお茶会の準備をしてる。俺とほら」
六助が横に数歩動くと、彼の後ろにクロックがいることに気づいた。武道家然とした体格は六助とは正反対だ。
「クロックのやつは家事がからっきしダメだから、こっちに隔離されてるんだ。邪魔になるからあっちで遊んでろって。ひどい話だ」
二人はそれぞれ分かれて左右の壁に向かい、スツールを二脚ずつ持って、壁際のテーブルについた。
「二人もこっちへ来たまえ。少しお話しようじゃないか」
「会議が終わったんなら、あたしにもことの顛末を聞かせておくれよ」
席に着くなりイリヤが言った。
「お茶会の時にまとめて話すそうだ」
クロックが短く答えた。
「ああ? 別に今でもいいだろ」
イリヤが身を乗り出し、威嚇するような視線を送った。レリックが言うには、彼女が彼らの中で一番の武闘派だそうだ。イリヤの剣幕に男二人はいささか委縮したように見えた。
「あの、私もできれば聞かせてほしいです。なぜ、あなたたちが私のことを求めているのか」
私の懇願が決め手になったようで、六助とクロックは互いに顔を見合わせ、やれやれといた調子でこちらに向き直った。
「ありす様の頼みじゃあ仕方ないか」
そう前置きをして六助は語り始めた。私はきりっと姿勢を正して、彼の肉厚な唇に目を向けた。
「順序立てて話しましょう。まずは我々、
エリナ女王は国を治める王であると同時に、強大な魔力を宿した魔女でもあった。
彼女は魔法で太陽と月の位置を固定し、この国を昼間と夜に分断した。無論、昼間の世界を割り当てられたのは王宮を中心とする城下町やその周辺の村などの限られた地域だけである。
朝が来ない世界では人々は睡眠を取らずに生活ができるようになり、その分、仕事や娯楽に精を出すことで国はますます発展していった。
この露骨な中央集権の割を食ったのは、太陽を奪われ、夜の世界に追いやられた者たちである。ひもじい生活を余儀なくされ、寒々とした月光の下で生きていくことに抵抗を感じない者などいなかった。
タラントという男もまた、女王の圧政に異を唱えた者の一人だった。
彼は昼と夜の境目の町で祖父の代から帽子屋を営んでおり、妻と二人の子供と共に慎ましく暮らしていた。
彼の住む町は常に夕焼けの時刻のため、人々は帽子を必要とすることはなかった。遮るべき強い陽射しも、防寒用の帽子を必要とするような凍える夜も存在しなかったからだ。
エリナ女王が太陽と月の動きを止めて以降、タラントの帽子屋の経営状態は右肩下がりで落ち込んでいった。町を出て、城下町で新たに店を出そうと考えたこともあった。しかし、城下町の地価は目玉が飛び出るほど高く、またすでに城下町には大きな帽子店が構えていたこともあって断念した。生活は日を追うごとに困窮していき、客も気まぐれに訪れるほどだった。
タラントにとって不幸だったのは、この町がかつて宿場として栄えていたことだった。
眠らずに済む世界になったことで旅人たちは宿を利用することがなくなった。城下町と地方を中継する立地は逆に、この町の孤立を強めたのである。
人々は互いに助け合う余裕もなく、まれに訪れる物好きな旅人を巡ってひと悶着が起きることもあった。町には盗人や浮浪者が増え、町を出ていく者も少なくなかった。
そして、タラントの運命を変える出来事が起こった。彼の妻と子が死んだのだ。彼の家に押し入った強盗に殺されたのである。
タラントの家には売れなくなったとはいえ、まだたくさんの帽子の在庫があった。それを狙われたのだ。帽子そのものに需要がなくとも、装飾に使われている貴金属や宝石類はまだ価値があると、そう強盗は判断したのだ。
強盗は自警団に捕縛され、城下町の牢獄に連行された。風の噂では裁判にかけられ、首をはねられたという。
妻子の墓の前でタラントは考えた。女王のやっていることは本当に国のためになっているのだろうか。いや、たしかに国のためにはなっている。しかし、国民のためにはなっていない。
不思議と強盗に対する憎しみはなかった。彼もまた、生きていくために必死だったのだ。
全ての元凶は女王だ。
タラントは決意した。女王に奪われた太陽を取り戻す、と。
時計の針が二十四周するだけのことが一日なのか?
違う。
朝が来て、夜が来て、そして再び朝が来る。そんな当たり前の世界を取り戻すのだ。
やるべきことはただ一つ。
女王を殺すこと。彼女が死ねば、彼女の魔法に支配されていた太陽と月も動き出すはずだ。
タラントは町民たちを中心に革命の同志を募った。
できるわけがない、と笑った者もいたが、彼の志に賛同する者も決して少なくなかった。それからタラントは十年という長い時間を費やし、着実に仲間を増やしていった。ある時は夜の世界の僻地まで赴き、またある時は城下町に住む反政主義者と密会し、協力を取り付けた。
こうして多くの同志を集めたタラントだったが、それでもその総数は国民の百分の一にも及ばなかった。
無駄に時間だけが過ぎ、夜の世界の人々もその過酷な現状に慣らされていった。女王も革命を企てる謀反者の存在には気づいており、検問所を増築するなどして対応を図った。また夜の世界の税率を引き下げる等、最低限の配慮も忘れなかった。
そして遂に、タラントは捕まってしまう。革命を決意してから十四年後のことだった。彼は裁判にかけられ、首はねの刑を言い渡された。三日間に及ぶ拷問ののち、彼は王宮前の広場で見せしめの公開処刑に処された。
こうしてタラントは女王に歯向かった「いかれた帽子屋」として歴史に名を遺した。今から八百年近く前のことある。
「タラントさん、可哀そう」
私は目尻に溜まった涙を指で拭った。我が夢ながら、なかなか壮絶な設定ではないか。
「タラントの死は無駄ではなかった。というより、タラントはあえて捕まったのではないか、という説が現在では主流なんです」
「どういうことですか?」
六助は二重顎を撫でながら続ける。
「当時、停滞気味だったタラント派の革命主義者たちは、彼の死によってその結束を強めたのですよ。タラントは死によって神格化することで、自分の意志を受け継ぐ者たちに発破をかけたのではないか、というのが現在の定説です。事実としてその後、革命主義を唱える者たちは増加し、現在の組織の母体が生まれました。これが俺たちマッド・ハッタ―の設立の歴史でございます。俺たちの目的は太陽を取り戻し、月を開放すること。正しい世界の在り方を求めているのです。同じ空に太陽と月が存在するなんてことはあってはならない」
六助が口をつぐむと場には厳かな静寂が流れ出した。イリヤもクロックも、卓上に視線を落とし、眉間に深いしわを刻んでいる。
私の知りたいことの一つ、「彼らはいったい何者なのか」については納得のいく答えが得られた。
要するに彼らはこの国の女王に反旗を翻すレジスタンスなのだ。話を聞いた限りでは、たしかに女王のやっていることは悪だと思うし、彼らの活動の動機も理解できる。昼夜が正しく入れ替わる世界を彼らは望んでいるのだ。
「それで、私はどういった役目を担っているんですか?」
本題はこれだ。私がそのことについて訊くと、場には不可解な雰囲気が漂い始めた。イリヤは悲しそうに表情を曇らせ、クロックは居心地が悪そうに足を揺すっている。その振動でテーブルクロスが波打った。
「ありす様、あなたはこの世界そのものなのです。それを私たちは知っています」
沈黙に耐えかねたようにイリヤが言った。その声は氷のように冷たい響きを伴っている。
「えっ?」
「この世界があなたの夢が作り出した世界だということを、私たちは知っているのです」
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