最終話 赤と橙

「ずっと思っていたんだけどさ」

 波の音を聴きながら、ムスビは見上げて言った。

「お姉は、さいごに、どうして神を降ろさずに剣を振るうことができたんだろう」

「なんだ、急に」

「九郎は、不思議じゃないのかよ」

 足を付ける地が、ゆっくりと上に下に動いている。春になれば、こうして舟を出すこともできる。

 厳しい冬は、去った。そうすると、あの冬のはじまりに起きたことを、むしろより濃く思い出す。そういうものなのかもしれない。


 セキトウは、痛みすら感じぬようになりながらなおも戦い、ひしめきあう兵を全て退け、神北石見を滅した。そして、さいごに苦しみに冒されるオニビシのいのちを終わらせてやった。

 人の悲しみを癒すため、痛みの代償に血の裁きをもたらすため、神が授けた剣。そう、人はクトネシリカのことを語ってきた。しかし、そのはんぶんは当たっていて、あとのはんぶんは思い違っているのかもしれぬと九郎は思う。

 神は、たしかに彼女の身体に降りていたのだろう。そのときそのとき、そこにある神が。本来かたちを持たぬはずのそれが剣を振るうなら、セキトウの身体といのちを使うのは当たり前のことである。

 言うならば、セキトウは神と身体を分け合っていたのだ。そのいのちを糧にして分け与え、人の為すことのできぬことを為していたのだ。

「だが、たしかに、セキトウは、さいごには神を降ろすことなく戦った」

 九郎は、間近でそれを見ていた。そして、オニビシとのさいごのやり取りを聞き、そのときの二人の心のありようをも見ていた。

「お前たちが、神とはいのちのこと言うのだと教えてくれた。もしそうならば、あのとき、セキトウには神を降ろす必要などどこにもなかったのだと俺は思う」

「どういうこと」

 神は、そこにある悲しみを見ている。そこにある痛みを感じている。だから、それを癒そうとして、セキトウに降りる。セキトウが、せめてそばにいてやりたいと願うことで、神はセキトウの身体に降りることができる。言ってみれば、それが入り口になる。

「ならば、あのとき、セキトウとオニビシの痛みを最も近くで感じ、それを最も癒そうとする神とは、なんであったのだろう」

 問われて、ムスビは訝しい顔をした。夜の神。雷の神。熊。鮭。鯨。神など、どこにでもいる。だが、あの血で満たされた雪の上には、神はいなかった。

「セキトウは、まずお前を守らんと願った。癒すのではなく、お前に向かって飛ぶ矢から、お前が受ける苦しみから、お前を守らんとしたのだ」

 そのとき、まさにセキトウに神が降りた。

「神とは、いのち。そうであるなら、あのとき、セキトウの身体にあったのは、セキトウのいのちそのものなのではなかろうか」

 そう、九郎は思っている。

 ムスビは分かるような分からぬような、臍のあたりがこそばゆいような気分になったのか、下腹を無遠慮に掻きながら鼻をひとつ啜った。もしかすると、涙をこらえているのを悟られぬようにしたのかもしれない。

 セキトウのいのちそのものが、彼女の身体を動かした。だから、彼女は自分ではない何かに支配されることなく、確かな眼と言葉をもってクトネシリカを抜き、振るうことができた。

 そしてムスビを救い、ムスビと九郎を苛まんとするものを退け、屠った。

 さいごに、己を知る人の苦しみを断ってやった。

「拭い去れぬなら、せめて、やさしくありたい。セキトウは、たしかにそう言った。あの言葉を、それを紡ぐ彼女の横顔を、俺は忘れることができぬ」


 九郎もまた、白く立つ波に眼をやり、それを雪に見立ててあのときのことを思い返した。繰り返す波の音が、あのあとのことを思い出させた。

「それで、いいのだな」

「ああ」

 冬の海は、ただ悲しげな音を砂の上に靡かせているだけであった。そこに沈みゆく陽が、海と砂と空と、そしてセキトウと九郎とムスビを橙に染めていた。

「お姉」

 心配そうに、セキトウを見つめるムスビ。それにうっすらと目を細めて頷きを返してやり、セキトウは橙の海に歩み寄った。

「もう、わたしには、いや、わたしたちには必要のないものだ」

 そう言い、手にしたクトネシリカを海に投げ入れた。回転しながら橙を跳ね返して飛んだそれは、同じ色の海に溶けて消えた。

「このあとは、どうする」

 それきり立ち去ろうとするセキトウを、呼び止めた。

「――生きる。そのことを、する」

「そうか」

「ムスビを、たのむ」

 わずかに横顔を見せ、薄い唇を開いた。

「お前は、ほんとうによいのだな、ムスビ」

「ああ、決めた。お姉と離れるのは嫌だけど、おれは決めた。おれの名は、ムスビ。九郎について行って南の国を知って、そこで暮らす人を知って、かならず北と南を結ぶことができる男になって、そしてまた戻ってくる。そう決めた」

「ことさらにそれを言うということは、やはりセキトウが恋しいのであろう」

「ば、馬鹿なことを言うんじゃねえ」

 むきになって否定するムスビに高笑いを浴びせてやり、そして真顔になってセキトウに向き直った。

「セキトウよ。もし、お前さえよければ、ムスビもこの調子だ。寂しがる。だから、お前さえよければ――」

 ムスビが、砂を蹴って駆け出した。蹴り散らしたそれはまた橙になって輝き、そしてまた砂に戻った。

 自らに向けられた背に、強く飛びついた。腕を回し、抱きついた。

「いやだ。行かないでおくれ、お姉。おれといっしょに、南にゆこう。九郎が、せっかく家の奴らと仲直りしたんだ。きっと、お姉のことも、大事にしてくれる」

 わんわんと声を上げて涙を流すムスビになんの反応も示さなかったセキトウであるが、しばらく同じ姿勢で止まっていたかと思うと不意にムスビの腕を外して向き直り、膝を折ってかがみ込んだ。

「お前は、ゆけ。お前の言うとおり、思うとおりに生きろ。わたしは、ここに留まる」

「セキトウよ」

 上がるセキトウの眼に、九郎は真正面から我が眼を合わせた。

「俺と共に、南へ来ないか。ムスビの言う通り、お前の暮らしのことは保証する。北の領地は召し上げられてしまったが、そのぶん、これからはずっと暖かな南で暮らすことができる」

 セキトウは答えず、立ち上がった。

「いや、見てほしいのだ。俺の産まれた国を。俺を育てた山と川と海を。知ってほしいのだ。俺の国の人を」

 だから、ともに来ないか。何度も言い、何度も断られたことを、重ねて言った。

 セキトウは、それまでと同じく、黙ってかぶりを振った。

 違うのは、ムスビが声をあげて泣いてしまっていることと、九郎の顔が真っ赤になってしまっていることだ。

 紅潮した頬の色が、夕陽の橙の中で浮かぶようにして息づいている。それを見て、セキトウはわらった。九郎も、ムスビも、はじめて見る笑顔であった。

「ムスビを、たのむ」

 半端に刺青の刻まれた右手を、ムスビの頬に。

 それを濡らす涙を、拭ってやった。

 ただ透明な滴が払われ、セキトウの右手がわずかに濡れた。

 そこに、赤い跡はなかった。


 それきり、セキトウは森へ消えた。左足と左腕が、うまく動かぬままのようであった。治りきるのかどうかは分からぬ。そのような身体で、どう生きようというのだろうか。

 しかし、彼女はそれを選んだ。生きることを、選んだ。弓が引けぬなら、人の獲った獣の皮を剥ぐことをするのかもしれない。重い荷を運べぬなら、人の運んできた薪を積んだり、枝で篭を作ったりするのかもしれない。

 そうして与え合えば、生きてゆける。生きているかぎり、人は分け合い、与え合うことができる。血を流さずとも。奪わずとも。憎まずとも。恨まずとも。悲しまずとも。痛みに苛まれずとも。

 それを、セキトウは選んだ。

 おそらく、九郎と再び会うことはないのだろう。九郎とともに生きることを選ばなかったのは、なにをどうしても南の者を許す気にはなれなかったからかもしれぬし、神を降ろして戦い、いのちを奪って大地に撒き散らす、おおよそ人ではない何かになった己を知る人のおらぬ世界で生きてゆきたいと思ったからかもしれぬし、もっと別の理由があるのかもしれぬ。

 セキトウは何も言わぬから、分からぬままである。分からぬまま、消えた。


「だが、セキトウは生きている。どこかで、人として。もしかすると、あの刺青の続きをその身体に刻んでくれる人を見つけたかもしれぬ」

 雪は、波に戻った。しかし、世界を染める橙は、あの日と同じであった。

「九郎がお姉に刺青を刻んでやれなくて、残念だったな」

 意地の悪い笑みを浮かべて顔を覗き込んでくるムスビの額を、苦笑しながら小さく小突いた。

「それでも、構わぬさ。セキトウは、きっとまた人として生きてゆく。セキトウを助け、その辛いときにはせめてそばにある誰かと、共に生きてゆく。俺は、そう信じている。彼女になら、それができると」

「負け惜しみだね、九郎」

「馬鹿者。それに、父上と呼べと言ったはずだ」

「はいはい、分かったよ」

「呼ばぬか」

「うるさいなあ」

「南に着いたら、家中に触れを出す。お前にも、きちんとした名を与えてやる」

「そんなの、いいよ」

 ムスビは照れくさそうに腕を組み、そっぽを向いた。

「名は、そのままがよいか。お前を愛した母が愛した父が付けた、南の言葉の名だ」

 答えはない。セキトウの真似でもしているのか、背中を見せたまま海を見つめている。

「――どうした。泣いているのか」

「なあ、ちちうえ。おれは、おれの身体に、おれの魂に流れる血を、憎まずにいられるようになるかな」

 九郎は手をついていた船のへりから離れ、ムスビの背後に立った。そして、そっとその肩に手を置いてやった。

「なれるさ。お前が、そう望んでいるのだから」

「そうかな」

 日没。橙は力を失い、青へ。それは、さらに黒へと。

 安息の色。その時間が、やってくるのだ。

 そしてまた陽が昇り、世界に色が戻る。そのたびごとに、人は異なるものを見る。その中で生きる己を知る。その日々を紡ぎ、与え合い、生きてゆく。その生を、そばにいる人と分け合いながら。


 赤と橙。それは、人を染めるには悲しすぎる色であるのかもしれない。

 だが、それを恐れることはない。人がそれに染まるとき、そばにいる人も、おなじ色に染まっている。それを知る限り、そこに悲しみはない。



 完

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赤橙 増黒 豊 @tag510

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