最終章 結ぶ

やさしさ

「山根九郎右衛門」

 石見の表情には、明らかな蔑みがあった。それが、年齢のせいで生じる目元の皺が歪むのによくあらわれている。

 傍らでは、九郎の砦に乱入してきてセキトウと刃を交えた男──もうひとつの鬼──が息苦しそうにして蹲っている。

「死にに来たのだな」

「いいや」

 九郎は、眉を吊り上げて答えた。

「生きるために来たのだ」

「お前と、あの小童の二人でか。手負いの女一人のため、一国の主人ともあろう者が」

「一人のためではない」

 石見が、眉間にも皺を寄せた。九郎の言うことが分からないのだろう。

「すべての人のためだ」

「しかし、お前は死に、ここに屍をさらす。当主の行方が知れなくなった山根家は、あらたな者を立てざるを得ぬだろう。お上は、そのように乱れた家を、ここに置いてはおかぬ。それのどこが、すべての人のためなのだ」

「領地とか、お上とか、そのようなことではない」

 こんどは、九郎の眉に哀れみの線が浮かんだ。自分とは相入れぬ、愚かなものを見ているような。

 ちらりと、後ろを顧みた。ムスビがセキトウを背負い、必死で森を目指している。まずは、その時間を稼がねばならない。

「石見。お前には、分からぬだろう。人を人とも思わず、我が欲を叶える駒としてしか見ぬお前には。どうだ、違うか」

 問いかけることで、時間を稼ぐ。石見は兜からはみ出る白髪の多く混じったびんを掻き、ため息をついた。

「その者は、北の者だな。我が砦に来て、刃を振るった男だ。俺を葬ろうとしたのか」

「北の鼠が何をしようと、わしの知るところではないわ」

 ぷいとそっぽを向く石見を見て、やはりと思った。全ての元凶は、この男なのだ。

 もうひとつの鬼もまた肩に矢を受けて傷付き、浅い息を寒風に散らしながら呪いを満たした視線で石見を睨み上げている。

「この男を使い、乱れをもたらさんとしたのか。全てを失った北の者の心につけ入り、人をたぶらかし、我が望みのための糧とするか」

「はんぶんは、そうだ。しかし、はんぶんは、違う。この男はこの男で、わしらをいいように使っていた。そう、お互い様というものだ。われわれにとっては」

「神北石見」

 鬼が、口を開いた。

「俺は、黙って貴様に飼われていたわけではない。我が心を殺し、魂を殺し、そうしてでも望んだ。それだけのことだ」

「望む。お前が。食うものすらなく、襤褸ぼろのようになって俺に拾われたお前が、何を望むと言うか」

「この大地から、蛙にも劣る貴様らの血を一滴残らず取り去ることを。それができる国を」

「国」

 石見が、吹き出した。

「どの口が。どの口が、それを言う。貴様も、哀れな奴だ。全てを失い、そのような世迷い言を口にすることでしか、この世にしがみついておれぬものと見た」

 まるで虫けらでも見るようにオニビシを見下ろし、また笑った。

「まったく、分からぬ男どもだ。お前たちは、ここで死ぬ。死ねば、終わりだ。──ほれ」

 石見が鬢を掻いていた手をひとつ挙げると、その背後の者が弓を構え、矢をつがえた。

「よせ!」

 九郎が叫ぶが、叫んだところでどうなるわけでもない。弦鳴りと共に放たれた矢は風を切って飛び、ムスビにあたった。

「ムスビ!」

 ムスビは転んだが、絶命はしていないらしい。九郎の位置からなら豆粒のようにしか見えぬが、それでも必死で身を起こそうとするのが分かった。

 セキトウを救おうとしているのだ。這うようにして手を伸ばし、さらに立ち上がった。

「死ねば、何もなくなる。だから、お前たちがどれだけ吠えようとも、無駄なのだ」


 兵どもは次々と矢を番え、放った。

 やめろ、と九郎は声が枯れるほど叫んだが、無論それでやめるような者はいない。矢は弧を描きながら飛び、ムスビとセキトウのいるところに吸い込まれて行った。

 しかし、九郎が恐れたようなことは起こらなかった。雪の上に点と存在する墨染の衣が、いきなり動いた。それは矢がちょうど吸い込まれるところに身を移し、静止した。

「──なんだ」

 石見が目を細め、何が起きたのか見定ようとする。兵どもも、それぞれ小さくどよめいている。

 セキトウの影はぱっと立ち上がり、こちらに向かって歩きはじめた。

「矢を、掴み取った──?」

 誰かが、声を上げた。そうすると、それは恐れになって人の間を伝った。

 ぱっと雪を蹴るのが見えた。そして、駆けてくるのが。

「射て、射て」

 さらに、多くの矢が飛んだ。しかし、やはりセキトウは変わらず駆けてくる。矢を受けたのなら倒れるか転がるかするはずなのに、まるであたらない。焦るあまり狙いを定めぬまま射ってしまっているのか、あるいは矢の方がセキトウを避けているのか。

「鉄砲だ。鉄砲を使え」

 後列で火縄を灯しながら控えていた鉄砲隊が進み出て、片膝をついて狙いを定める。その火蓋が切られたとき、凄まじい轟音と共にいくつもの鉛玉が飛んだ。

 瞬間、雪の上で陽が閃いた。

 刃の光であった。セキトウはひとつだけそれを振るい、なお駆けてくる。まるで、雪の上を滑るようだった。

「弾を、斬ったのか」

「き、鬼神だ。ほんとうにいた」

 鉄砲隊の者は次の弾を備えることも忘れ、口々に騒ぎ出した。そうすると、兵らは後ずさりを始め、やがて迫りくる恐怖に背を向けて逃げようとする者もあらわれた。

「逃げるな。待て。逃げるな」

 石見がどれだけ声を上げようとも、聞く者はない。恐れとは、そういうものだ。


 もう、すぐそこに鬼神が迫っている。石見は太刀を構え、それを待った。

 無遠慮に、まるで石見のことなど見えていないように、間合いに入った。それを見計らい、横薙ぎに薙いだ。

 胴から真っ二つになったはずの鬼神はそれを宙を舞ってかわし、あろうことか石見の肩口をとんと蹴って跳躍した。

 驚いた石見が振り返ると、着地と同時に二人が死ぬのが見えた。


 前の一人。腹に、剣を突き刺す。その隙を捉えようと繰り出される槍の柄を掴む。男の力をどれだけ込めても、セキトウが細腕一本で止める槍を押すことも引くこともできない。

 そのままセキトウは天地を逆さにし、槍を奪い取った。

 咆哮。

 天雷が地に落ちるような。

 まさしくそれを思わせる声と、槍の一撃。大振りな刃をまともに食らった一人が、兜から臍まで断ち割られて絶命した。そのまま、力任せに振り回す。いくつもの叫びが上がり、血が、肉が、人そのものが嵐に巻かれる木の葉のように飛んだ。

「な、なんだこいつ、ほんとうに、鬼神なのか」

 とんと地を蹴り、蹴った脚が天を指し、そしてまた地に戻る。その回転の勢いで槍を叩きつけた。

 一人がまたそれで死に、鉄でできたはずの槍の柄が曲がり、刃が折れた。

 それにすら構わず、なお曲がった刃のない槍を振り回す。

 振り返った石見が瞬きをほんの何度かする間に、何人が死んだのか。つい先ほどまで暴れ狂い、百の兵を斬ったところである。石見と共にあらたに連れられてきた兵は、その倍はあろう。それらは、もう多くが恐れをなして逃げたり、死んだりして見る間に数を減らしている。


「──泣け」

 呟いている。もとは槍であった鉄の棒はさらに曲がり、いよいよそれを打ち捨てた。

「拭い去れ」

 横あいから向かってくる者の握る太刀。それをかすめ取り、肩口から斬り下ろす。手元で引くようにして力任せに斬ったため刃が欠け、肩甲骨かいがらぼねに食い込んで抜けぬようになった。

 奇声と血泡を噴き上げるその者の腰から脇差をすらりと抜き、隣で恐れおののいている者の腹に突き立てる。そのままするりと柄から手を離し、またその者の脇差を抜く。別の一人にそれを突き刺し、また脇差を。まるで、春に飛ぶ鳥が花の蜜を求めるように。

 さきほどまで雷になっていたセキトウは、今は春になっている。

 ぱっと花の咲くように飛ぶ血。点々と雪に跡を残し、ほんとうの花になった。

 雪が融けて流れをもたらすように身を移し、次々に帯びた脇差を抜いては腹に突き立てるという方法で兵を屠ってゆく。

「ば、化け物──」

 壊走とは、このことを言う。百も二百もいる兵が、たったひとりのセキトウのために恐れをなし、全力で逃げはじめた。


 それを、あえて追うことはなかった。背後に転がる無残な死骸のひとつにぽつりと突き立つみじかいクトネシリカを抜くと、血振りをして低く構えた。

「ば、化け物め」

 一人残された石見が、太刀を構え直す。老いを見せているとはいえ、腕に覚えがあるらしい。落ち着いた構えで、今にも敵を両断しそうな気を放っている。

「神北石見」

 九郎が、声をかける。

 今にも斬りかかりそうな形相で、石見を睨んでいる。そして、振りかぶった。

 石見の、声にならぬ声。眼を落とすと、横腹を刃が貫いていた。

 その先には、太刀。

 オニビシが、口から血を流しがなら、石見を刺した。

「この、鼠め──」

 我が腹を食い破る刃を引き抜き、自ら手にするものでオニビシにとどめを刺そうとする。

 その刹那、津波が石見を襲った。

 いや、それは剣だった。

 セキトウ。

 通りすぎざま、刃を振り上げる石見の腋の下を斬り、腕を落とした。

 通りすぎたままの姿勢で刃をくるりと握り直し、顧みることなく突き出す。

 それが、石見の腹を貫いた。

 石見はなにか不思議なものでも見るようにして腹に徹った刃に触れ、そして苦しげに顔を歪めた。

 セキトウが、大きく息をする。

 後ろ手に石見を突き刺したまま、激しく旋回する。それで、石見の腹の中に収まっていたものが全て飛び出した。

 眼と眼。

「泣け」

 喉笛を、胸を、まったく目に止まらぬほどの速さで、薙いだ。

「泣け――」

 神北石見は完全にそのいのちを失い、ただの物となって崩れ落ちた。

「泣け、クトネシリカ。わたしの代わりに」


「セキトウ」

 九郎が、駆け寄る。無数の屍の上にただ立っているセキトウの背は、とても静かに上下していた。

「大事ないか」

 神にその身を喰らわせなければ、剣は振るえぬ。そして今、また彼女は人には振るえぬ剣を振るった。

 しかし、彼女は、振り返った。そして確かな眼を向け、それをうっすらと細めた。笑ったのかと九郎は思ったが、単に逆光が眩しいだけかもしれぬとも思った。

「よく、この男を斬ってくれた。よく――」

「お前が斬った方がよかったか」

「それは――」

 分からない。九郎が怒りと憎しみに任せた剣で石見を叩き切っていても同じ結果になっていたことであろうが、九郎には、セキトウがそれを止めたように見えた。彼女は何も言わぬから分からぬが、たしかにそうだと思えた。

 いや、それは、これまでの九郎の話。これからの九郎は、違う。

 生きることができたのだ。

 数え切れぬほどひしめき合っていた神北の兵は、すべて死ぬか退くかした。乱れの元凶たる神北石見も、死んだ。それは、これからも九郎の生が続くことを意味する。

 だから、これまでの九郎と今ここでセキトウに向けて視線を投げる九郎とは、違うのだ。

 悟った。言葉を用いて、分かり合うことをしなければならぬと。そう、北の血を持つムスビに教わった。だから、心のうちにあるものを言葉にしなければならぬと思った。

「斬れば、俺は力でもって己の思うところを通したことになる。それは、この石見と何ら変わりのない行いだ」

 セキトウは、やはり何も答えない。ただ静かに、白い息を吐いている。

「だから、お前は、俺に代わってこの者を斬った。すでに血を浴びきっている己なら、さらに死のひとつを積んだところで、どうということはないと。そう思ったのだな」

「なんのことだ」

「いや、言うな。俺には、分かる。少なくとも、俺はそう思っている。俺の痛みを、お前は肩代わりしてくれたのだ」

 その細い腕で。身体の中まで虫の食った朽木のようになりながら。痛みを感じることすらやめてしまうほどに、いのちを削りながら。

 そうしてまで、人の痛みを癒そうとし、それができぬのなら、せめてそばにあって少しでもそれを分け合う。セキトウもまた、いや、セキトウこそ北の者なのだ。そして、人なのだ。


「休まねばならん。一刻も早く身体を休めねば」

「いいや」

 セキトウは、クトネシリカを納めない。血の滴るその刃を握ったまま、オニビシの方を向いた。

「まだ、終わってはいない」

 矢に貫かれたオニビシが、眼を上げた。肩から入った矢が斜めに入り、どうやら胸の中まで傷付いているらしく、口から血を流している。こうなると、息をするのが苦しくなる。はじめはただ痛みを感じるのみであるが、すぐに息苦しくなり、やがて胸の中いっぱいに血を溜めて死ぬ。鹿などを矢で射るとき、よくこのようになる。

 無論、セキトウも、オニビシ自身も、そのことを知っている。

 だから、二人は立って向かい合った。

「俺の国を、作らなくては」

「まだ、言うのか」

 それは、紛れもなく、痛みであった。

「お前は、強く、美しい」

 息に障りが出始めている。遠からず、オニビシは死ぬ。矢を抜けば、血を噴き出して今すぐに。

「だから、人の前に立ち、全ての北の者の上に、立つことができる。人はお前を見、己がどうあるべきかを知る」

 それは、紛れもなく、悲しみであった。

「人は」

 セキトウは、ひび割れた薄い唇を開いた。

「国を作るために、いのちを糧にすることはない」

「しかし、血を流すことを厭うては、我らはいつまでも――」

「ちがう」

 オニビシが、言葉を止めた。顔色が、白みを帯び始めている。

「いのちとは、いのちのためにあるもの。そのいのちを奪うもののため、いのちを捨てるようなものは、ここにはない」

 それを、お前は知っているはずだ。そう、セキトウは細く言った。

「それでも、俺はやらねばならぬ。何を捨ててでも、いや、捨てるだけのものすら、ない。あの日、橙に染まるあの日、それはすでに奪われている」

「それでも」

 セキトウが、そっと腕を伸ばした。血でぐっしょりと濡れた獣の皮がめくれ上がり、半端な刺青がむき出しになった。

「このは、未だ残っている。ここに、消えずに」

 オニビシはわずかに眼を伏せ、そしてまた上げて頬を笑ませた。

「それを、言うのか」

「たとえ全てを奪われたとて、わたしは消えぬ。わたしに刻まれたこの証も。これまで、多くの血を浴び、どうにかその赤でもって、わたしがわたしであるを塗り潰そうとしてきた。どうしても、これは消えなかった。これを、わたしが人である証にしてくれる人を探して求めて歩きもした。いっこうに、それはあらわれなかった。出会う人、出会う人、わたしと同じであった」

 何かを、あるいは全てを奪われ、己が人であるということすら見定められぬようになり、ただ悲しみの中に呆然と立ち尽くすしかない人。痛みの証である涙を流し、震えるしかない人。

 せめて、その涙を拭ってやろうとしても、我が手についた血と泥で汚すのみ。

「抗うことではない。戦うことでもない。ましてや、奪うことでも。取り戻すことでも、そして、裁くことでもない」

 クトネシリカを、左手で握っている。それは、血の裁きを下す刃。

 刺青のある右手は、オニビシの頬にあてがわれている。そうすると、オニビシの涙が、はらりと刺青の上に落ちて濡らした。

 それを、拭ってやった。

 やはり、セキトウの手にこびりついた血が伸びて薄まり、桃色の跡になって残るのみであった。

「拭い去れぬなら――」

 セキトウの手のほのかな熱が、オニビシの白くなった顔を暖めている。

 その二人の間に、ちらりと雪。

 ひとつがふたつになり、そしてみっつになり、降りた。

 すぐに、世界はまた白に包まれようとした。

 それを見るでもなく、二人は世界を見ている。

「拭い去れぬなら、せめて、やさしくありたい」

 セキトウはそっと右手を離し、クトネシリカを握り替え、一文字に払った。

 オニビシは、もう涙を流すことはなくなった。痛みを感じることも、奪われることも、その悲しみを埋める必要も。

 癒せぬ痛みなら、せめて、そばにある。

 セキトウは、己が人である証を知る人の苦しみを閉じてやることができた。だから、そうした。北の者とは、そういうものなのだろう。

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