滲む

「九郎。あんたは、いいのか」

 セキトウらが去ったあと、雪の上に置き忘れられたように立つムスビは、言った。その拳は、固く握り締められている。

「俺はな、ムスビ」

 九郎は、幼い頃から共に生きてきた者の死がそこに転がっているのを見ている。

「この者たちだけは、俺と心を共にしていると思っていた。一緒に育ったようなものだ。だから、何も言わずとも、心が通じていると、思い込んでいた」

 しかし、その者らは他の重臣どもに同心し、九郎を排することを選んだ。彼らなりに、国のことを思ってのことなのかもしれない。それは、九郎には分からないし確かめようもない。

「俺は、この者らが何を考えていたのか、まるで知らないことに気付いた。この者らの心のうちを推し量り、近づこうとはせず。勝手に、我が考えのみが正しく、人が間違っていると断じていた」

 いいのか、という問いに対する答えにはなっていない。しかし、九郎はなおも言葉を重ねる。まるで、自分がそこにあると思い込んでいた場所と今の自分の立つ場所との高低差を埋めるかのように。

「誤っていた。もっと、互いのことを知り、話し合うべきであった。誰に対しても。そうすれば、人は俺の言うことを聞き、俺もまた人の言うことのうち自ら得心できるものがあったやもしれん」

 春の昼に通り過ぎる雨のように、九郎の頬を涙が伝った。それは、後悔であった。

 今更悔いたところで。今更詫びたところで。今更、悟ったところで。


 己が今何をすべきなのか。そのことしか、考えることなどない。

 いいのか。とムスビは問うた。それは、良いはずなどないという意味である。九郎も、そう思っている。

 だが、足が出ない。

 セキトウは、一人、村を襲った神北の兵のもとに行った。そして、来るなと言った。そこに死があるのが、分かるからだ。ムスビを、生かそうとしたのだ。それが分かるから、足が出ない。

 セキトウ一人を死なせ、自分はムスビを連れてどこかに逃げ、山根家当主の座も何もかも捨てて、ムスビを守って暮らす。そうすべきだと思う。

 だが、それをすれば、あの若く美しい娘が細い腕で振るう剣で戦うということを見過ごし、その身体が壊れて死ぬことから目を背け、我が身のみをながらえることになる。


 セキトウの、あの悲しい目。彼女は、涙を流さぬ。涙を流す人を癒すため、己の涙の代わりに血を流すからだろうか。

 彼女は、鬼でも神でもなんでもない。ただ自分とおなじ、脆くて弱い、ちいさないのちなのだ。

「なあ、九郎」

 ムスビが、呼びかけてくる。声が荒い。

「おれは、一人でもゆく。お姉を、放ってはおけない。おれも、お姉を助けたい。何ができるわけでもないけれど、俺が行ったところでお姉は神を降ろして戦うんだろうけど、それでも、戦いが止んだとき、傷ついてしまっているお姉のそばにいたい」

「待て」

 九郎が、駆け出そうとするムスビを制した。

「俺がゆく。お前は、どこぞの村にでもゆけ。そこで、生きてゆけ」

 雪を踏んだ。ひとつ、跡になった。生きるということは、己が歩んだ道を示すこと。九郎の産まれた国では、そういうものである。

「この山根九郎右衛門、女子供にばかり戦わせて我が身を守るような男ではない。それは、もののふのすることではない。生きるべきであるのは、お前と、セキトウだ」

 戦いの場にゆく。そして、セキトウを生きて連れ帰る。敵が百でも二百でも、それは関わりがない。

「いやだね」

 ムスビは、強くそれを否定した。九郎がちょっと驚いた表情を見せると、そこにさらに続けた。

「おれは、お姉のそばにいるんだ。お姉が辛い思いをしているときにこそ、離れずに。おれになにもできないのは分かっている。だから、せめて──」

 九郎は、見た。まだ幼さのあるムスビの顔で輝く瞳に、たしかに強さがあるのを。そして、それは、やさしさでもあった。それこそ、自分の追い求めるものだと思った。

 目的のための志を立てるのではなく、ほんとうに人の心の内の最も清く澄んだ部分から生ずる思いというものがあり、それこそが人を衝き動かすのだと確信した。

 悲しむ者があれば、痛みを訴える者があれば、何をするわけでなくとも、せめて共にある。それもまた、北の者の持つ美しい心。そして、人が人である以上、ごく自然に、当たり前にするであろうこと。


 死ににゆくようなことは、もう考えない。生きるためにゆく。ムスビを連れ、セキトウを危険から守り、助け出す。軍勢がいくらいるのかは分からない。もしかすると、もっと多くの兵が集っているのかもしれない。たった三人では、何もできぬかもしれない。ならば、だからこそ、行かねばならない。

 その心も身体もばらばらに壊れる寸前まで戦い続け、人の痛みと悲しみを我が身に吸わせるようなことを続けてきたセキトウを一人、置き去りになどできるはずもない。


 彼らは、セキトウを追った。森の中に刻まれた多くの足跡の中、セキトウのものがどれであるのかムスビには見分けることができた。地に伏してそれを見定める様を見て、狐のようだと九郎は思った。

 南の者には、できぬことである。それに、ムスビは、弓が使える。得意であると自称するくらいだから、その腕前はなかなかのものだった。

 森を抜けたとき、想像していなかった激しい戦いの跡が広がっていて、無数の屍を作り出して自らも動けなくなったであろうセキトウ──黒い影のようにして点と存在するそれが彼女であると、ムスビには一目で判ずることができた──とその脇にいてうずくまる男、そして今まさにそれらに手をかけようとする南の軍が目に入った。

「神北の旗印。やはり──」

 九郎がそれを見て取ったのと同じ瞬間、ムスビが矢を引き絞り、狙いを定める。狙えるか、と九郎が思うほどの距離である。北の弓は、南のそれよりも短い。したがって反発力が弱く、飛距離が短い。鎧などを纏うものを射るなどと考えたこともない北の者にとっては、それで十分であった。

 しかし、今、ムスビはこれまで射ったことのないものを射ようとしている。強く弓を引き絞り、狙い、そして放った。

 矢はやはりこれほど遠くのものを狙うには飛距離が足りず、標的としたものの足元で力を失った。

 それで十分だった。そのために振り下ろされようとする刃を止めることができた。


 駆け寄る。セキトウの姿が近付けば近付くほど、その身体が力を失っていることが分かった。

「九郎」

 ムスビが九郎に向かって悲痛な声を上げ、わずかでも急いでそのそばに至ることを懇願する。

 言われずとも、九郎は駆けている。ここに神北の旗が上がっているということで、確信することができた。一連の乱れは、神北が裏で糸を引いていて起きたものだと。

 証を示せと言われれば、何もない。だが、胸のうちに沸き起こる正義の怒りはある。

 山根家は、もう九郎の帰還を受け入れぬかもしれない。もちろん主君を闇に葬るというようなことは表立ってはできぬから、戻ればことを仕損じたとして家中の者は九郎の無事を体面上、喜んで見せるのかもしれない。

 だが、それで戻り、何になる。


 九郎は、ムスビを見、悟っている。いかに、己が甘いものであったのかを。己の言うことに人が賛同せぬのは、人の器量が狭いのではなく、己の心にも改めるべきことがあるのだと。

 産まれながらにして山根家当主となるべくして育った。誰もが、自分をたいせつに扱った。迎合し、阿諛あゆを用い、取り入った。

 長じて自我というものが芽生え、自分なりのまつりごとについての思考を持つようになっても、周囲はそれまでと同じように自分に従うものとばかり思っていた。そこについての擦り合わせは、してこなかった。いつまでも昔のままの考え方の重臣どもを、歯がゆく思うばかりであった。

 その愚を、己の不明を、今さら知った。

 せめて。九郎は、思う。せめて、人として為すべきことを為したいと。それでこれまでの過ちが消えるはずもなく、この乱れがなかったことになるわけはないが、それでも、やらねばならぬことがある。


 セキトウという一人の悲しい女を捨てては、先に進めぬ。それが、彼をして必死の形相で敵と思い定めたものへと向かわせている。

 ここで華々しく戦い、散ることではない。セキトウを救い出してこそ。そうしてはじめて、先に進める。そう思っている。

「神北石見」

 自らが敵と思い定めた者の名を、高らかに呼んだ。その軍装から、それと見て取れた。

 なぜ、このような仕打ちができるのか。この軍勢は、アムンペツのあちこちに散らばる村を襲うためのものだろう。心優しく、いのちのことをよく知り、与え合うことで生きる北の人々に、鉄砲まで持ち出して戦いを仕掛ける理由が、どこにもない。それでもそれをするのは、欲のためか。利のためか。

 重臣どもは、お上がこのままアムンペツを取り上げてしまうことを恐れていた。九郎を排除したのちに乱れを鎮めるために神北の兵が介入することも、既に話がついていた様子である。

 どれだけ声を上げても、人の心は動かぬ。どれだけ掟で縛っても、人の心までは縛れぬ。重臣どもや、セキトウに斬られた従者たち、そして数千数万の領民については、ただ申し訳なく思う。彼らの声に耳を傾け、分かり合うことをしなかった己が至らなかったのだと思う。

 だが、神北石見は違う。乱れに乗じ、己が欲を叶えることのみを思い、そのために人が血を流すことも厭わぬ。この原野に転がる亡骸のうち半分は、神北の兵である。そして、死したあと地に転がるそれらには、北も南もない。ただ死というその結果が、そこに残っているだけだ。

 それを目の前にして平気でいられるというのがどういうことなのか、九郎には分からない。そして、なおも悲しきいのちに刃を向けられるものを、人と呼んでよいものかどうか。


 守らねばならない。それをせぬのなら、それは人ではない。守れぬなら、せめて、そばにいてやりたい。その苦しみを半分にすることはできずとも、ほんの少し、百のうちの一くらいなら和らげてやることができるかもしれない。

 そのためには、生きなければならない。

「逃げよう、お姉」

 自らに向けられる刃の林に臆することなく、ムスビがセキトウの腕を捉える。その腕にはすでに力がなく、立ち上がることすらもできぬようだった。

「はやく。お姉」

 その様子を見た石見が、高笑いをする。

「死に損ないが。これが、鬼神か。百の兵をひとりで斬るというからどれほどのものかと思えば。少ない兵糧を惜しまずに出し、これほどの兵を率いてきて損をしたわ」

 そして、太刀を握り締めて怒りに震える九郎に眼をやる。

「お主は?若造」

 その身に付ける甲冑から、それが山根九郎右衛門であると分かっているはずである。しかし、あえてそう言った。

「まあ、いい。どのみち、お前はここで死ね」

 石見が合図をすると、兵がまた刃の林を作り出して九郎に迫る。九郎は、ぐいと雪に足を留まらせ、ムスビに眼で合図をした。

「お姉。とにかく、森の中へ」

 まずは、セキトウの身の安全である。それをする時間を、九郎が稼ぐ。そういうことである。ムスビは弓も矢も捨てて力を失ったセキトウを無理やり背に負い、歯を食いしばって立ち上がった。


 一歩、一歩、一歩。足が雪に沈み、背に負ったセキトウの重みが、より強く感じる。それでも、あの森に入らなければならない。今それができるのは、自分だけなのだ。

 セキトウは、眠ったり気を失ったり、ましてや死んでいるわけではない。ただ、身体が動かないだけなのだ。目を開け、息をし、胸が上下しているのが分かる。

 どう思っているだろうか。なぜ戻って来た、と怒られるだろうか。

 それでもいい。何をどう言われ、たとえ二度と口をきいてもらえぬようになったとしても、セキトウが死んでしまうよりはずっとましだと思った。

 これがふつうの荷ならば、重さのあまりとっくに投げ出してしまっているところである。だが、たとえ脚が折れても森まではセキトウを運ばねばならぬ。


 一歩、一歩、一歩。

 ムスビは、必死で歩む。背後には戦いの気配はない。九郎は、まだ睨み合っているのだろう。あるいは、なにか言葉を交わしているのかもしれない。

 途端、衝撃。雷に打たれたようなそれが走り、地に我が身とセキトウを投げ出してしまった。続いてそれは痛みに代わり、矢が脚に刺さっているのを見た。

 セキトウ。地に投げ出されたまま、じっとこちらを見ている。早く、背負わねば。そう思い、奮起し、立ち上がった。矢の突き通った腿から血が噴き出て、そのあまりの痛みを煩わしいと思い、矢をへし折り、両側に引き抜いた。

 さらに、同じ衝撃。今度は、背に。矢の飛んでくる方ではなく、セキトウの方をのみ見ていたから、突き立つまで分からなかった。

 立っていられぬようになり、地に転がった。そうすると、視界の向こうで、幾人もの兵がこちらに弓を向けているのが遠望できた。

 かん、と弦が鳴る音がした。そして、風を切る音。

 ただ死ぬのか。セキトウを助けなければ、何の意味もないというのに。それができるのは、今、自分だけであるのに。

 そうは思っても、瞬きをするより速く我が身に迫ってくる死を、どうすることもできない。ムスビもまたいのちあるものである以上、それに対して、つい目を閉じた。


 再び目を開いたとき、人が決して足を踏み入れぬ山の上にいるのか、あるいは罪あるいのちが墜ちるとされる地下にあるのか。どちらにしろ、自らの死後どうなるのか、分かるはずもない。

 目を開いた。そのどちらでもなかった。

 ムスビの視界にあったのは、背中。己の背というのは決して見えぬものだから、他者のものだということが分かった。

 セキトウ。にわかに起き上がり、ムスビがほんの一瞬目を閉じたその間に跳び、彼を庇った。

 その手には、ムスビのいのち目掛けて飛来したはずの矢が握られている。

「お姉」

 セキトウは、わずかに振り向いた。その半端な横顔を見て、ムスビは息を呑んだ。神を降ろすときのような、虚ろなものではなく。たしかに、いのちの光のある黒い瞳が、ムスビを見ていた。

「わたしを、生かそうとするのか」

 言葉。もう、身体が動かぬようになっていたのではなかったのか。痛みはないのか。分からぬことだらけであるが、実際、セキトウは何事もなかったかのようにしている。

「どこも、痛くはないの」

 己を貫いた矢の痛みのことはいっとき忘れ、それを気遣う。ムスビには、やはりそれしかできない。

「それすら、感じぬようになってしまったらしい」

 力なく口の端を吊り上げ、答えた。そして、手にしていた矢をばらばらと捨て、刺青の手の甲を、クトネシリカの柄に。

 抜いた。抜くことができた。神を降ろさぬまま。

「痛みを感じぬのと、痛みが癒えるのとは、違う」

 呟くように。

 ムスビにその背を見せ、歩きはじめた。

「お姉、駄目だ」

 これ以上、クトネシリカを振るえば。

 一体、何がセキトウをそうさせるのか。なぜ、神を降ろさずしてその刃が抜けるのか。

 人の痛みを癒し、血の裁きを。いったい、何を癒し、何を裁くというのか。

「森まで、ゆけ。這ってでもいい。ゆけ」

 そう言い残し、地を蹴った。ムスビが伸ばした手は、届かなかった。

 神北の兵の群れを目指して駆けてゆく。

 神を降ろさぬなら、セキトウはふつうの人間だ。男の力には敵わぬし、数え切れぬほどの兵の中に突き入って無事でいられるはずがない。

 仮に神をまた降ろしたとしても、痛みすら感じぬようになった彼女の身体は、もうかたちを保つことはできぬだろう。

 ムスビは、立てぬ脚で、背に矢を受けたまま、見送るしかなかった。

 どんどん遠ざかってゆくセキトウの姿は、雪に滲んでいた。自分の涙だと、少ししてから気付いた。

 そして、滲んだまま、無数の屍が作った血の赤の中に溶けた。

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