なお重なる死

 振り下ろし。それを流れるようにしてかわし、鎧の継ぎ目にあたる腋の下を斬る。通り過ぎて振り抜いたまま、前方にある者の喉を貫く。刃を返して傷穴を広げ、真横に跳ぶ。首を骨から断たれた者は、膝をついて崩れながら血飛沫を上げる。

 旋回し、雪を散らせたその重みで停止。ひとつ、白い息が咲く。

 すべての人が求める、安息の眠り。それをもたらすものとは、夜。身体と魂の半分をそれに塗り込めたセキトウは、次々と人に眠りをもたらした。

 腿を蹴って駆け上がり、あごの下から切っ先で跳ね上げる。そのまま宙に身を留めるようにして刃を引き、朝陽にぎらりと閃かせる。

 今、世界は、赤と橙に染まっている。天も、地も、そこに積もった雪も、その上にある人も、何もかも。

 その様を、オニビシは見ている。

 ──なんと、美しいことか。

 心を穴にして、それを見ている。


 北の民は、なぜ奪われるばかりなのか。南の国は、なぜ奪うばかりなのか。

 いつか訪れるであろう機会に我が身を置き、雪のように積もり重なった恨みと怒りをどうにか晴らさんと考えていたオニビシは、南の者に混じって生きた。南の者として、生きた。そうすると、見えるものがあった。

 南の者が戦ってばかりなのは、この百年あまりに渡って、南の地で戦いが絶えなかったからだ。奪わねば、奪われる。滅さねば、滅される。

 戦いとは、大地を荒らす。人も減る。すると、国は貧しくなる。己の治める大地がもたらすものだけでは、己の治める人を養えぬようになる。そうであるならば、奪うしかない。知らぬ人より我が知る人が可愛いのは、人の常だ。

 彼らは、ずっとそのようにして生きてきた。それ以外に、生きる術を知らぬのだ。彼らが産まれたときすでに天地は乱れ切っており、それ以外の方法では一日でも生きることができなかった。だから、彼らは、奪うということを当たり前のことのように考えている。

 そのために研ぎ澄まされた刃や遠くの者を射殺せる強靭な弓矢、果ては火薬を用いて鉛の弾を飛ばすようなものまで用いて、それをする。

 オニビシは、南の者を心底哀れに思っている。だからといって、許すつもりなど毛頭ない。彼らが奪ったかわりに与えたのは、憎しみと怒りと悲しみと痛みでしかないのだ。

 それは、今すぐにでも断ち切らねばならない。今それを許し置けば、北の子らがそれを継ぐことになる。この先にあるのは、南と同じ、奪うということが当たり前になった世しかない。

 我が保身と利のため、いのちを消費してゆく。この大地のどこにもあるはずのないそれを、当たり前にしてはならないのだ。


 ちょうど、神北石見はオニビシにとって南の者を絵に描いたような男だった。彼が思うのはいかにして隣家である山根家の治める地を我が手にするかということで、オニビシをまるで珍しい獣でも拾ったかのようにして養った。北の者でありながら南の者として生きようと見せていたオニビシをアムンペツに入れ、乱れを起こさせようとした。

 お上はもちろん怒り、山根から領土を取り上げるだろう。その乱れを治めることに積極的であった神北にアムンペツが与えられるのは、当然のことである。

 ──互いに利用し合う。お前たちは、それが好きだろう。

 だから、オニビシは、従順に石見の思惑を実現することを望んでいるように見せかけて、そこに我が望みを織り込んだ。

 腰に南の太刀を帯び、南の者しかせぬ言葉選びをしながら、彼の魂は南を憎みきっていた。

 南の太刀を振るうのに、村に伝わる神迎えの舞いというのは役に立った。というより、神を迎えるために舞うそれ自体、刃を手にして相手を斬る動作なのだということを知った。誰と戦っても、負けることはない。神北家の腕自慢の者が戯れに手合わせを誘ってきたときなどは、形としては負けてやっていた。しかし、彼の眼の中には、たしかに一合で死骸と化す相手があった。


 しかし、セキトウが生きていたことは、想定外であった。喪ったはずの身体の一部がまた生えてきたようなおかしな感覚がある。そして、そのセキトウは、有様であった。

 人々の歌の中にだけある、神の剣。それが、ほんとうにもたらされるようなことがあるとは。

 彼女が舞うのを、見た。それは、人が神の真似事をしてするようなものではなく、神そのものであった。なにか、肉体という枷があるのを歯痒がるような動きは、とうてい人の身体で行うことのできぬものであった。

 いたどりの剣を振るう者は、自らの身体を降ろした神に喰われ、やがて死ぬという。そうしてまで癒さなければならぬ痛みがもたらされたとき、はじめて人の前にあらわれる。

 セキトウを知り、セキトウに知られる彼は、迷った。しかし、選んだ。

 彼女を、北の者を集める依り代にしようと考えた。それは、セキトウひとりのいのちよりも、この北の大地から南の者を一人残らず消し去った先にある唯一の──と彼は確信している──安寧が優先されるべきだと考えたということである。

 渦を巻く理不尽が、流されるべきでなく流される血が、この地から無くなるならば。

 そう思っているのだろう。どのみち、彼が、己がここにあるということを証すものは全て破壊され、奪われ、殺されている。それならば、彼はもうこの大地のどこにも存在せぬのと同じことになる。少なくとも、彼はそう思っている。

 セキトウも、同じ。全てを奪われたセキトウがそのひとつの生をながらえたとしても、ただ生命が続いているというだけの存在でしかないことになる。直接語り合ったわけではないが、彼の理解ではそうなる。


 そして今、セキトウは、夜そのものになり、南の兵を次々と屠っている。

「見ろ。あれが、東の山の者だ。見よ。それが降ろす、神を」

 声を張り上げる。北の者のうち立って動ける者は目の前の神にことごとく昂奮し、武器を振り上げて南の者に打ち掛かった。


 百と百。その殺し合いは、殺戮になった。大半は、セキトウの肉体を借りた夜の神によるものであった。

 癒えぬ悲しみと痛みを、眠りによって癒す。そういうつもりなのか、どうか。

 オニビシ自身も、また太刀を振るった。右に左に斬り飛ばし、繰り出されてくる槍の柄を叩き切り、血煙を上げて舞った。ふたつの鬼に導かれるような格好になった北の民も、多くの屍を大地に転がしながらも、次々と南の者を屠っていった。

 朝陽が力を取り戻すかわりにその橙を失う頃、戦いはやんだ。

 地に足を付けているのは、わずかな北の者のみ。あとは、ことごとく屍となった。

 いのちあるものがただ互いに殺し合い、これほどまでに多くの死が一度に積み重なることなど、あるだろうか。

 オニビシは、生きて立っている。その吐く白い息と、身体から煙のように立ち上る汗が、それを示している。


 セキトウも、また。しかし、血振りをしてクトネシリカを鞘に戻した途端、両膝から崩れ落ちた。

 肩で大きく息をし、喉からは何かがつかえたような音が。血が溶かした雪の上で、立ち上がることすらできずに。

 オニビシが、ゆっくりと歩み寄る。ただ互いの死だけが重なったこの原野を踏みながら。

 いったい、何が残ったのだろう。女を、子を守らんとして立ち上がった北の者は、ほとんどが死んだ。多くを得るためにこの地にやってきた南の者――これは神北の兵と見て間違いないだろう――も、ことごとく死んだ。

 その死は、彼らのどちらの願いも叶えることはない。そもそも、死が何かをもたらすことはない。糧を得るために獣の肉体を借りた神を、山に帰すのとは違うのだ。

 生き残ったわずかな北の者は、疲れて鉛のようになった自らの体と、この原野を満たす、目を覆いたくなるような光景を見て、何を思うのだろうか。

 彼らの視線は、オニビシに注がれている。それが歩み寄る、神を降ろす者にも。


「――セキトウ」

 その名を、呼んだ。むかしとは違う響きを持つように、自分の耳の中で這いずり回る。眼を落とすと、毛皮から少しだけはみ出た右手の甲に、刺青。自分がこれを刻んだのだ、と思った。この刺青がどこまであるのか、まだ誰にも触れられたことのないはずの白い肌がどうなっているのかも、知っている。だが、彼女はオニビシの妻になることはなく、こうして神を降ろして血の裁きをもたらす鬼となっている。

 彼女が被った笠を、外してやった。やはり、真っ白なままの肌であった。目の下にくっきりと刻まれているのは、刺青ではなく、疲労の証。見上げてくるが、ものを言う力はないらしい。

「お前は、なんと悲しい生き物になってしまったのだ」

 腕が、上がらぬのだろうか。両腕ともに、だらりと垂れ下がったまま、力を失っている。

「俺の求めるものとお前の求めることが、少しでも重なればよかったものを」

 なにを、求める。セキトウの眼が、そう問うている。

「俺は、ここに、国を作る。人を集め、誰にも触れることのできぬ、我らだけの国を。村の者だけで集まっているようでは、いつまでも南の者のいいようにされるばかりだ」

 国というものを、北の者は知らぬ。そのようなものが、この大地にあったためしがないのだ。

 もともと、彼らにそのようなものは必要がなかった。国というようなものがなくとも、それがもたらす規範や秩序がなくとも、彼らは天地の間にいのちを持つものとして、互いに与え合うことをしてきたからだ。

 だが、もう、それではこの大地は成り立たぬ、とオニビシは言う。

「これは、ここに国を造るための戦いなのだ。多くの者が死にはしたが、それは意味のある死なのだ」

 なぜか、機嫌を窺うような響きを持たせて言った。

「さらに多くの者が、俺の後に続く。はじめは、ささやかな流れでしかない。しかし、それはやがて、岩をも押し流すことだろう」

 手を、差し伸べようとする。共に来い、ということである。疲れきったセキトウには、その手を取ることも拒むこともできない。

 しかし、それでも、意思を示そうとした。ゆっくりと力をこめ、刺青の刻まれた右手を挙げる。

 その手と手が触れようとした、そのとき。


 オニビシが肩口を押さえ、片膝をついた。

 矢である。

 それは次々に飛来し、まだ生きている北の者の体に吸い込まれていった。

 見ると、セキトウが抜けてきた森の反対、なだらかな丘陵が続く方から、人のひしめき合う影が見える。

 軍勢。これほどの数は、見たことがない。駆けている。どんどん、近付いてくる。

 そして次の矢が放たれ、それが地に降り注ぐと、セキトウとオニビシを除いて生きる者はいなくなった。


「そこにいる野良犬は、オニビシか」

 声が聴こえるほどの距離になり、軍勢は停止した。声はその中央から発せられている。オニビシが舌打ちをし、燃えるような瞳でその男を睨みつける。

 軍勢の中から五十ほどの塊がさらに進み出てきて、セキトウとオニビシの二人の前に立った。

「もう、十分だ。よくやった。これで、アムンペツの乱れの責めは山根が負うこととなるだろう」

 美々しい軍装を煌かせながら、男は歩み寄る。

「お前が大人しく飼われているわけではないことくらい、分かっている。鼠は、どこまでいっても鼠だ。それが翼を生やして天を舞うことを夢見るとは、愚かな」

 太刀を抜く。そして、ゆっくりとオニビシに向ける。

「貴様、はじめから、俺を――」

「当たり前だ」

「石見」

 心からの呪詛をこめて、オニビシは名を呼んだ。

「お前ばかりが我らを利用しているわけではない。そのことくらい、分かりそうなものだがな」

「そんなこと、分かっている」

「ほう。では、知りながら、貴様の陳腐な望みがほんとうになると、そう思っていたのだな」

「知りもせぬ者が、よく言う」

 実際、神北石見には、オニビシが何をしようとしているのかということなど、どうでもよいのだろう。セキトウを押し立てて国を作ろうとしていると聞けば、笑うかもしれない。

「全てを、奪われた。お前たちに。それを、許すわけにはいかぬ。そのためになら、いくら死を積み重ねても、この俺の血のすべてを流しても、構わぬ」

「意趣返し、というわけか。鼠のくせに、ほざくものだ」

 手にした太刀を、振りかぶる。オニビシは応じようとするが、矢による傷みのため、思わず剣を取り落とした。

「――お姉!」

 飛来する、別の矢。それが、石見の足元に突き立った。太刀を振り下ろそうとしていた石見がその動作を止め、矢と声が飛んできた方に眼をやる。

「お姉、今行く!」

 セキトウは、地に膝をついたまま、目だけでそれを見た。

 自分が抜けてきた森から、とても親しみのある姿が駆けてきている。

 ムスビ。弓を手にし、駆けながら矢を番え、二度、三度とそれを放っている。

 その背後には、九郎の姿。

 さらに、声。多くの。

 森から、大勢の人が湧くようにして飛び出してきている。その身につけるものや手にするものからして、北の者であろう。鹿などを射るための弓から矢を次々と放ち、石見の周りの兵を射殺している。彼らの狙いは、百の矢を射って一つを外すかどうかというくらい正確である。広大な原野や木々の茂る山の中で、動く小さな的を射って鍛えてきているのである。それを、彼らはセキトウの眼前に迫る者どもに向け、次々と放っている。

 ――来るな。

 セキトウは、叫ぼうとした。しかし、声にはならなかった。

 来るな。これ以上、死を積み重ねることはない。

 そう言いたかったが、彼女の身体は、神に喰い散らかされてしまっている。

 夜の神の振るう剣は、ほかのそれよりも更に多くの糧を必要とするものらしい。

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