黒く塗れ

 土に混じった雪を踏み、歩く。そうすると、己が進んでいるのだということを感じられる。あるいは、世界が己を通り過ぎてゆくような。

 針葉樹によって切れ切れになる夜を見上げ、立ち止まる。そうすると、身体が芯まで冷えてゆくが分かる。それは、いのちが絶えぬようにと内なる火を燃やす証。

 吐く息が、白い。それは手に握った灯火に当たって橙になり、すぐに闇に誘われて消えてゆく。

 すべてのいのちが、そのようにして産まれ、わずかな時間だけ色を持ち、そして大いなる母のような闇へと還ってゆく。


 自分は、どこから来たのか。そして、どこへゆくのか。

 少なくともここより先に待つ百の兵は、それを示してはくれぬ。そこへ自分の足を向けさせる神も、何も語ってはくれぬ。

 だが、行かねばならぬとたしかに思った。行かねば、このアムンペツにいる北の民はことごとく滅ぼされてしまう。


 セキトウには、山根家だとか神北家だとか、そういうことはよく分からぬ。北の者が村ごとにまとまって生きるように、南にもそういう集団があって、それを彼らは家と呼んでいるということくらいの知識しかない。北ではあまりないが、南の家と家は一見仲が良さそうに見えて、それでいて互いに互いの持つものをいつ、いかにして奪うかというようなことにばかり眼を向け合っているように見えている。

 いのちとは、産まれながらにして、与えるべくして存在する。我が持つものを。あるいは、己自身を。そうして互いに糧を与え、糧となり合い、さっき吐いた息のように輝き、大いなるものへと還る。そこで、また次の身体を得るときを待つのだ。

 それを、人は神と呼ぶ。セキトウがその身に降ろすのは、かたちを持たぬ始原の状態の神に、我が身体を分け与えるということなのかもしれぬ。

 ひとつの身体に、ふたつのいのち。その矛盾が、彼女の身体を痛め付ける。そうまでして得られるものがあまりに無意味で虚しく酷いものでしかないということが、彼女の心を痛め付ける。

 それでも土を、雪を踏んで進むのは、なぜなのか。


 腰のクトネシリカに手をやり、抜こうと力を入れてみた。やはり、己の意思では抜けなかった。では、さきほど抜いたのは、何のためなのか。

 我が身とムスビを守るためか。あるいは、九郎を助けるためか。

 北の民を、人ではなく獣でもないと言い切り、思うままに振る舞い、奪うことしかせぬ南の者を守るため、抜くことができるというのか。北の者を苛むものをうちはらい、血でもってそれを裁く剣ではないのか。

 セキトウは、何も知らぬ。だから、求め、歩いている。

 己を。己を、知る者を。

 彼女の右腕の刺青。それを施したオニビシと、再会した。しかし、互いの生の喜びを分け合うことはなく、互いのいのちを奪うための道具を向け合うことをした。


 ――オニビシ。

 吐く息に向かって名を呼んでも、ただ流れて消えるだけ。

 ――この乱れに、お前は何かしらの関わりを持っているのか。

 おそらく、それは間違いない。南に奪われたものを、決して戻らぬものを取り返そうと、人を集め声を上げているのか。

 その悲しき行いはどこに向かい、いつ終わるのか。決して、癒えぬその傷を、誰が癒すのか。

 分からぬし、答えもない。ゆえに、セキトウはゆく。

 自らを知る者を知るために。


 朝になる頃には、森を抜けた。そこには、一面の原野が広がっている。

 ヌタプケシと人々が呼ぶ広大な場所に、人が集っている。

 朝とは、人には寒すぎる。雪は夜の間に止んで風もないからまだましであるが、これが晴れた夜から続く朝であったりすれば、体が凍りそうになるほどに寒くなる。

 冬は、まだ始まったばかり。ほんとうの冬が来る前に、南の者は決着を付けようとするはずだ。そしてそれに応じようとまとまりを見せつつある北の者も。

 その集う人々が南の兵であることは、彼らが鎧をまとい槍や太刀を携えていることで分かる。

 そして、その向こう側にも、人の群れ。それは、光を跳ね返さぬ武器を手にして、毛皮などを思い思いに身に付けている。

 間に合ったのか、間に合わなかったのか。

 降り積もって残ったままの雪が、ふたつの集団の間で光っている。嘘のような静かさの中、彼らは睨み合っている。

「ゆくぞ!立ち向かえ!我らの大地を、取り戻せ!」

 一人が、叫ぶ。その声は、オニビシのものではないか。原野に溶け消えるためよく分からぬが、なんとなくそう思った。

 それを確かめる前に、二つの集団は声を上げ、まだ誰も踏まぬ雪を踏んで駆けた。くるぶしくらいの高さにしか積もっていないから、北の者は駆けることに困難はないだろう。


 南の集団。産まれたときから雪と共に過ごしてきたわけではない彼らにとって、積もった雪というのは厄介なものであろう。そういうとき、必要以上に足を高く上げてしまい、早く疲れるものだ。

 武装は厚いが、それがかえって身体の動きを妨げる。寒いときは、なおのこと。

 北の集団の先頭を駆ける者が腰から刃を抜き、はじめの一人を斬った。

 刃を佩いている。やはり、オニビシか。

 それは次々と南の者を屠ってゆき、瞬く間に数人が屍となった。

 セキトウの立つ場所にも、争乱の声が、断末魔が聞こえてくる。


 断末魔を聞いて、オニビシが九郎の砦にやってきたときのことをふと思い出した。北の者の前では思うさま振る舞うことしかせぬ男どもが、我が妻や子を守ろうとして動き、戦った。

 ――女子供に、近づけるな。

 武器を持つ者はそう声を上げ、自らに迫る死に立ち向かった。女は子をどうにか危険から遠ざけようとして、必死で我が身を盾にして庇った。

 それは、南の兵がやってきたときの北の民と何ら変わりのない行動であった。

 我が身に連なり、己を知る人を守り、その者にどうにか永らえよと願うことに、北も南もないのかもしれない。


 では、今セキトウの目の前に広がる光景は。人と人とが互いに武器を向け合い、互いのいのちを奪い合う。天と地の間にひとしく分け与えられるはずのいのちは、血となって雪を染めてゆく。

 その先駆けとなる、オニビシ。南の太刀の扱いを、どこで学んだのだろう。生まれた村に伝わる神迎えの舞の動きに大振りな太刀の技が混じり合い、誰にも手の付けられぬ嵐のようになっている。


 守るはずのものが。守られるはずのものが。次から次へと、血と叫びになって消えてゆく。

 押し倒され、必死の形相で抵抗する者。手握りした短刀でその喉を掻き切る者。魚を突くための銛を背に受け、崩れる者。どこを見ても、叫び。血。そして、死。

 人とは、与え合うものではなかったのか。この原野に広がるものは、それとは真逆の、全く説明のつかぬ行いであった。

 誰にも、彼にも、それを知る人がいるのだろう。


 セキトウの脳裏に、これまで旅の途上で出会った人の顔が、声が、涙が蘇った。

 奪われるべきでないものを奪われた人の涙を拭ってやろうとしても、ただ血と泥が薄く伸びて跡になるだけ。

 それは、悲しみ。そして痛み。

 渦を巻くそれらが、セキトウの心を覆い尽くしてゆく。

 雪を染める赤。それを塗り潰すことができるのは、夜の黒だけ。あらゆるいのちが還るべき、おおいなる黒。その始原にある神。

 それだけが、塗り潰すことができる。

 この血を。ひしめきあう死を。生まれ出ずる悲しみを。痛みを。



 ──衣は、黒。その綻びから漏れるは、光。名を与えて、星。

 ──人は、その星に、物語を与える。我がはらに揺蕩う神が、また戻り来るように。

 雪に、足の跡が。しかし、それを踏む音はない。ぶつかり合う人々の声にかき消されているのか、あるいは音のない世界のことだからか。

 ──人は、歌う。我が悲しみを。戦ういのちの、物語を。

 ──戦ういのちは、悲しきいのち。

 ──悲しみは、痛みを呼ぶ。痛みとは、抗うことがもたらすもの。我が衣のもとへ還ることを拒むがゆえの、痛み。

 南の兵が、北の民が、いっとき、武器を交えて押し合うのをやめた。そのまま、呆然とそれを見ている。

 その静けさは瞬く間に伝播してゆき、誰もが何が起きているのだろうとその方向に首を伸ばした。

「なんだ、あれは──」

 ある者が、呟く。その者の視界には、笠を目深に被った黒い衣の者があった。

「なんだ、お前」

 南の者が、その者の装束が北のものであり、なおかつ腰に剣があるのを見て取り、太刀を向けた。

 振りかぶろうとしたが、その手に太刀はなかった。いや、腕そのものがなかった。

 クトネシリカ。抜き放たれている。

 両腕がなく、見覚えのある腕が足元に転がっているということがどういうことなのか分からず、その者は断じられたところから噴き出る鮮やかな赤を見て、叫んだ。

 痛みか。悲しみか。怒りか。恐怖か。

「痛むなら、休むがよい」

 まるく、湿った声。薄い唇から、漏れている。

「苦しむ者は、痛む者は、我が衣のもとへ来よ」

 人々から、あっと声が上がった。幾人かは、かろうじてその目に止めることができた。

 あまりに速く、あまりに鋭く、あまりに激しく、それでいてひどく緩やかで、穏やかで、静かであった。

 斬撃。その光の筋すら残さぬほどの。

 痛み、苦しみ、抗う者は、それで静かに眠った。

 夜が来れば、眠るもの。それは、いのちが、静かになるところ。

 げんに、両腕を失った男は、とても安らかな表情で横たわっている。

 揺らぎもなく、確かさもなく、ただクトネシリカを握って立つだけのセキトウ。

 それは、まったく夜そのものであった。

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