灯と星と赤と黒
「やめろ、セキトウ!」
九郎が呼ぼうが、ムスビが叫ぼうが、聞こえるはずもない。今、セキトウは風になっているのだ。風になって、雨を連れてきている。雪が降っているのに雨とは妙なことだが、実際、彼女がふたりめの男に向き直った次の瞬間、男は横腹を切り裂かれ、その中のものを雪の上にこぼし、赤い斑点が散らばっていた。
さらにもう一人。決死の声で、太刀を振りかぶる。九郎にしてみればともに修練を積んだ仲で、彼らとて相当な腕を持っているはずであるが、人ではないセキトウの剣を捉えられるはずもない。振り降ろした太刀筋ぎりぎりで身をふわりと避け、次の瞬間、大木をもなぎ倒す暴風となって打ち付けた。
そして降る雨。赤い。それがセキトウの笠に、防寒のために纏う獣の革に、そしてその踏み締める大地に、雪に降り注ぐ。
世界は、また静寂となった。風も、止んだ。風の神が雪の神を連れて来て、落ち着いたらしい。
細く、長く息を吐くセキトウ。言葉もないムスビと九郎。
「──お姉」
ムスビが雪を鳴らし、そっと声をかける。笠の奥、雪をひとひら乗せた長く美しい睫毛が上がり、額から垂れ落ちる血の滴と混ざって頬に伝った。
「──お前を知る者を、わたしは、斬った」
ムスビの向こう、九郎に眼をやって言う。彼女の背後の、なにもないはずの雪原を赤く濡らす屍がみっつ転がっている。セキトウとそれらとを交互に見、九郎は唇を噛んだ。
どうすればよかったのか。
今セキトウによって屠られた三人のことは、幼い頃から知っていた。共に学び、長じたときは当然のようにして自分のそばで支えてくれていた。そういう間柄でも、彼らは九郎の心の中のことは分からなかった。その求めるものを共に叶えることではなく、諫めても考えを改めぬ主君を手にかけ、国を守ることを選んだ。
そして、九郎もまた、彼らの心のうちは分からなかった。当たり前のように付き従い、当たり前のように自分と考えを同じくしているものと思い込んでいた。
「彼らを」
寒さでひび割れた唇が、動いた。
「彼らを殺したのは、お前の剣ではない。俺の不明だ」
セキトウは、答えた。
「そうか。それでも、悲しみは、癒えぬな」
雪を、見ている。それが、赤い死と、生ける者を覆い隠してゆく。いくら積もったところで、それはただいっとき隠したにすぎず、その下にあるものが消えたわけではない。
生きてそれを感じる三人が、にわかに橙に染まった。西の方で雲が切れ、陽がそこにあることを今さら思い出させるようにしてぼんやりと滲んでいた。
橙は、それがそこにあるとき、天地の全てをおなじものに染める。屍も、雪も、生ける者も、それらが吐く白い息でさえも。ただ、赤はどれほど橙に照らされても、いつまでも赤だった。それを塗り潰すには、セキトウの衣の色のような闇の神が天を統べる夜を待たねばなるまい。
彼らが村に至る頃には、もうその色に世界は染まっている。
手にした木切れに脂を塗って燃やし、月と星が見下ろす闇を切り取る。
「──ひでえ」
村にはいくつもの骸が折り重なり、それらが逃げ惑ったことを示す足跡がまだ微かに残っていた。光を向けなければただの黒でも、灯火の橙の下では、死の色がありありと息をしていた。
子を抱えたまま、背に何本もの矢を突き立てた女。胸にいくつもの小さな穴を開けて死んでいる男。銃が用いられたのだろう。そのような傷を受けて倒れている者が、そこら中にいる。
屈み込んで亡骸をあらためていた九郎が、それを認めた。
「銃の数が、多い──?」
山根家も、無論この地に銃を持ち込んではいる。しかしその数は多くなく、せいぜい五十挺ほどである。砦の守備のために用いるものであって、それを扱う隊は限られている。そしてその隊は砦を出ることなく、門や裏の斜面の警備をしている。持ち出したとして、せいぜい裏の斜面の向こうの森に糧を得るために狩りに出る程度である。
九郎が砦を出るときは、銃を使う者は全て砦の中にいた。そうすると、この銃は。
「神北の銃──」
神北家というのは武辺で通った家で、兵の武装は厚い。この地に駐屯する者にもそのまま合戦に出ることができるほどの武装を施していて、お上の定めによって二年おきに領主が国許に帰るときも数を減らさず残される。
そして、セキトウが斬った九郎の従者が、神北家の名を出した。だから、この村を襲ったのは、神北家の兵なのではないかと想像した。
九郎の知らぬ間に、ことは動いている。九郎が、北の全ての民が、最も望まぬ方向へ。
足跡は、続いている。村の向こう、森の中に切り通された道へ。獣などの足跡を見るときと同じようにして、セキトウがその数を数えた。
ざっと、百。
「やめろ、セキトウ」
九郎が、それを止める。
「行けば、死ぬ」
百の兵なら、クトネシリカがあればどうにかなる。しかしクトネシリカとはセキトウ自身にも抜けるかどうかそのときにならねば分からず、そして抜けたとしても戦っている最中に自らの動きに身体が耐えられなくなって死ぬかもしれぬのだ。
「行かねば」
それを分かっているのか、ほかの何かを見ているのか、セキトウは刺青のある右腕を捉える九郎の手を外した。
「お前が、死ぬことはない」
「では、どうする。お前が百の兵を殺し、その神北という者どもをことごとく屠り、己の正しさを証すのか」
「いや──」
ムスビが、心配そうに二人を見上げている。その視線に微笑を返し、またセキトウをまっすぐに見て言った。
「俺がゆく。この首と引き換えに、争いを治める」
「お前は、甘い。南の者とは、もっと身勝手なものだと思っていたがな」
セキトウが、思わず苦笑する。
「では、どうすると言うのだ」
「わたしがどうするか、お前には関わりがない」
九郎が何か言おうとするが、それに耳を貸すことなく背を向け、頼りない光を手にして森へと入ってゆく。ムスビが追おうとしたが、来るなと強く言われ、釘を打たれたように立ち止まった。
セキトウは、一人で森の闇を火で払い、雪まじりの土を踏みながら歩いた。これくらいの強さの雪なら森の中までは振り込まぬから、足跡を追うのは容易い。
彼らがどこを目指したのか、そのことは問題ではない。ただ、彼らのあるところに、自分の求めるものがある。何を求めているのか彼女自身、昼に見る夢ほどの不確かさでしか掴めていないが、根拠のない確信だけがあった。
ふと、針葉樹の隙間の星と眼が合った。星というのがなにものであるのかセキトウは知らぬが、たしかに瞬いて闇に息づいている。
ある男がいた。男は、願いをかける男だった。その願いは、大地の上にこれまでになく、そして当たり前にあるべきものだった。
奪い合うのではなく、与え合う。そう、男は願った。しかし、その願いを共にするものはなかった。
全ての人が等しく与え合うことのできる大地を願った男が得たのは、幼い頃から自分を知る人の死と、それを通して自分がこの世にたった一人で立っているという孤独であった。
男は、涙は流さなかった。そういう風に育っている。だが、しかし、男は傷付き、望みの全てが断たれた。
そのうえで、死地にゆくと男は言った。それは、自らの生の放棄であった。
望みをかけて大地で生きることを奪われた男の望みは、その生の終わり。
その悲しみを、神は癒さんとする。
また、星に悲しい物語が与えられた。結末は、まだ語られぬ。それを語れば、神は満足して人の前に現れぬようになるからだ。
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