第四章 乱れ

風の神

 雪に足跡が付くというのは、当たり前のことである。冬になれば必ず雪は積もるし、そこを歩けば足跡というのは勝手に自分に従って付いてくる。だが、九郎はそれが珍しいらしく、何度も何度も自らの藁沓が跡を作るのを振り返って確かめた。

「雪が、そんなに珍しいのか」

 ムスビがそれを珍しがる。雪をよく知らぬ者がこの世に存在するというのは、彼にとっては驚きであるらしい。

「ああ。これで、何度目かの雪だ。十七のときに父上に呼ばれてこの地に入ったが、いまだ見慣れぬものだ」

「九郎の産まれたところには、雪はないっていうのか」

「そうだ。俺は南の国でもとくに暖かい国で産まれた。そこが、本来の領地だ。冬でも暖かく、穏やかな海に面していてな。美味い魚や貝なんかもたくさん獲れるし、領土を貫くようにして流れる川の周りではたくさんの米も獲れる。街道にも面しているから商いも盛んで、ほんとうによい国だ」

「ふうん。なんだか、嘘みたいな話だ。お前みたいな産まれの奴には、ここの冬は酷ってもんだろうな」

「そうだとも。俺は、冬というものに関してはお前には敵わぬのだ、ムスビ。これから、師と呼ばせてもらおうか」

 白い息とともにからからと笑う声を上げる九郎に合わせ、ムスビも笑った。

「おう、悪くない。しっかり励めよ、九郎」

「恐れ入ります」

 知らぬ間に、仲良くなっているらしい。セキトウは背後で交わされるやり取りを聞いてそう思ったが、だからどうということもない。ただ目指すべきところに向かって、足跡を刻むだけだ。

 セキトウが先頭に立ち、その後ろにムスビと九郎。さらにその背後に影のようにして九郎の従者が付いている。

「なんでまた、ここに来たんだよ。俺たちから糧を奪うためじゃないなら、その暖かい国でずっと暮らしていればよかったのに」

「そうもいかん。お上の言いつけだからな」

「そのお上って奴は、そんなに偉いのかよ」

「当たり前だ。逆らうことはもちろん、お上のなさることに嘴を挟むことすら、あってはならぬ。あらゆる武門の頂にあるお方なるぞ」

「そういうもんかい」

 さく、さく、と音を立てる足が残す跡に、また雪が重なってゆく。

「あ、降ってきやがった。急ごう」

「しかし、空は晴れている。たいしたことはあるまい」

「馬鹿、これから雲が出て来るんじゃないか」

「そのようなことまで、分かるのか」

 風で、分かる。雪が強まる前兆を、天が、地が示している。ここで生まれ育っていればそれも当たり前のことだが、九郎はそういう風にはできていないらしい。

「風の神は気まぐれで、いつもあちこちの神のところに通っている。あるときは雨の神を口説き、あるときは雪の神のところに入り浸る。雨や雪の神はそれに怒ってすぐに風の神にそっぽを向いてしまうから、風の神が慌ててそれを追いかけて引っ張ってくるんだ」

「それも、お前たちの歌にあるのか」

「知らない奴なんて、いないよ。九郎は、何も知らないんだなあ」

「これはまた、やられたな。師には敵わぬというわけだ」

 九郎は、南の神々の話をした。南の神々とは滅多に人前に姿をあらわさず、もっと厳かで、静かなるものらしい。それぞれに固有の名を与えられ、たいていは社の奥に静かに祀られている。

「わざわざ、神に会いに社まで行く?変なの。神なんて、どこにでもいるし、向こうから俺たちのところにやって来るじゃないか」

「ここでは、そうらしい。はじめ、驚いたものだ。野の獣など獣でしかないとしか思っていなかったが、ここの民はその全てが、風や雨、雷や果ては夜までも神であるとして大切にする。俺は、そういう心のありようが好きなのだ」

「変な奴だなあ」

 歩幅を広めながら、ムスビが笑う。

「俺は、この乱れを治めたら、この地の豊かな恵みを俺の国にもたらし、そして俺の国の豊かな恵みをこの地にもたらしたいと思っている。互いに垣根なく、欲しがるものを与え合うことができれば、どちらも豊かに栄える。そうは思わんか、ムスビ」

「そりゃ、美味いものがあるなら食ってみたいけど」

「たくさんあるぞ。お前の知らない美味や、驚くほど便利な道具が」

 南の者は、古くからこの大地に多くの技術や知識をもたらしてきた。セキトウの腰にあるクトネシリカも、南の者が鍛冶の技術を伝えなければ存在しなかっただろう。他にも弓の作り方や農具、漁具の作り方など、南の者は北の者の知らぬことばかりを知っていた。

 それが、いつの頃からか、北の者が知らなかったはずの争いや戦いということをもたらすようになった。

「俺は、それを嘆いている」

 九郎は白い息を球のようにして吐きながら、見上げた。雪の上を歩くということに慣れていないため、息が上がってきているのかもしれない。

「昼に梟の鳴く村でいいんだな」

 北の村は、そういう呼称で呼ばれる。固有名詞という概念が北では薄いらしく、何々の村、とか、何々の神、というような即物的な名付けしかしない。人の名ですらそうで、熊をよく獲る男、とか、篭を編む女、というような意味の名ばかりである。

 南の支配を受けてからは、その言葉すらもあやふやになり、今では北の者の多くがふつうに南の言葉を使い、純粋な北の言葉の話者というのは年々減っている。


 国を支配するにはまず言葉を支配すればよいという考えは近年でもあり、たとえば西欧列強による植民地政策などがその最も分かりやすい例であろう。彼らの父祖が語ってきた言葉は一瞬にして塗り替えられ、わずか数十年で公用語となり、あらゆる者がふつうに話すようになる。べつにこの時点での南の国が北の地に対して同化政策をしていたわけではないし民間人の積極的な移住を伴わぬため植民地とも言い難いが、それにきわめて似た状態にあるということであろう。

 たとえば、セキトウは意味が分かるがムスビには分からぬ北の言葉というものがある。そして、セキトウには分からぬがその父母や祖父母にならふつうに理解できる言葉というものもある。

 北の者がどう思い、何をしようと、着々と、そして急速に、北は南になりつつあるのだ。セキトウ自身、血でもって南の者を裁く鬼と言われながら、その用いる言葉の多くは南のものである。


 その南の言葉で、行き先を改めて確かめた。

「そうだ。そこの者が、最も人数が多く、そして最も気勢が荒いという。まずその村に入ってよく説き、分かり合うことができれば、ほかの村も考えを改めよう」

「そうか」

 雪が、やや強まった。それなのに、セキトウは足を止めた。

「どうした」

 自然、九郎もムスビも、そしてその背後に続く者も、同じように足跡を刻むのをやめた。

「この先にあるのが、そうだ」

 セキトウが振り返った。笠の奥の表情は分からないが、その声は悲しみに満ちていた。

「どうしたというのだ――」

 九郎がセキトウの方に身を乗り出したとき、風の神がこの先で何が起きているのかという報せを運んできた。

 火の臭い。家が、生き物が焼ける。そして、火薬の臭い。

「これが、お前たちだ。これが、この地で今起きていることだ」

 そこから眼を逸らすことはできない。どれだけ理想を掲げようとも、起こっていることを無かったことにできるはずもない。

 剣とは、奪うためではなく、道を拓くためのもの。そう思い、せめてムスビが長じたときに産まれてくる子に、奪うことではなく与え合うことを見せてやりたいと思い砦を出たが、説く相手すらももはや無い。

「一体、何が起きているのだ」

 九郎もまさか自分の領地においてこのようなことが起きるとは寝耳に水だったらしく、愕然としている。自分の兵が、村を攻めたというのか。火薬まで用いているのなら、それはこれまでに横行していたような略奪の類ではなく、もはや戦である。


 雪が鳴るのを、九郎ははじめて聞いた。それは一瞬のことで、鋭く、激しかった。前に立っていたはずのセキトウが雪の上を跳ぶ狐のようになったかと思うと、一息にムスビと九郎を追い越していた。

 閃く光。そして、鉄が鳴く。

 鳴いた響きが、雪に静かに吸い取られてゆく。

「――どういうつもりだ」

 クトネシリカの鞘ごしに、言った。

 九郎に従っていた者どもが一斉に太刀を抜き、斬りかからんとしていた。それを、受け止めたのだ。

「お前たち、いったい」

 九郎は、あきらかに動揺している。今刃を抜いているのは紛れもなく自分が昔から知っている者であり、いつも側にいて共に成長してきた者である。

「九郎さま。お覚悟。お命、縮めさせていただきます」

「ちょっと、待て――」

 太刀の柄に手をかけようともしない九郎に向かって、別の一人が斬りかかろうとする。ムスビが咄嗟に放った矢がその足元に突き立ち、慣れぬ雪に足を取られて転んだ。

「どうしたのだ。なぜだ」

「もう、これ以上、我らがこの地で暮らしてゆくことはできぬのです。このままでは」

「九郎さま。あなたの考えることは、素晴らしい。しかし、それだけでは国というものは立ち行かぬもの。ほかのご家老がたの、総意でございます」

 九郎を亡き者にし、排斥する。そのうえで軍をもってして乱れを一息に治める。そうでなければ領地召し上げである。重臣どもは、結局九郎の説くところに耳を貸すことはなかったのである。それどころか、もはやこれまで、として、その主君の排斥を強行的な手段によって実現しようとした。

 北の民の叛乱を治める途中、流れ矢に当たって死んだ。そういうことにするつもりなのだろう。

「家老どもが――」

 信じられぬという様子で、立ち尽くす。

「隣地を治める神北家も、助勢を申し出ています。ただし、九郎さまがいては、せっかくの助勢も無駄になる。ご家老がたは、そういうお考えに定まりました」

「我らとて、あなたをここで討つのは、本意ではない。しかし、我らの後ろには、国元の何千、何万という者がいるのです。その者らに不自由をさせることは、主君のすることにあらず」

 人が、自らを知る人に刃を向ける。

 それが、道を拓くことだと信じて。

 愚かである。

 血でもって拓かれる道を歩むのは、血に濡れた者だけ。そうでない者も、その道に一歩足を踏み入れるだけで、たちまち同じ色に染まる。

 雪の上に残るのは、足跡。春まで、そこに色が宿るはずはない。

 だが、今から、この九郎子飼いの従者どもは、我が主君を討ってそこに屍を作り、その上を踏み越えて赤い足跡を残してゆこうというつもりらしい。


 セキトウには、何ら関わりがない。彼女は、自ら思うところに従い、随行したのみである。決して九郎の語るところに同調して砦を出たわけではないと、彼女自身が断言できることであろう。

 そうであるはずなのに。

 風の神が、冷たい、冷たいものを運んできた。それは薄く、よく研がれた刃のようなものだった。天から地に向かって降るはずの雪を真横に流して、通り過ぎた。

 赤。

 それが、撒き散らかされた。

「お姉!」

 ムスビの叫び。おそらく、聴こえてはいまい。セキトウに太刀を押し付けるようにしていた一人の両腕が、遅れて雪の上にばさりと落ちた。

 身を低くし、剣を振り抜いたままの姿勢で制止。クトネシリカが、抜き放たれている。

 止まり、ときに揺れ、ときに激しく身をはしらせる様は、風そのもの。

 なにか、口ずさんでいる。

 ――昨日知った人と、今日遊ぶ。

 ――わが喜びのため、今日遊ぶ。

 ――どこへゆくのか、知ることもなく。

 ――ああ、雨よ、そして雪よ。わたしが草に我が通り過ぎる跡を残すのを見よ。お前のもとへと乞い願い、はしるわたしを見よ。

 ――そして、ともに、

「泣け」

 掴みどころなく揺れていたクトネシリカ。それが、ぴたりと止まった。

 九郎はいまだ眼前で何が起きているのか分からぬ様子だが、ムスビは、風がぴたりと止まったとき、その次に何が起きるのか、知っていた。

「やめろ、お姉!」

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