人のまだ踏まぬ雪

 九郎は、ムスビを説き、それに連れられるようにして頼りなく積もった雪を鳴らしながらセキトウのもとを訪った。

「お姉」

 と、気まずそうに小屋の戸を開くムスビのに眼を落としながら、九郎は、セキトウには好かれていないことを改めて感じた。あまり濃い関わりを持ちたいと思わぬからこそ、ムスビは自ら九郎を連れてきたことについて気まずそうにするのだろう。

「ごめんよ。でも、どうしてもって言うから」

 そう言って戸をゆっくり開き、半身を屋内に差し入れた。

 木の枝を編んでなにか籠のようなものを作っていたセキトウは、手を止めた。

「なにを、作っている」

「籠だ」

 相変わらず、無愛想である。

「手に持つには大きい。背負うには、小さい。何に使う籠だ」

「子が、背負う」

 春になれば、子供が、草の芽などを摘んで回る。そのときに背負える大きさのものを作っているらしい。たとえばムスビなどはすっかり手足も伸びつつあり、この籠を背負うには大人じみていすぎる。おそらく、誰のために、ということはなく、子が背負う大きさのものを、ということだけを決め、手慰みのようにしてこれを作っているのだろう。


「いつまで、ここにいればよい」

 セキトウは籠を編むための枝を脇にやり、眠そうな目で言った。

「まだ、家の中にはお前を恨む者も多い。外に出るのは、あぶない」

 九郎はそう言うが、セキトウにとってはこの砦での生活とは身柄の自由の拘束である。

 ムスビが、二人にちらちらと眼をやる。

「お前に、頼みがある。聞いてくれるか」

「言いもせぬのに、聞けと言うのか」

 九郎は苦笑し、ムスビを見た。ムスビは小さく首を横に振ったが、構わず九郎はいきなり大きな声を上げ、板敷に手をついた。

「頼む」

 セキトウは少しぎょっとしたようだが、すぐに静かな瞳に戻り、九郎の見事に結い上げられた髷を見ている。北にはない髪型であるから間近でじっくり見る機会はなく、珍しいのかもしれない。

「頼む、セキトウ。俺と共に村々を回り、説いて回ってくれないか」

 セキトウは、きょとんとしている。何を説いて回るのか、なぜ自分なのか、何も分からぬのだ。

「お前だけが、頼みなのだ」

 たのむ、たのむ、と九郎は家中の者が見たら飛び上がってしまうほどなり振り構わずに板敷に額を擦り付けた。しかし九郎がいかに南で高い身分であろうと、セキトウにとってはただの若い男だから、その表情が動くことはない。

「おれにはよく分からないけどさ、九郎が、あまりに一生懸命にお姉に会わせてくれって言うもんだから」

 ムスビが弁解するように口を開いた。

「戦いをしたくないから、お姉の力を借りて、北の村のみんなと話をしたいって。いや、おれはお姉がそれに力を貸すかどうかは分からないって言ったんだ。だけど、九郎が、何度も──」

 弁解なのか弁護なのかは分からない。なぜかムスビは九郎の意思をセキトウに向かって代弁するような形になっている。


 北と、南。分かり合い、手を取り合う。そして、与え合う。そのようなことができる日は、果たして来るのだろうか。

 もし来るならば、なぜ父や母や自らの血に連なる者は死んだ。なぜあの静かな村は無くなった。なぜ行くあてを失ってさまよう中で出会う人は皆悲しみと痛みに顔を歪め、涙を流していた。なぜ、この右腕の刺青は半端で終わった。なぜ、それを刻むはずの人と自分は剣を向け合った。

 なぜ。なぜ。なぜ。セキトウの心に、外を満たす雪のように積もってゆく。それが、はらりと薄桃色の唇からこぼれ出た。

「なぜ」

 それに、九郎は答えた。

「人が人と戦うということほど、愚かなことはないからだ。人の血とは受け継ぎ守るものであり、流すものではないからだ」

 流すものではない。流すべきものではない。守らねばならない。セキトウは、傍らのクトネシリカをそっと握りしめた。

 いくら、血を流してきたのか。セキトウが求めたわけではない。親を失った子が求めたわけでもない。誰も、それを求めぬはずのものを地に吸わせるという、この世で最も恐ろしい制裁。それが、この剣なのだ。セキトウは、そう思っている。

「お前は、傷つきすぎている。もうこれ以上、戦うことはないのだ、セキトウ」

 人には抜くことのできぬ神の剣を握るほそい指に、九郎の無骨な掌があてがわれた。セキトウは弾かれたように手を引っ込め、九郎に触れられたところを押さえている。

「誰も、戦うことはない。北の者も、南の者も。今ここでまた戦えば、その火は必ずムスビたちの代がそれを継ぐ」

 人には、守り継がねばならぬものがあり、決して受け継いではならぬものもある。そのことを、九郎は言っている。

「南の者でも、その分別はあるのか」

 セキトウが、皮肉を言った。九郎はその棘には触れず、やわらかく笑った。

「北や南ではないのだ。己のことをのみ考えるとき、人は必ずたいせつなことを見失う。人とは、己のためにはほんとうは生きることのできぬものなのだ。人とは己を知る者のために生きるように、そういうようにできているのだ」

 俺は、それを正したい。この美しい大地に、これ以上血を吸わせてはならない。そう、九郎はまっすぐにセキトウを見て言った。

「そのために、お前の力が必要なのだ。これ以上、子らに辛い思いをさせてはならぬのだ」

 セキトウが、立ち上がる。

「お姉」

 それを、ムスビは制した。

「九郎は南の奴だ。だけど、いい奴だと、おれは思う」

 言って、言葉の尻を濁して黙った。

「ねえ」

 なにかを思い、そして定めたようにセキトウを見上げ、継ぐ。

「助けてやろうよ。九郎を」

 北の民を、ではなく、九郎を。セキトウは立ったまま唇を結んでいる。


 その手に握る剣が、何のためのものであるのか。

 それがもたらす血に、意味があるのか。

 その身を神に喰らわせ、舞わねばならぬのはなぜか。

 オニビシが、生きていた。セキトウを知る、たった一人の人。そして、彼女の身に刺青を刻んだ男。もし、南の者がいなければ、今ごろセキトウはふつうの女として子を設け、その子に我が糧を分け与えて生きていただろう。

 しかし、痛むのだ。身体が。当たり前の生を得るときに刺青を施されて痛む代わりに、骨を砕き肉を裂いて。そして、なにより、心が。己が己であると示すあらゆるものが瞬時にして消え、いったい自分が天地のどこにいるのかすら分からぬようになった心が。

 星にすら、物語はある。互いに光を放ち、瞬き合うからだ。夜の旅人はそれを見上げ、我が位置を知る。だが、あたり一面の闇にぽつりと灯る橙でしかない彼女は、何を頼りに生きてゆけばよいのか。

 裁きをもたらすためではない。彼女には、それをする力などない。復讐のためではない。どれだけ斬っても、どれだけ南の血を浴びても、その赤は彼女が一人であるということを塗り潰しはせぬ。

 ただ、歩いていた。己が己であると証を示してくれる人がどこかにいるのではないかと思いながら。それを求めることでしか、生きられぬのだ。

 だが、出会う人出会う人、皆が悲しみ、同じような痛みに満たされ、涙を流していた。それをどれだけ拭ってやっても、彼女の手にべっとりとこびりついた死の色が薄く伸びるだけだ。

 ――もう、戻れぬ。

 それをするには、彼女は赤でありすぎた。あまりに激しい舞のために傷んだ身体は、いつまで動くのかも分からぬ。

 ――これまでの生には、わたしにあるはずであった生には、もう、戻れぬ。

 だが、ムスビを見ていると、思う。この穢れのない瞳が大人になったとき、自らの愛するものを映していればよいと。

 それまでにこの広大な北の地のあちこちにいる南の者を皆殺しにすることなど、とうていできはしない。その前に身体の方がばらばらになり、死ぬだろう。人一人の力で、もとより、そのようなことができるはずもない。

 しかし、人は願う。我が知る人に、幸あれと。明日食うものに困らず、寒さを乗り越え、いのちを繋げと。そのためになら、人は鬼にでもなれるしその身を神に喰らわせることもできるだろう。

 ――ただ、会いたかった。わたしを知る人に。この刺青ではなく、わたしがわたしであるという証を与えてくれる人に。

 クトネシリカは、いたどりの剣。人の痛みを癒すため、神がもたらしたもの。しかし、彼女は、自らの身体に刻まれる痛みを求め、その剣を振るってきたのかもしれぬ。それゆえ、神は彼女を癒そうとはせぬのかもしれぬ。


 剣とは、人が道を拓くとき、枝や草を払うためのもの。北では、そうだ。

 このクトネシリカを、人の道を拓くために使わねばならぬ。南の者のように、いのちを奪うためではなく。

 ムスビの瞳に映る己を見た。薄く、笑んでみた。

「お姉」

 そうすると、ムスビも同じ顔をした。九郎のことを嫌っていると思っていたが、話すうち、彼の心の中が見えたのかもしれない。思えば、九郎の為そうとしていることは、ムスビにとっても己の存在が許すきっかけになるかもしれぬ。北と南の両方の血を持つ彼とて、己を呪いたくて呪うわけではない。そう思うと、唇に力が宿る気がした。

「やる」

 みじかく答えた。ムスビも九郎も、ぱっと顔を上げた。

 人は、己のためになど、生きられぬ。己を知る人がいるからこそ、その人のために生きることができる。

 髪や身に付けるものは違っても、思うところは同じ。いや、それどころか、九郎の言葉はセキトウが閉ざしてしまっていたところにすんなりと入り込み、ほんとうに見なければならぬものを見せさえもした。


 翌朝、九郎は評定を開いた。重臣どもは、猛反対した。それを押し切り、彼は旅装束に身を包み、セキトウとムスビを迎えにきた。供は、彼が幼い頃からそばに従っていたような者が三人のみ。

 北と南の入り混じったその小さな一団は、薄く積もる雪に己の歩いたしるしを残しながら、まだ人の歩かぬ雪の先を見ていた。

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