第9話


 少年は走っていた。やはり、道の並びは、少年の頭の中の地図と違っていた。再びヴィヴィアンが魔法を使い始めたのだ。

(アガサが魔法を使えたら、こんな事には成らなかったのに)

 少年が今更、そんな事を思う。彼女を責めているわけではない。もし彼女が魔法を使えたら、少年は始めからこの競争には出ていない。それどころか、もっと守り手らしく振舞っていたはずだ。つまり、自分の名前を取り戻すべく、戦っていた。アガサとの仲も、今ほど良好では無かっただろう。

 全ては、アガサが歌えなかったからだ。魔法を、使えなかったからだ。

普通、声の出せない歌姫の護衛など、誰もやりたがらない。そんなもの好きは少年くらいしかいない。少年しか居ないのだ。

 自らを守る術を何一つ持たないアガサを守るのは、少年だけだった。アガサには少年しか居ない。アガサには少年が必要だ。

 少年には、その感覚がどうしようもなく心地よかった。

 結局、彼はアガサに依存していたのだ。名前を無くし、記憶を無くし、足りない部分をアガサで埋めた。彼女に必要とされている、という感覚で、自分を慰めていたのだ。

 守り手は、自分の名前を取り戻すために戦う。しかし、少年はアガサの隣にいるだけで満足していたのだ。自身の出自を求めて戦うよりは、目の前の無力な少女で自分を慰める方が楽だったし、気持ちよかったのだ。

 吐き気がする。まるでアガサを愛玩動物のように扱って、その事に無自覚だったのだ。それどころか、自分はアガサの守り手だと、誇りさえ持っていた。そして、自分の在り方を男に否定されたことが気に食わなくて、腹を立て、勝負を挑んだ。

(……ただの寄生虫のくせに!)

 少年が足を止めた。少年の前に、男が立ち塞がっていた。今度は、間髪入れずに襲い掛かって来た。速い。

 まともに打ち合うのも馬鹿らしいので、少年は、下がりながら受ける。しかし、完全に受けきることは不可能だ。要は、確率の問題だ。何度も繰り返せば、いずれ間違いを犯す。

 男もそれを分かっているから、無理な攻撃はしない。ただ、反撃の隙だけは与えないように、斬撃を繰り返す。

 先に少年が動いた。突きを放つ。最も速度が乘った瞬間に身体を静止させる。

 影切り

「利かないよ」

 そんな事は、言われるまでも無く、少年は分かっていた。だから少年は静止した後、攻撃は繰り出さず、横に逃げた。そのまま走り出す。

 すぐに追いつかれるが、それで十分だ。

 ヴィヴィアンの魔法で、通りの並びは滅茶苦茶だった。それでも、あの一際大きな鐘楼だけは街のどこからでも見ることが出来た。少年は、その鐘楼を目指していたのだ。

 直方体の石を、規則正しく組み上げて造った、円柱の塔だ。内部には、頂上へと伸びるらせん階段が有った。

 少年は、迷うことなく、らせん階段を駆け上がる。石造りの塔に、反響する足音は、二つ。男は、しっかり少年を追ってきている。しかし、この登りでは、身体の軽い少年の方が有利だった。

 頂上へ出る。四つの柱と、それに支えられた屋根。銅製の鐘。そして、僅かばかりの平らな空間。ここからは、ヴィンランドの街と、地平線まで広がるブドウ畑が、全て見て取れた。

(ここが、ボクの旅の終着点なのか)

 足元から、風が吹く。石造りの建物だが、少年はやけに頼りなく感じた。

 男が、最早ゆっくりと頂上まで上がって来た。

「ここで、行き止まりか?」

「そうだよ」

「罠でも有るのかと思ったが……」

「無いよ。決着をつけようか」

「ああ」

 男が長剣を抜いた。打ち合いが始まる。

 少年は、必死に食い下がる。もう彼我の差は十分に理解していた。男が長剣を使い始めてから、その差はますます、広がった。ますます、速く、正確に急所を突いてくる。

 右からの切り上げ。短剣で弾くが、逆に押しのけられる。身体を捻って躱す。

 ここで、終局が見えた。この男を相手に、この不安定な体勢から、逆転するのは不可能だった。

 男は、少年の頭めがけて、横なぎを繰り出す。少年は、それを防ぐため、姿勢を低くする。余計に、反撃が難しくなった。

 男の突き。下がって躱す。少年の足が、鐘楼の縁に掛かった。もう、逃げ場はない。男は、とどめとばかりに、剣を振り下ろす。今までで一番速い。

 ここで少年が、下がらず前に出た。肩口に刃が食い込む。

 少年が、男の腰に飛びついた。そのまま手を回し、抱き着くような格好になる。

「アホなのか⁉」

「たぶんね」

 驚いてもらえて光栄だ。少年はがっちりと男を掴んだまま、後ろに跳んだ。少年も男も宙に投げ出される。景色が反転した。自分が落ちているのか、地面が落ちているのか、区別が無くなりそうだった。少年の傷口から溢れる赤い血が、上へ流れていく。

 男には不意打ちも、小手先の技も、通用しない事は分かり切っていた。ならば、命を捨て、挑みかかる。勝を掴み取るなら、それしかないのだ。もしも勝機が有るのならば、の話だけれど。

 少年は空中で身体を横に捻った。そのまま回転しながら、短剣を振るう。男が、長剣で防いだ。反動で少年の身体が逆に回転を始めた。男も同じくだ。

「そういうことか!」

 風限音にも負けないで、男が叫んだ。心底、愉快そうだ。

 重力に支配された落下中では、少年も男も、自由に身体を動かせない。つまり、少年は男と、同じ速度で居られる。頂上から、地面まで、この数瞬、身体能力は関係ない。二人は対等だ。

 一回転。

 再び、二人の斬撃が交差した。

 少年は無傷だった。男の額にうっすらと赤い線が引かれる。初めて、刃が届いた。しかし、まだ浅い。

 一回転。

 今度は防がれる。身体が逆向きに回転を始める。少年は身体を捻る。回転を加速させる。男が一回転する間に、二回転。時期をずらして斬撃を浴びせる。今度は、首筋を撫でる。

 二人の身体の速度は同じなのだ。落下する最中、物を言うのは先読みの能力だ。それなら、少年に分がある。少年は考え続けていたのだ。勝つために、機転を利かせて、そうして必死に戦ってきたのだ。圧倒的な速さと力で敵を屠る男には、そもそもそんな事をする必要は無かった。ただ、蹂躙すれば良い。少年が勝機を見出したのは、そこだ。

 一回転。

 男の斬撃の軌道は、読めていた。長剣の腹を拳で叩いて軌道を逸らす。少年の斬撃は、男の手首を捉えた。長剣が男の手から離れる。

 しかし、遅かった。地面が、すぐそばまで迫っていた。あの高さから飛び降りたのだ。いくら守り手でも、きちんと受け身を取らなければ、命まで落としかねない。男が着地の態勢を取る。

「おい、お前⁉」

 再び、男の顔が驚きの色に染まる。

 少年は身体を捻った。しかし、受け身を取るためではない。男に一撃を見舞うためだ。

「くたばれ!」

 振り下ろした刃が、男の腹にずぶずぶと埋まっていく。刃の根元まで、短剣を突き刺した。その時には、すぐ目の前に地面が有った。

(受け身を)

 咄嗟に、少年は思う。しかし、彼の意識はここで途切れた。

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