第4話
領主が言うには、もうじき、収穫祭が開かれるそうだ。そこで、街の端から端まで、男たちが競走する、という催しが行われる。酒の女神イブリンは、騒がしいことが大好きなので、彼女に奉納するのだという。
その代わり、一番早く走り切ったものには、褒美として、その年の最高の琥珀酒が贈られる。今年の賞品の琥珀酒は、十年前に仕込まれたものだ。ホラリスが誤って魔法をかけてしまったのは、その酒である。
祭りの競走に特に参加資格は無い。ヴィヴィアンの守りその収穫祭の競走に参加する予定なのだ。もちろん、八百長などしなくても、守り手はぶっちぎりで優勝する。居一般人に負けようがない。
ヴィヴィアンは、その祭りで勝負しようと提案した。
少年はそれを承知した。
アガサたちは、醸造所を後にしてすぐに、宿を取った。しかし、荷物は解かない。
「日が暮れたら、発とうか。それまで、寝てなよ」
( 臆病者 )
アガサは、腹立たしそうに言う。
「勝てない喧嘩はしないよ」
食料と常備薬を、買い足しておかない事を、少年は思いだす。
( 君 だって 強い )
「でもさ、向こうには、そんなボクみたいなのが何人も居るんだよ?」
( でも このまま ただ逃げるなんて 腹立つ
あの 歌姫 なんか 偉そう )
「……悪かったよ」
アガサが足踏みする。彼女は、美味しいお酒を飲みながらのんびりと過ごす事を、想像していたはずだ。ところが、ヴィンランドについたその日に、ほとんどの夜逃げのように出発することになったのだ。確かに、腹立って立つだろう。
( 私は 行かない から )
アガサが寝台に倒れこむ。随分前から、その調子なのだ。流石に少年だって、困ってしまう。
「そうか。分かったよ」
( 何 ? )
「ちょっと買うものが有るから、市場に、行ってくるね。ついでに遅めのお昼も食べに行くけど、アガサは来ないんだよね?」
少年は脛を、蹴られた。
結局、二人は連れ立って、市場へと向かう。改めてみれば、街の有地ことに、祭りのためと思われる、飾りが施されていた。あちこちに置かれた、木彫りのイブリンの像が目を引く。どれも、手彫りの素朴な像だ。長髪の女神が、胸の前で手を組む意匠が多い。彼女の象徴色である、深紅の旗も散見された。
( あの お酒 飲みたかった )
アガサはふてくされている。
「まあまあ。ヴィンランドのお酒は、どれも一級品なんだよ。美味しいお酒なら、他にもいっぱい有るって」
( 普通に 美味しい お酒 なら )
「その言い方。嫌味だなあ。どうせ、酔っ払ったら味なんて分から――ごめん、ごめん。冗談だって」
少年にも、アガサの気持ちは分からなくもない。彼だって、飲めるものなら、飲んでみたかった。魔法のお酒なんて、そうお目にかかれるものでは無い。
「お金、少し余裕あったよね?」
アッサリアを去る時、路銀としてはいささか多めの金を、商人組合からせしめたのだ。
( 大事に 使う と 言って いた )
「今が使い時じゃないのかな?」
( つまり ? )
アガサの頬が、既にほんのり紅い。興奮している。
「少しくらい、贅沢してもいいんじゃ無いのかなあ? とか、思ってみたり。せっかくのヴィンランドなんだし。飛び切り上等なヤツ、一本買おうか」
アガサが首を振る。
「買わないの?」
( 樽 一つ )
「え、何それ? 本気なの?」
( 本気 )
目を見れば、アガサが本気なのはすぐに分かった。
「飲めるの?」
( 飲める )
アガサが、激しく頭を、縦にふる。
実際、それだけの酒を買うお金は有った。しかし、道中、どんな事が起こるのか分からない。こんな所で散財して、良いものなのか。少年は悩む。
その時だ。アガサが目を閉じで、首筋を伸ばすように、僅かに顎を前に出した。
「何が? ……あ、そういう事ね」
少年も、アガサに倣う。
ヴィンランドは、斜面に沿って広がるブドウ畑だ。その坂を、風が駆け下って行く。熱い太陽と、熟れたブドウの香りを含んだ風だ。
「……買おうか。ブドウ酒、樽ごと」
アガサが笑った。最近で一番の笑顔だったかもしれない。
「伏せて!」
少年が叫んだ。アガサが、頭を抱えてうずくまる。
少年は短剣を抜いた。宙空に、キラリと光る一点が有った。次の瞬間、その点が、少年の目の前に有った。
一閃。
金属が噛み合う。火花が散った。弾かれた矢が、明後日の方向に飛んで行った。
「走るよ!」
少年は、アガサの手を引く。人気の少ない、しかし遮蔽物の多い路地裏へと移動する。しばらくすると、少年は足を止めた。
少年の背後に、男が立っていた。片手に、剣を持っている。既に鞘から抜き放たれ、輝きを放っている。
「もしかして、ヴィヴィアンの守り手?」
返事は無かった。代わりに男は、剣を片手に少年に突貫する。少年は、二本目の短剣を引き抜いた。二本の短剣を交差させ、男の斬撃を受ける。
つばぜり合いに持ち込む。刺客は、少年より一回り背が高い、しかし、やせた男だった。すり鉢のように落ちくぼんだ眼窩の底で、大きな目が、爛々と輝いていた。
少年は、この男を知っていた。彼は、初めて天幕に遭遇したあの日、少年に矢を射かけた男だ。
もちろん、初対面だ。しかし、分かるのだ。少年と刺客の間には、ある種の絆が有った。命のやり取りをした者同士の間にだけ、生じる絆だ。泥のようにこびり付いたその絆を、少年は、五感以外の何かで感じ取った。
「……お前。あの夜の」
「はっ!」
男が笑う。
彼は跳び下がると、剣を捨てた。
少年が身構える。
男はそのまま、弓も降ろした。
「お前の流儀は短剣か?」
男が問う。少年は頷いた。
守り手ならば、大概の武器は自在に使いこなせる。しかし、中でも得意な武器、というものがある。少年の場合、それは短剣だった。
男は懐から、短剣を取り出した。そのまま、腰を下ろし、上半身を前傾させる。
「ふざけてるの?」
男は答えなかった、代わりに、低く笑った。
少年も構える。両手に短剣を握る。左手の短剣は逆手に、右手の短剣は順手に握った。
少年から動いた。
両手の短剣を交互に動かして突き込む。左右非対称の握りから、変則的な攻撃を繰り出す。途切れの無い攻めは、男に反撃の隙を与えない。
しかし男は、一本の短剣で、巧みに乱撃を捌いている。
「しっ!」
少年が一際、強く突き込む。そして、突きに最も速度が乗った瞬間、少年は身体を硬直させた。突きの途中で、突然、時間が止まったかのように、少年は静止していた。一方、男はすでに、防御の体勢を取ろうとしていた。そのまま慣性に引きずられる。
影切り。
少年が、硬直した状態から、弾けるように横薙ぎをくりだす。突きから、薙ぎへの急激な変化。男の左腕を掠った。しかし、浅い。
(避けられた!?)
しかし、少年は攻め続ける。
左手の短剣を順手に、右手の短剣を順手に握り直す。攻めの調子を変化させる。
男はそれにも完璧に対応して見せた。
「くそ……」
少年の口から、そんな声が漏れた。その時、男が攻めに転じた。
少年の突き、短剣で弾いて逸らした。男は前に踏み込む。踏み込んだ勢いそのままに、今度は男が突きを放つ。
(来たっ!)
少年は、それを読んでいた。少年の五感が、極限まで研ぎ澄まされる。突きの速度が、遅くなって見えた。視界が広がる。頭上から、二人の剣劇を、見下ろしているように見える。
男の突きの軌道に、少年は右手の短剣を滑り込ませる。男の突きと、少年の短剣が噛み合う。接触点から、火花が飛び出す。瞬間、少年は短剣を手放した。斬撃が交錯した瞬間から、一呼吸の百分の一の間を置いた後に、手を放す。遅くても、早くてもダメだ。その瞬間を逃せば、この技は成り立たない。
空抜き。
突きの手ごたえが、突然、無くなったのだ。男の重心が前に流れる。男の突きこんだ右腕も、引き戻されることなく、あらぬ方向へと流れていく。
男の無防備な首筋。少年は、ゴクリと唾を飲む。そして横薙ぎを放った。
少年の斬撃は、空を切った。
「……っ!」
少年が目を見開く。男は、重心が前に崩れた姿勢のままで、静止していた。右足は宙に浮き、左足は、つま先しか地面についていない。そんな姿勢で、一瞬で完全に、突きの慣性を殺し切ったのだ。
影切り。
少年と同じ技だ。少年は空振った勢いを止められない。振り抜いた左腕が、流れていく。
(止まれ! 止まれ! 止まれ!)
渾身の力で、右腕に制動をかける。しかし、どう足掻いても、男の突きの方が早かった。少年はもはや、目しか動かせなかった。ただ、眼球を動かし、迫りくる切っ先を追った。
(もう、無理か)
少年は、目を閉じた。そして、目を開けた。
鋼の切っ先は、少年の喉を食い破る寸前で、止まっていた。
「……何なんだよ。お前さ」
少年が言った。切っ先が、僅かに喉に触れている。男の振る舞いには、怒りすらも覚える。
「守り手だよ。俺は」
俺は、を特に強調しながら、男は言った。
「あの、ヴィヴィアンってやつの?」
「そうだ」
「それが、何の用なわけ?」
「お前が、ぬるいから」
「は?」
「刃に、まるで鋭さが感じられない。さっきの小手先の技はなんだ? 本当に俺を殺す気、有ったの?」
「有ったよ」
むしろ、殺す気、満々だった。殺す気しかなかった。
「それじゃダメなんだよ……」
男は、がっかりしたようで言った。そして、少年の頬を、短剣の原でペシペシと叩いた。
「短剣と一緒じゃんか、俺たちはさ。守り手っていうのはそういう存在なわけ。分かる? 食う、寝る、殺す。そんな調子で頼むよ」
それだけ言うと、男は懐に短剣を収めた。
「それじゃ、行くわ」
男は、踵を返した。そのまま去ろうとする。どうやら、少年を殺すつもりは無いらしい。
「何がしたかったの?」
少年は迷ったが、男の背中に向かって声をかけた。
「……腹が、立ったからさ」
男が言う。
「ボクが、何かした?」
「府抜けていた」
「意味が、分からない」
「……分からないのか?」
男が、頭を抱える。中途半端な長さの髪を、両手でぐちゃぐちゃに掻きむしる。
「見ていたよ。お前の、旅の様子」
「それが、どうして?」
「へらへら笑っていたな? そこの歌姫を見ながら、鼻の下を伸ばしていたな?」
男の言った事は事実だった。
「……もしかして、嫉妬? うちの歌姫の方が、おたくの姫様より可愛かったから」
少年の視界が、一瞬、白く染まった。男が、少年の鼻先に、拳を放ったのだ。まるで見えなかった。気づいたら鼻血が出ていた。
「今のも、避けれないのか? 今のさえも?」
少年は鼻を押さえる。やり返す気にはならなかった。どうせ負ける。
「お前は弱くなった」
「……もともと、こんなもんだよ」
「違う。弱くなったんだ」
「初めて会ったくせに、分かるもんか」
「分かるよ。お前みたいな温いやつが、守り手にはなれない。お前は鈍ったんだ」
男が、少年が弱いのはアガサのせいだと言わんばかりに、彼女を睨む。アガサは怯まず、真っすぐに見つめ返す。
「せっかく名前まで捨てたんだ。余計なものを拾ってる場合じゃないだろう?」
男は芝居がかった調子で続ける。
「俺たちは剣だ。分かるか? 無銘だが、切れ味は抜群だ。全てを切り裂く。何人も防ぎようが無い。そんな剣が錆びていくのを見るのが、やるせないんだよ。腹が立つんだ」
「知るかよ」
男は、今度こそ去っていった。
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