第5話
空気が張り詰めている。夜明け前だ。夜と言っても良い時間かも知れない。まだ秋だが、日が出ていないと、ヴィンランドは、息が白くなるほどに寒い。昼の太陽と、夜の澄み切った冷たさが、ブドウを甘くする。
少年は、ブドウ畑の中を、駆けていた。
この時間、流石に農夫は居なかった。並んだブドウの樹が、縞模様を描いている。その隙間を、少年は駆ける。ひたすらに駆ける。
まだ、収穫の終わって無い区画だ。せり出した木の枝に、肉厚のブドウが釣り下がっている。ブドウの隘路を全力で走り抜けながらも、少年は一切、ブドウに触れなかった。
頭上に月は無い。曇っている。時折雲の切れ目から、星が姿を見せる。散らした緊迫のような星々は綺麗だが、灯りとしては、か細い。しかし、守り手は夜目が利く。この光で、十分だった。
少年は、短剣を抜いた。二本。右手のそれは逆手に、左手のそれは淳手に握る。少年は駆けながら、短剣を振るった。茂ったブドウの葉の中から、虫に食われたものだけを選んで、切り落とす。
ブドウはもちろん、健康な葉も、傷つけない。
少年は、アッサリア騎士団との戦いを、思い浮かべていた。慌てふためく騎士団の合間を、縫うように走りぬけ、首を刎ねて回った。ブドウ畑に、その光景を重ねる。
より速く。より鋭く。少年は剣を振るい続ける。
やがて、足を止めた。地平線に沿って、空が赤く染まっていた。
少年は、しばらくその場所に突っ立っていた。息はすっかり乱れていた。体中から汗が噴き出していた。
身体を動かした後の、爽快感は無かった。
「こんなものなのかな……」
少年はぼやいた。
自分は弱くなったのか。彼自身に、その自覚は無かった。身体は、余すことなく、自由自在に操れた。ただ、あの男には歯が立たなかった。今しがたも、ブドウ畑を全力でかけた。ただ、いくら全力を尽くしても、あの男に勝つ様が想像できない。
不意に、背後に人の気配がした。振り向く。細いブドウの樹の影に、アガサが立っていた。誰も居ないので、フードも被っていない。
「アガサ⁉」
( 怖い 顔 )
「え? ごめん」
少年は思わず、自分の顔を撫でる。顔の筋が強張っていた。
アガサが、すたすたと少年の横に寄ってくる。これでも食えよ。そんな調子で、アガサは少年にブドウを突き出した。
「……うわ。これ、泥棒じゃん」
( 食べない ? )
「……まあ、取っちゃったものは、仕方ないけどさ」
少年は、アガサからブドウを受け取る。房の半ばをちぎって、二つに分けと、片方をアガサに返した。
早速、一粒摘まむ。濃紺の、玉のようなブドウだ。薄い皮に歯を突き立てると、中から甘い汁が泉のように溢れてくる。果実の大きさよりも、たくさんの汁が詰まっているようにさえ感じた。
「甘いね」
アガサが頷く。
少年は、無言でブドウを貪り続けた。その果実は冷たく、火照った身体に心地よい。気が付けば、手元にはブドウの軸だけが残っていた。
ブドウは美味しかった。正直、食べ足りない。辺りを見回してみる。そこかしこの樹に、ずっしりとしたブドウがぶら下がっている。一瞬、手近な房に手を掛けそうになった。
(まさか、やらないですよ?)
少年は心の中で言い訳をしながら、手をひっこめた。
ぶちっ。
「え?」
アガサが、樹からブドウをもぎ取っていた。
「いやいや。現行犯でしょ」
( 君も 同じ )
アガサが言った。つまり彼女は、少年が本気を出せば、事前にアガサの犯行を止められたことを知っているのだ。だから、アガサと同じ。共犯である。
少年は、ブドウの半分を、アガサから受け取った。
( 何 していたの ?)
アガサが尋ねる。
「……うーん、訓練、かな?」
( あの人 強かった ? )
「そうだね。強かったよ」
( 負けたね )
返す言葉が無いので、少年は苦笑した。
( 仕方ないよ )
アガサが作った指の形は、そう告げていた。
「でもさ、負けたら死んじゃうかもしれないんだよ? 昨日だって、死んでたかもしれない」
( それでも 仕方ないよ )
「……ボクは嫌だな。そういうの」
アガサは、慰めのつもりで行ったのかもしれない。しかし、少年にとっては、それでも嫌なのだ。仕方ないなんて言葉で片付けたくなかった。
( 大丈夫 魔法 なら 別の 歌姫も 集める から )
アガサは言う。そしてブドウを一粒、口に放り込んだ。
「それだけじゃ、無くない?」
( 何 ? )
「魔法、だけじゃ無くてさ。色々、あったよね? 景色とかさ、食べ物とか」
言ってから、少年は気がついた。魔法の収集以外にも、旅そのものを目的にしている自分がいた。いつしかそれが普通になっていたが、最初からそうだったわけではないはずだ。
確かに自分は、あの男の言った通りに、弱くなったのかもしれない。
「……分かんないよなあ」
余計な感情というか、そんな曖昧な何が、少年の剣筋を鈍らせたのか。
つまりそれは、生への執着なのだろう、と少年は思う。
アガサが三つ目のブドウを樹からもいでいた。
「あ、また」
( やっぱり 仕方なく ない )
「え、何が?」
( 死ぬ こと だから がんばって )
アガサは言う。そして、ブドウを一房丸ごと少年に放った。
「ありがとう。頑張るよ。…………盗品だけどね。これ」
少年は、ブドウを口に入れた。
「ねえ、アガサ」
( なに ? )
アガサは、手は動かさなかった。だけど、少年は分かった。微妙に、表情が変わるからだ。
「お祭りさ、出てみても、良い?」
( 良いよ )
「即答? 死ぬかもしれないよ?」
( それは ダメ )
「まあさ、僕も死ぬつもりは無いけどさ。そもそも、死にたくない」
( じゃあ お祭り 出るの 止めな )
「ヤダ」
少年の口から声が漏れていた。
( どうして ? )
「あいつに勝ちたい」
( 変だ )
「ボクもそう思うよ」
( 本当に 変だ )
「そうだね」
少年は、樹からブドウをもいだ。やはり、美味い。口の中で汁が溢れる。
一番、無難な選択は、このまま逃げることだ。ヴィヴィアンを敵に回すことが、そもそも愚かだ。
( 私 一人に なるね もしかしたら )
少年は、何も答えることができなかった。そんなことは、少年も知っている。もう、昨日から何度も考えた。
少年は、自分がおかしいんじゃないんか、と不安になる。守り手としておかしいのはもちろん、人間としてもおかしいのかもしれない。死ぬかもしれない、アガサを独りにするかもしれないと分かっていてなお、あの男と戦いたいのだ。
だからアガサに、祭りに出て良いか、と訊いたのだ。止めて欲しかったから。アガサがダメと言えば、少年は諦めることができた。
「本当に良いの?」
( 良い )
「死ぬかもしれない? 本当に?」
( 止めて 欲しい ? )
「うん。実は」
( バカだ )
「……いや、まあ。そうだよね」
( 止めないよ )
「え?」
( 本当に したい 事 なら 誰にも 止められない から )
「これがボクの、本当にしたい事なのかな?」
( 知らないよ )
「だよね」
実際、少年にも良く分からないのだ。だからこそ、闘ってみたいのかもしれない。
「アガサ。本当にごめん」
( 世界で 一番の 琥珀酒 )
「ホラリスが魔法をかけた?」
アガサが頷く。
( それで 許す )
「……任せて、とは言えないかな。がんばるけど」
アガサはくすりと笑った。
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