第7話
祭りの日の、朝が来た。
少年は、寝台の上で、身体をほぐしていた。筋を伸ばし、関節を回す。つま先から、徐々に上の部分へと向かう。
アガサは、そんな少年の様子を眺めていた。最初は真似していたけれど、すぐに飽きて止めた。
その日の朝食は、軽めに済ませた。競走は正午すぎだ。それまでは、手持無沙汰だ。神経が高ぶっている。少年は露店を見て回る気分では無かった。アガサも気を遣って、祭りを見に行こう、とは言いださなかった。
少年は寝台の端で、ただ膝を抱えていた。呼吸の一つ、一つを、意識していた。鼻孔から、体温より低い空気が流れ込んでいる。肺が押し広げられる。空気を貯めれるだけ、貯めて、口から一気に吐き出した。
ふと、服の裾が引っ張られた。
「もう、そろそろだね」
アガサが頷いた。
東の広場には、競走の参加者がひしめき合っていた。
「アガサ。表彰台の傍で待っていてよ。場所は分かるかな? 西の広場に有るんだけど」
アガサは頷く。
まさか、ここまで来てアガサを襲うなんて真似は、ヴィヴィアンはしないだろう。少年は、アガサが視界から消えるまで見送った。
間もなく、競走の前口上が始まった。参加者は拳を振り上げて唸り声を上げる。少年はさりげなく、短剣を地面に落としてみた。
少年の近くで、身構えた者が二人いた。彼らはヴィヴィアンの守り手だろう。この大騒ぎする中、金属が石畳に跳ねる音を聴き分けたのた。普通の耳じゃない。しかし、身構えてしまうあたり、守り手としては大したことがない。
それでも大勢いたら嫌だなあ、と少年は思う。ヴィヴィアンの一行は、天幕で旅しているくらいだ。守り手なんて佩いて捨てるほどいるのだ。
気が付けば、一際、大きな歓声が上がり、前口上が終わっていた。
「嘘? 心の準備、できてないよ⁉」
群衆が動き出す。巻き込まれるようにして、少年も動き出した。
近くに居た二人の守り手が、地を這うように、少年に近づく。しかし、予め分かっていれば何という事は無い。
左から迫って来た守り手が、少年に足払いを仕掛ける。走っていた少年は、勢いそのままに、前につんのめる。その先に、もう一人の守り手の、左ひざが迫っていた。
(ちゃんと当たれば、きっちり殺せたけどね)
少年は、もちろん読んでいた。開始前に存在を気取られなければ、あるいは、二人の守り手に勝ち目が有ったかもしれない。顔と、膝の前に、両手を滑り込ませる。そして、蹴り足をがっちりと掴む。
蹴りの勢いを借りて、宙がえり。群衆の頭上へと躍り出る。
「うっ……」
悪寒が走る。宙空で身体を捻る少年に、四方八方から殺気が飛んできた。しかし、おかげで緊張などは吹き飛んだ。というより、気を抜いたら殺されるので、それどころじゃない。
着地。ついでに、今しがた少年に強烈な殺気を放っていた守り手を、踏みつぶしておく。
群衆は、現在進行形で起こっている乱闘騒ぎには、気が付いていない。少年にとっては好都合だった。人影に紛れ込めば、一度に多数を相手にしないでも済む。
首筋に短剣が突き出されていた。上半身を捻って躱す。鋼の刃が、皮膚を撫でる。赤い筋が引かれる。反撃しようとした時には、襲撃者の影も形も無かった。
(あー、今のはヤバいかな?)
まるで殺気を感じさせなかったのだ。その他の守り手より、数段、上だ。しかし、あの男ではない。
入れ替わりに、守り手たちが襲い掛かってくる。巧みに群衆の死角を利用し、呼吸を合わせて、少年を殺しかかる。
敵は多勢。しかも皆、少年と同じ守り手だ。そして何より、後ろに守るべきアガサが居ない。しかし不思議だった。負ける気がしない。
群衆の影から、短剣が突き出てきた。難なく躱す。お返しに、喉元に拳を叩き込んでおく。死角からの一撃は、躱しにくい。しかし、こうも死角ばかりを狙うと、簡単に読める。
「それで巧いつもりか?」
前方、守り手が走っている。少年は、手刀を後頭部に叩き込んで、気絶させる。
少年が、速度を上げた。縫うように、群衆の間を、駆け抜ける。後方から、くぐもった呻きが聞こえた。ヴィヴィアンの守り手が同士討ちした。少年の速さについて来られなかったのだ。
一人だけ、ついてくる敵が居た。つい先ほど、少年の首筋に傷を付けた守り手だ。少年は、彼と並走する。もう、小細工は無しだった。何度か拳を交わす。打って、打って、打ちまくって、打ち倒す。
今まで、独りでアガサを守り続けてきたのだ。殺されそうになった回数は絶対、そこらの守り手よりも多い。並の守り手なんかには負けない。
競争は、全過程の半分は終わろうとしていた。この辺りから、住人たちがブドウ酒を撒いたり、障害物を置いたりと、妨害が始まる。
気づけば、少年は大半の守り手を、倒していた。少年は、群衆の先頭に躍り出た。このまま、終着点まで駆け抜けてしまいたい。
「よう。調子良さそうで、安心したよ」
あの男が、少年と並走していた。
「居たんだ」
「そりゃな」
男は、くくく、とくぐもった笑い声をあげる。
「皆と一緒に来れば、ボクの事、やっつけられたのにね」
「そうだな。でも、どうせ戦うなら、サシの方が楽しそうだったからさ」
「ボクは弱くなんかないよ。アガサに現を抜かしてるけど、それでも弱くなんかない」
「どうだろうな」
男が低く笑う。
二人の周りには、もう誰も居なかった。ここなら、気兼ねは要らない。
少年は走りながら、懐に隠しておいた短剣を、まとめて二本、投じる。男は躱す、が短剣が空中で直角に軌道を変える。短剣の柄に糸が結び付けられていた。
男はそれも躱す。しかし、本命はその先にある、短剣に括りつけられ糸は、ただの糸ではない。鋼糸だ。それが、男の足に絡みつこうとする。男はそれすらも、跳んで跳んで躱す。
(今のは、割と準備したのにな……)
しかし、手はまだ有る。少年が、短剣を抜く。
「まあ、待て。急ぐなよ。そろそろ、うちの姫様が苛立ち始める頃だから……」
男が不穏な事を呟いた。
少年の背筋に寒気が走った。嫌な予感だとか、そういう類ではない、ただ純粋に寒い。寒気が全身に広がっていく。
歯が震えて、ガチガチと音を立てる。手先も震えて、おぼつかない。見れば、少年の他、競走に参加していた住民も、寒さで震えている。皆、歩くどころか、立ってることもできないらしい。地べたに転がっている。
少年の手から、短剣がポロリと、こぼれた。
(おいおい。嘘だろ……)
短剣を持っていることすらできないのだ。両手で身体を抱く。寒い。寒すぎる。身体の芯に、極細の針を突き立てられたような感覚だ。しかし、その感覚すらもすぐに消えた。そして同時に身体が動かなくなった。
ただ、ぼんやりと周りの様子を眺めていた。目が覚めてすぐの時のようだ。目は物を見ているのだが、その光景が意味を成さないのだ。
視界の中に一つだけ、動くものが有った。
「意外と、あっけなかったな。まあ、魔法には敵わんか。残念だよ」
男が呟く。眼の前の少年は、もはや寒さに震え、自分の身体を抱くばかりだった。
せめて苦しまぬように、一瞬で済ませてしまおう。男は少年の喉元めがけて、短剣を振るった。そして、躱された。
「……起こして貰っちゃって、悪いね」
少年が言う。歯が震えていて、何とも言いにくそうだった。その様子からして、寒さが消えたわけでは無いようだった。迫る刃に、自然と身体が動いたのだ。
「気づいたか?」
「ああ。これは魔法だ」
微かに、歌が聞こえた。氷にピシピシとひびが入るような、そんな音を連想させる歌だ。歌声の主は、ヴィヴィアンだった。
「そして、この魔法は、ただの幻覚だ」
競争の際、領主と約束したことが有る。参加している他の民や、建物に少しでも危害を加えたら、ホラリスの琥珀酒を地面に注ぐ、というものだ。なにより、そして吐く息が白くないのだ。
この魔法は、実際に気温を下げるわけでは無いのだ。あくまで、寒いと思わせるだけだ。そうと分かったら、後は気合いだ。
「うおおおおおおおおおお!」
少年は叫ぶ。
動け。動け。
この寒さはまやかしなんだ、と少年は自分い言い聞かせる。しかし、ヴィヴィアンの美しい歌声が、脳裏にこびり付く。寒さが身体を支配しようとする。
男が動いた。
一呼吸のうちに、四回の切り払い。一撃一撃の間に、継ぎ目がまるで無い。少年は、咄嗟に短剣を抜いた、が震える身体では、満足に攻撃を防げない。四連撃、全てが少年を捉えた。
辛うじて、致命傷にならないようにだけは、立ち回った。傷は浅い。問題なく動ける。しかし、このまま斬り合いを続ければ、やがて痛恨の一撃を貰う。ならば、今しかないだろう。少年は、わき腹の傷口に、自ら短剣を突き立てた。
焼けるような痛みが、身体に広がっている。寒くて動けないならば、別の感覚で上書きしてやれば良い。例えば、燃えるような痛みで。
少年はバネ仕掛けのように飛び出した。一直線に男へと突っ込む。
「なっ!」
男が目を見開く。技と力を総動員して、少年は繰り出しうる、最速の突きを放つ。
男は躱した。しかし不完全だ。躱した時の勢いが余って、男の身体が右へと流れていく。
「ここっ!」
少年が、右薙ぎを放つ。瞬間、男の身体が静止した。慣性などまるで無視した、時間が止まったかのような動きだった。
影斬り。
今度は少年が勢い余って、右へ流れていく。男が突き込んでくる。
しかし、少年は、その勢いを殺さなかった。それどころか、さらに勢いを増す。そのまま一回転。再び、右薙ぎを放つ。
男の短剣の腹を、少年の斬撃が捉えた。そのまま跳ね上げる。男の短剣が宙を舞った。
少年が舌打ちする。余りにも手ごたえが無さ過ぎた。
空抜き。
短剣が交差する直前、男はわざと力を緩め、短剣を手放したのだ。少年の身体が、流れる。男が短剣を抜いた。そして、後ろに跳んで距離を取った。
少年のが、地面に転がった短剣を、男に向けて蹴り上げたのだ。先ほど寒さに震えて取り落とした、短剣である。
男が、低い声で笑う。距離は保ったままだ。
「見違えたじゃないか」
「覚悟をしてきた」
「ほう……。守り手として生きる覚悟か?」
「違う。絶対に死なないという覚悟だ」
男が明らかに落胆した表情を見せる。
「そんなに、あの歌姫が好きか」
「ああ」
「だったら何故、俺と戦う事を選んだ?」
「余計なものと言った」
「は?」
「アガサの事を、余計なものと言ったからだ!」
その時、ヴィヴィアンの歌声が止んだ。寒さと、痛み以外の感覚が、戻ってくる。
「良いぜ。お前が死んだあと、あの歌姫の守り手、やってやるよ」
「恩にきるよ」
「気にするな。お前をブッ殺すのでチャラだ」
男が、背中に括りつけてあった、剣を抜く。少年の短剣、三本分の長さはあろうかという、片手剣だ。得物を切り替えたという事は、ついに本領を発揮するという事か。少年は身構える。
その時、路地から、矢が飛び出して来た。どれ程の強弓から放たれたのか。矢は山なりでなく、ほとんど直線的な軌跡を描いて少年に迫る。
少年はその矢を見もしなかった。短剣で一払い。矢の軌道を逸らした。弾かれた矢は、なお猛烈な勢いを持って、男へと迫った。
入念な街の下見が、ここで功を奏した。奇襲が入るとしたらどこか、全て頭に入っている。
男が、目を見開く。流石に今の芸当は、守り手でも中々できない。
矢に続いて、少年も男の懐に飛び込む。男は、まず矢を弾き、それから少年に対処する。だからこそ、反応が僅かに遅れた。少年の突き込み、と見せかけ、手首の力だけで、短剣を投げる。
男の剣がそれを弾いた。もし、矢が無ければ、そんな短剣など無視して、少年を切り裂いていたかもしれない。
(もう遅い!)
少年は、限界まで手を伸ばす。その手は、男の剣の下を潜り抜けて、彼の胸板に届く。胸板の中心から、僅かに左。つまり心臓の真上。そこに少年は手の平を当てた。
男は、すぐさま長剣を捨てた。短剣で無防備な少年の腕を抉る。それでも、少年は退かない。男の胸に、手の平を添え続ける。
(あと、一瞬)
男が跳び退る。同じだけ、少年が前に踏み込む。手の平は外さない。
「今っ!」
男の心臓が最大まで膨らみ、血液を巡らせようと縮み始める、その瞬間だった。零に限りなく近い、その一瞬だ。少年は、とん、と男の胸を衝いた。力は要らない。軽く叩けば良い。それだけで、死の扉をこじ開ける。
止心衝(ししんしょう)
心臓は、縮もうとしたまさにその瞬間に圧迫されることで、それ以上、縮めなくなる。そして、脈動が狂い、身体に血液が巡らなくなるのだ。
男が、身体を「く」の字に折り曲げ、腹を抱える。
そして笑い出した。
「有ったねえ。こんな技も」
苦しみに悶えて、息が詰まるはずだった。しかし、男は平気で喋ってさえいる。
「……なんで?」
その時、第二、第三の矢が、少年へと殺到した。とにかく、逃げるしかない。少年は背中を丸めて、手近な路地へと飛び込んだ。
競走の経路から外れてしまったが、この際どうでも良い。少年の右手には、まだ短剣が突き刺さっている。血が滴り落ちている。これでもう、右手は使えない。しかし、男の方は無傷だった。
少年は逃げ続ける。とにかく男から少しでも遠くに離れようと走り続ける。
止心衝は数ある守り手の技の中でも、廃れてしまった技だ。決まれば、一撃で敵を葬れる。しかし、相手の胸に手を着けた無防備な姿勢では、反撃を受けやすい。ならば、首を刎ねるなり、折るなりした方が早い。
だからこそ、男の不意を突けると思った。確かに、男の胸に手の平を当て、技をかけるまでは、上手くいった。だが死んでない。
矢が降って来た。少年は、転がるようにして矢を躱す。そして、躱した先に第二の矢が降って来た。それも傷を負った右手の方からだ。弾けないので躱す。しかし掠った。周囲から、不穏な気配がする。ようやく、その他の守り手が追いついてきたのか。今の状態では、男以外の守り手でも、相手にしたくない。
矢は断続的に降り続ける。
(逃げるか)
はっきり言って、この競争に出たのは少年の意地だ。ホラリスの琥珀酒を手に入れ損ねても、何が有るわけでない。アガサに嫌味を言われるくらいだ。それなら、それで良い。話の種になる。
少年は進路を変えた。万が一、逃げるときの経路も確認しておいたのだ。その辺りは抜かりない。
ふと、少年の足が止まった。少年は今、西へ曲がった。しかし、違う。この、目の前に有る路地は、こんな所にはない。
矢が降って来た。立ち止まって、悩む暇もない。とにかく少年は走った。
東へと曲がる。眼の前に、上り坂が現れる。だが、この坂も、こんな場所には無いのだ。少年は、矢に追い立てられるようにして、走り続ける。
「どこだよ、ここ⁉」
そして、自分がどこに居るのか分からなくなった。少年は思わず毒づく。通りも、建物も、少年の頭の中の地図と、まるで違うのだ。そして何より、少年を追っていたはずの男が、少年の前方から歩いてきたのだ。
「すまんな。どうも、うちの姫様、お前さんの事を、殺したくて仕方ないみたいだ」
「……これも、魔法か」
「そうさな」
少年も、随分前から気が付いていたのだ。何故なら、憎たらしい程に美しい歌声が、街を埋め尽くしていたのだから。
最早、逃げる術は無かった。少年が、左手に短剣を構える。しかし、数合、撃ちあっただけで、決着がついた。
少年が地面に転がされる。男が、少年を踏みつける。腰の少し上あたり、ちょうど重心を踏み抜かれているので、四肢で踏ん張っても起き上がることが出来ない。
「止心衝か。狙いは悪くなかった」
少年はもがき続ける。石畳で皮膚が擦り切れても、気にも留めない。男が、少年を踏みつけたままで、片膝を着いた。そして、そのままの状態で喋りはじめる。少年がもがき続けても、びくともしない。
「俺さ、心拍を自由に変えられるんだ」
止心衝は心臓が縮み始める瞬間を捉えて初めて、成立する技だ。
「……それじゃあ」
「そうだよ。あの技は、初めから俺には利かなかったんだ」
男が、少年の背中に、右の手の平を添えた。中心からやや左にずれた場所。つまり、心臓の真上だ。
「や、止めろ!」
男が何をしようとしているか、少年はすぐに分かった。先ほど彼自身が男にかけた技だ。
「長年、訓練を積んだ弓使いも、心拍を自在に変えられるんだってな。お前さんも、試してみたらどうだ?」
少年が全力で身体を捻る。しかし、男はそれを読んでいた。右手に傷を負った少年は、左に身体を捻るしか無かったのだ。男が、そんな少年を見下ろし名が笑った。
背中に添えられた手が、氷のように冷たい。止心衝はかけられたら死ぬ。少なくとも、少年は。
心臓が脈打つ。今、完全に縮み切った。そして心臓が、膨らみ始める。
(止まれ! 止まれ! 止まれ!)
少年が歯を食いしばる。しかし、幾ら力んだ所で、心臓は膨らみ続ける。やがて心臓は最大まで膨らみ、膨張が止まった。
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