第8話
心臓が脈打つ。今、完全に縮み切った。そして心臓が、膨らみ始める。
(止まれ! 止まれ! 止まれ!)
少年が歯を食いしばる。しかし、幾ら力んだ所で、心臓は膨らみ続ける。やがて心臓は最大まで膨らみ、膨張が止まった。
「止めなさい!」
男が少年の背中から、右手を離した。
「…………え? 何が?」
気づけば歌声は止んでいた。
「……酷い顔ね」
少年を見下ろしていたのは、ヴィヴィアンだった。
「血と汗にまみれて、本当に酷い顔だわ。でも、嫌いじゃないかしら」
男が少年から足をどけた。少年が身体を起こす。
「貴方、歳はいくつ?」
「……知らない」
「そうだったわ。貴方、守り手でしたものね。でも……私よりも年下、かしらね」
ヴィヴィアンが、少年の前にしゃがみ込んだ。彼女の顔が少年の眼の前に有った。アガサと同じ、象牙色の髪。睫毛もやはり象牙色だ。肌の白さも相まって、本当に象牙から削り出したようだった。
「可哀そうに。こんなに、ひどい傷」
「……あんな魔法を使っておいて。あんた達の、せいじゃないか……
「それは違うわ」
ヴィヴィアンが、すう、と息を吸いこんだ。路地裏のよどんだ空気を、澄んだ歌に変えて吐き出す。ほんの四小節ほどの歌だ。傷口の乾きかけの血が、ジュクジュクと泡立ち、赤い煙が昇る。そして、煙が風に散らされたときには、傷は塞がっていた。
少年が傷口を撫ぜる。そこには確かに皮膚が有った。継ぎ目ひとつない。傷など、最初から無かったかのようだ。しかし、敗れた服が、確かに少年が傷ついた事を物語っている。
「悪いのは私じゃないわ。歌姫のくせに一つも魔法を歌えない、あのポンコツが悪いのよ」
「そ」
れは違う、と言おうとして、少年は一言も発せなかった。口を塞がれたのだ。ヴィヴィアンの唇で。
少年は一瞬、何をされたか分からなかった。慌てて、跳び退る。
「な、何だ⁉ 魔法⁉」
「違うわ。ただのキスよ」
ヴィヴィアンは唇に指を当てながら、いたずらがバレた少女のように笑う。確かに、痛みも苦しみも無い。ただ、柔らかい唇の感触だけが残っている。本当にただのキスだったのか。戸惑う少年に、ヴィヴィアンはこんな事を告げる。
「貴方、私の守り手になりなさいよ」
「お前、何言ってるんだよ、っていうか何をした⁉」
「慌てているの? 可愛い」
ヴィヴィアンがはにかむ。
「貴方は強いわ。そんな貴方が血と汗にまみれて、必死に足掻く姿、大好きよ。貴方が足掻くのが、私のためだったら良いと思うの」
「……それは、残念だったね」
「貴方が傷つくのは、貴方の歌姫が魔法を使えないから。でも私なら、貴方の事を、魔法で助けてあげられる。そんな酷い怪我はさせないわ。美味しいご飯も、二人で食べましょう。馬車が有るからもう歩く必要もないわ。私の隣に座っていれば良いの。寂しい夜は一緒に寝てあげる」
少年は、何も言い返さなかった。というより、できなかった。ヴィヴィアンの言う通りなのだ。ヴィヴィアンの瞳に映り込む少年の顔は、酷く戸惑っていた。
「ねえ、知ってる?」
「何を?」
「世界って、広いのよ。綺麗な景色も、美味しい食べ物も、不思議な生き物も、限が無いの。でもね、それを全て味わい尽くすのには、お荷物を背負ったままでは無理なの。邪魔なものは捨てて」
「アガサは魔法が使えないから?」
「そうよ」
「アガサはお荷物か?」
「そうよ」
「……あは、あははははは……あっはは!」
少年は一心不乱に笑いだした。
「どうしたの? そんなに嬉しかった?」
「黙れ痴女!」
「なっ――な、ち、何ですって⁉」
興奮したヴィヴィアンの頬に、さっと朱が差す。怒りで、いまいち上手く呂律が回っていないが、大層、怒っている事は少年にも分かった。
少年は駆けだした。万全ではないが、幾らかマシになった。ヴィヴィアンの魔法のおかげだった。
「どうします?」
去りゆく少年の背中を見ながら、男が言った。
「追って」
「殺して良いんでしたっけ?」
「バカなの? 今のやり取り聞いてなかった?」
「捉えて来ます」
「今度はもっと痛めつけて良いわ。もう一歩も動けなくなるくらい。行って」
「はい」
男が、少年を追って走り出した。
「他にも居るんでしょ? 出て来なさいよ」
アガサの一言に、四人の守り手が、飛び出してくる。一同、跪く。中には、怪我をしている守り手もいた。
「あのアガサとかいう守り手を、私の前に引きずり出しなさい」
一同、頷く。
「殺してはダメよ。あの守り手くんの眼の前で、首を刎ねるわ」
「ホラリスの琥珀酒は、どうしましょうか?」
「そんなのどうだって……いえ。やっぱり貴方、琥珀酒を取りに行きなさい」
ヴィヴィアンが一人の守り手を指さした。
「あの子が私の守り手になったら、お祝いに、ホラリスの琥珀酒で乾杯しましょうか」
ヴィヴィアンが笑った。
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