声なき歌姫と琥珀色のうたかた

第1話

「日の出だ」

 アガサが頷く。

 ルグルー大回廊は、この時間でも既に、人で賑わっていた。谷底の大通りを、多くの商人、旅人が行き交っている。

「昼前には、回廊を出たいね」

( その前に 朝ごはん )

「もちろん」

 二人は、通りの脇の露店で、ツノヒツジの包み焼を買った。二人はそれを、露店の脇に座って、頬張る。

 ザクザクと心地よい噛みごたえの生地に、分厚い肉が包まれている。噛み切ると断面から、肉汁が滴る。アガサは、包み焼を高く持ち上げて、その下から噛り付いている。肉汁を一滴残らず、口に収めようとしているのだ。

「普通に食べなよ?」

 返事はない。しかし、包み焼は実際、美味しかった。少年にも、通りの喧騒が遠くの事に思えた。ツノヒツジの包み焼を齧るので忙しい。

 今日は、少し奮発したのだ。今日はいつもより、多く歩くことになりそうだったからだ。なるべく早く、できれば昼までにはルグルー大回廊を出て、日没までにはその先の宿場街に着きたい。

 アガサが食べ終わったのを見計らって、少年も最後の一欠片を口に放り込む。

「行こうか」

( 食後に 甘味 )

「急ごうよ。日が昇ると、暑くなる」

( ヘンタイ )

「はいはい」

 今回ばかりは、アガサのわがままを聴くわけには行かない。このところ、大回廊は物騒なのだ。

 というのも、ギョーム以下、百名近くのアッサリア騎士団が死んだからである。彼らは、回廊を見回り、盗賊の取り締まりなども行っていたのだ。騎士団はこの事実を伏せようとしたが、百人も人が死んだのだ。無理な話である。周りの人間が気づく。

 騎士団を殺した諜報人である少年としては、長居はしたくなった。盗賊も面倒だが、騎士団に報復されるかもしれない。指導者を失った集団は、何をしでかすか分からない。

 気づくと、少年の歩む速度が、早まっていた。アガサが、小走りで寄って来て、少年の裾を引く。

「あ、ごめん」

 少年は、自分の失敗に気づく。

( みんな 焦ってる 君も )

「……そうだね。気が付かなかった」

 周囲を見渡せば、商人も、旅人も、焦っていた。確かに、普段から商人たちは時間を大切にするが、今日は、いつにも増して余裕がない。皆、早く、ルグルー大回廊を出たいのだ。

 そんな彼らが作りだす流れに、少年も呑まれていた。

「ごめん。アガサ。だけど、最近、この辺も物騒だったから……」

( それは 知ってる だけど 慌てるのは 良くない )

「分かった」

 歩む速度は、できるだけ緩めない。しかし、周りを見る余裕はできた。少年は、自分たちと行商達の、時間の流れ方が違うような気がしてきた。

( これは これで 面白い かも )

「そうだね」

 アガサの足取りは軽い。人の流れの中を、歩くように進む。

 通り、昼前にはシシルの街に着いた。ルグルー大回廊の始まりの街でもあり、終着点でもある。

 待ちは騒々しかった。溢れる、人と物と活気が渦を巻いている。そして、少しの不安がその中に混じっていた。

 シシルから大回廊を出ると、しばらくは、ただの真っ直ぐな道が、砂漠の中を伸びている。ルグルー大回廊のように、谷底に有るわけでは無い。ならず者に襲われるとしたら、この辺りだろうと、少年は踏んでいた。

 少年は、なるべく大きな行商隊の後ろにくっ付いた。こういう隊商は護衛もしっかりしているので、盗賊も手を出しにくい。

 しかし、道中、盗賊に出くわすことは無かった。夕焼けの中に、宿場街の黒い輪郭が浮かんでいる。

「無事に着けそうで、良かった」

( 疲れた )

「ここから先は、段々、歩きやすくなるよ」

 アガサが頷く。

 少年は、最初に見つけた、空きのある宿に部屋を取った。アガサは歩き疲れていたので、晩御飯を食べると、すぐに寝台で横になった。すぐに寝息を立てる。少年はその音を確認すると、一人、夜の街へと出かけた。

 少年は、野外酒場の前を通ってみた。吊られた灯りの下、商人と思わしき男が、杯を交わしていた。小声で、何やら囁きあっている。

 アッサリアに比べると、やはり静かだった。しかし、少年は、このくらいの静かさが好きだった。

 少年は酒場を通り過ぎて、すたすた歩いていく。宿場街の外へと向かう方向だ。歩みは早いが、足音は一切、立てていない。気配も殺す。時折すれ違う人たちも、少年とすれ違った事には気がつかない。

 少年は、ほとんど宿場街の外れまで来た。

 見れば、月の下、街の外の荒れ地に、大型の天幕が、幾つも並んでいる。

 少年は、手近な建物の屋根に登る。天幕群の間を蠢めく人々が見えた。少年は、眼を細める。天幕の側で、煮炊きをしたり、酒を飲んでいたりする、人々を見る。皆、鍛えられた身体つきだ。どうも、軍隊らしい。

「……やっぱりね」

 少年は、何となく予想していたのだ。この宿場街は、ルグルー大回廊に一番近い町だ。その割に、人々は落ち着いていた。アッサリア騎士が大勢、死んだことも、どこ吹く風である。

 やはり、ここで軍隊が駐留しているおかげだろう。これでは、ならず者も手は出せない。

 少年は一人、屋根の上に立つ。砂っぽい風の中、天幕たちを見下ろしていた。

 規律のとれた軍隊のようだ。しかし、その目的は何なのか。ただでさえ、アッサリアは不安定なのだ。争いごとが起きそうなら、急いで遠くへ行ってしまいたい。最悪、アガサをおんぶすることになるかもしれない。

「……それはそれで、良いんだけどね」

 少年が一人でにやけていた、その時だった。少年が、身を伏せる。屋根の斜面に張り付くような格好だ。直後、彼の頭が有った場所を、矢がすっ飛んでいった。

 少年のこめかみを、冷たい汗が垂れる。少年は驚いた。矢が頭上を通り過ぎたことより、何者か自分に気づいたことが驚きだった。気配は殺していたはずだ。

 少年はヤモリのように這い、屋根から飛び降りる。そして、さらに驚愕する。少年の飛び降りた瞬間、次の矢が飛んできたのだ。少年は、身体に括った短剣を抜く。一閃、矢を弾く。甲高い、金属のぶつかる音。矢尻と刃が噛み合って、火花を散らす。一瞬、闇に光って消える。

 身体が宙に浮いた最も無防備な瞬間に、矢が飛んできたのだ。明らかに狙って射かけている。相当な手練れだ。

( 逃げるしか、ないよね )

 少年は、全力で疾走する。背後に、空気の捻じれを感じた。振り返らずに、身を屈める。矢が、頭の天辺の髪を掠めた。

 しかし、その矢で最後だった。全力で逃げに徹する守り手を捉えることなど、まず不可能だ。少年は、急いで宿屋に戻る。そして、すーすーという穏やかな寝息を聴いて、思わずその場にヘたれ込んだ。膝が床に着く。念のため仕掛けた罠も、動いた形跡は無い。

「良かった」

 アガサは、少年が駆け込んできた事にも気づかず、眠りこけている。

「……取り敢えず、今日は寝れないかな」

 見張りをするのだ。少年は、下働きの男に銅貨を渡し、水差し一杯のお茶を貰った。夜は長い。

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