第2話
アッサリアの街の、東側の入り口に、その塔は立っていた。アッサリア騎士団東駐屯所である。砂漠の夕焼けは赤い。それが塔の先端を染める。
「よろしければ、当駐屯所を、宿にお使いください」
街角で出会った騎士は、そう申し出た。タダらしいので、少年は厚意に甘えることにした。
アガサが塔の最上階へ通されると、若い騎士たちが飛び込んで来た。
「ギョーム様! 報告がございます」
「それは火急の用件か?」
「……あ、いえ」
「下がっていろ」
「は!」
若い騎士は、去り際、少年たちを見て、怪訝そうな顔をした。この少年たちが、そこまで重要な人間なのか。そう言いたげだった。
少年とアガサ、そして大男が部屋に残される。
「お待ちしておりました。歌姫様。守り手殿。遠路はるばる、お疲れ様です」
アガサが頷く。
「慌ただしくて、申し訳ございません。改めて、ご挨拶させて頂きます。私、このアッサリア騎士団を預かります、ギョーム=アディブルと申します。以後、お見知りおきを」
「歌姫のアガサと、その守り手の者です」
と、アガサの分も、少年が名乗る。
「アッサリアには、しばらくご滞在なさるのですか?」
「ええ」
「その間は、どうぞ我が駐屯所をお使いください。幸い、将校用の部屋に、空きがございます」
「助かります」
数分後、ふかふかの寝台に飛び込む、アガサの姿が有った。
( 一生 寝台 から 出ない )
体を寝台に沈み込ませたまま、腕だけ上げてアガサが言う。
「分かったよ。それはそれとして、明日は、残りの鍛冶屋と、市場を巡るからよろしくね」
枕が飛んでくる。少年は、それを捕まえながら言う。
「あ、これ、めちゃくちゃ柔らかいな」
備え付けの卓には、瑠璃の水差しと、果物が盛られた籠が置かれていた。景観も良い。砂漠の街が、赤い夕焼けに沈んでいる。市場は、まだまだ活気があった。これから、夕餉時だった。
「タダで泊まるのが申し訳ないよね」
少年が寝台をのぞき込むと、アガサが幸せそうな顔をして、転がっていた。象牙色の髪が乱れて、風に吹かれた後のように、白いシーツに広がっている。
「アガサ。顔くらい、洗ったら?」
( 無理 立てない から )
指の動きが、投げやりだった。少年は最近、指の動きかたで、アガサの機嫌が分かるようになっていた。
「汚いよ」
( 私は 気にしない 君が 気になるなら 君が 洗えば 良い )
「へ? ボク?」
アガサが片足を上げて、下げる。肯定のつもりらしい。アガサがころりと寝返り、仰向けになると、眼は閉じた。洗え、という意志の表示だった。
少年は、恐る恐る、アガサの顔を覗き込んだ。もしも彼女が息を止めれば、彫刻と見分けがつかないだろう。完璧な左右対称。均整の取れた顔立ち。鼻筋はすっと真っ直ぐ伸び、唇は淡い桃色。
( 洗わない? )
少年は、ごくりと唾を呑み込む。
この顔に、ボクの指で触れるのか。ボクの指で。
「無理でしょ……」
彼は言った。それから、慌てて話題を変える。
「あ、あと、アガサ。団長さんと二人でいたじゃん? ああいうの、ダメだよ」
( お菓子 もらった から ? )
「お菓子は別に良いんだけどさ。アガサが喋れない事、バレちゃうでしょ?」
( ごめん )
「怒っては無いけどさ。気を付けないと……」
アガサは歌姫だが、魔法が使えない。何故なら、声が出せないから。つまり、彼女は、普通の少女と変わらない。「歌姫」なんて厄介な肩書がついていない分、そこらの町娘の方がましかもしれない。
気づけば、すーすーと寝息が聞こえる。アガサが眠りに落ちていた。
少年はしばらく、その音に聞き入っていた。胸が、微かに、規則的に上下している。アガサの寝姿は、彫像のように美しい。このまま、王宮の宝物庫に、安置できそうなほどだ(寝相が若干、前衛的すぎるが)。
最も目を引くのは、髪だ。その象牙色の髪は、本当に象牙を引き絞ったように、滑らかで、艶やかだ。少年は思わず、その一房を摘まむ。
はっ、とした。
アガサの髪は、ガラスのような、滑らかな肌触りだった。少年は、ヨクボウに抗うことができなかった。摘んだ髪の毛先を、鼻先に近づける。その時、アガサと目が合った。
( 何 を しているの? )
冷ややかな目。思わず、少年は身震いした。
その夜、アガサの寝台の四隅に、アッサリア騎士が立つことになった。
当然、少年は部屋を追い出された。
くしゃみを一つ。
「砂漠の夜は、冷えるなあ……」
夜の廊下をトボトボ歩きながら、真っ赤な手形の残る頬を撫でる。ヒリヒリと痛んだ。
「守り手殿。何か、温かいお飲み物はいかがでしょう?」
「いえいえ。お気になさらずに」
少年はギョームの執務室に居た。来客用の革張り椅子に座る。一方でギョームは、その背後、部屋の隅で控えていた。給仕のようなその態度。騎士団員が見たら、腰を抜かす事だろう。ただ、ギョームは腰に、真剣を佩いていた。いつでも、少年を斬り殺せる位置だ。
どうして、このような状況に在るのか。それは、アガサのせいだった。彼女が、団長に向けて手紙を認めたのだ。曰く、「この不埒ものを見張れ。命に代えても見張れ。不審な動きをしたら、殺しても構わない」
そういう訳で少年は、団長と一夜を共にすることになったのである。
歌姫からの手紙という事で、ギョームは大いに恐れ、慄いていた。アガサは喋れないので、手紙を託したにすぎない。しかし、手紙という格式ばった様式が、団長にさらなる緊張を与えた。
しかも、内容が、内容である。守り手を殺せとは、如何に。団長は歌姫の命令を断るわけにもいかないので、こうして少年と二人でいる。いざ事が起こればどうすれば良いのか。彼は戦線恐々としていた。
このまま一晩は辛いな、と少年は会話の接ぎ穂を探す。目に留まったのは、壁に掛蹴られた剣だった。抜き身の刀身は、鏡と見紛うほど。一目で分かる。業物だ。
「あの壁の剣は?」
「ああ、あれ。やはり、気になりますか」
「それは、もう。ボクも、武人の端くれですから」
「コテツの作です」
コテツ。大陸随一の鍛冶屋街、アッサリアの中でも、ずば抜けた腕を誇るという。当代最高の鍛冶師として名高い。少年も、武器を扱う者の一人。その名前は、聞いた事が有った。
「ぜひ一度、お会いしてみたい」
「それは、難しいでしょう」
「何故?」
「行方が、分からないのです」
「彼の工房は?」
「もぬけの殻です。我々、騎士団も総出で探しましたが、未だ、発見には至っておりません。元来、極度に人嫌いな方です」
「孤独を求めて旅に出た、と?」
「可能性は、大いにあるかと。余計なしがらみを捨て、槌を振るいたかったのかもしれません。守り手殿も、時折、思うことが有るのでは?」
「ボクは鍛冶師ではないので」
「いえ。武人として。ただ、業の研鑽だけを追い求め、剣を振りたいのではないかと」
それは、つまり、アガサの居ない場所で、剣を取るという事だ。
「……ボクはどうでしょうか。……あなたは?」
「私は、……大いにある」
「騎士団の長なのに?」
「騎士団の長、だからこそ」
くくく、と少年が笑う。そして、言った。
「やっぱり、飲み物をもらっても良いですか? できたら、ギョームさんも一緒に飲みましょうよ」
もう少し、この人と話がしてみたくなったのだ。
「そういうわけには」
「一人で飲んでも、味気無いんですよね」
「そういう事でしたら。よろしければ、コーヒーなどございますが?」
「コーヒー?」
「南方のお茶です。貴人などが、好まれるので、守り手殿もお好きかと」
「……では、それを願いします」
少年自身、貴人のつもりは無いのだが、厚意は受けておく。運ばれてきたお茶は、香ばしい、良い香りがした。しかし、椀をのぞき込んだ少年の表情が、一瞬曇った。椀の中身が、ドス黒い。試しほんの少しだけ、口に含んでみる。
「不味い!」
と叫びそうになった。それでも堪えたのは、空気を悪くしないためだ。苦みを我慢して、飲み下す。喉に苦みが絡みついたような気がする。
貴人の舌がバカなのか、自分がバカなのか。
ギョームが、少年の体面に座って、何でもないように、コーヒーを飲んでいた。あの苦い液体が美味いのだろうか。ギョームのゴツゴツした岩のような顔は、表情が読みにくい。もし少年に気を遣って、不味さを堪えているのであれば、余りにも不毛だ。
「ところで、ギョームさん」
「ギョームとお呼びください」
「いえいえ。ギョームさん。アガサの手紙なんですけど、無視してもらって良いですよ。実はですね、ボクが間違って、アガサの身体を触ってしまったんですよ。それで腹を立てているみたいで」
髪の匂いを嗅いだ、とは言わない。
「大げさなんですよ。姫様とか呼ばれてる人種はワガママというか、……。とにかく、余り気にせずに。適当にあしらってもらって結構ですよ」
「そう申されましても……」
「せっかく、一晩、一緒に過ごすんですから、仲良くしましょうよ」
少年は笑いながら言った。すると、ギョームが、恐る恐る口を開いた。
「……質問をしても良いでしょうか?」
「何なりと」
「アッサリアにいらしたのは、やはり、魔法絡みでしょうか?」
「それはもちろん」
答えてから、少年はコーヒーを啜る。啜りながら、ギョームの表情を盗み見る。彼の顔には緊張の色が浮かんでいた。分かりやすくて良いなあ、と少年は思う。この辺はやはり、兵隊さんらしい。
「まあ、アッサリアは、通り道ですよ」
「ではどこへ?」
「それは答えられません」
「失礼」
「いえ」
少年は嘘をついた。少年とアガサは、この街に魔法を探しに来たのだ。
「ボクからも質問です。この街で、歌姫の事を知っているのは何人ですか? つまり、歌姫が魔法を使えると知っている者は、何人ですか?」
「私を含め、四人です」
「四人……」
歌姫とその守り手は、魔法を求めて世界中を巡る。彼女たちが自由に旅をできるのは、その土地の有力者が後ろ盾となり、便宜を図ってくれるからだ。しかし、その事を知っているのは、ごく一部のものだけだ。王やそれに近い者、そしてギョームのように軍隊の長、などである。一般人は、歌姫を旅の芸人か何かだと思っている。
「四人?」
「ご存知の通り、アッサリアは議会制を採用しておりますゆえ」
「と、言いますと」
「商人、鍛冶師、探鉱者、騎士、それぞれの代表が話し合ってこの街の事を決めるのです。それぞれの長が、歌姫様の事を知っております」
「なるほど……。しかし、代表が複数いると、勝手をしだす連中が出るのでは?」
「それには及びません。例えば、騎士が横暴な振る舞いをすると、鍛冶師たちが武器の供給を止めます。鍛冶師が勝手にふるまった時は、商人や探鉱者が原料の供給を止めます。そして、商人や探鉱者が暴れだした場合には、騎士が、彼等を守ることを止めます」
「お互いに、牽制し合っていると」
「そうです」
ギョームがコーヒーを飲み干す。
「アッサリアは砂漠の街です。何か問題が起こった時、逃げ場は有りません。街の皆は、運命を共にしています。ですから、街の有り方は、話し合って決めるのです。代表も。もちろん投票で選ばれます」
「多くの街を見ましたが、先進的な仕組みですね」
「ありがとうございます。ルグルー大回廊という特殊な環境のおかげでしょう」
その後、しばらく、少年とギョームは、互いの持つ情報を交換した。少年は、周辺の国や街の情勢、ギョームはアッサリアの現状や歴史について語った。
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