声なき歌姫の旅路
夕野草路
声なき歌姫と砂漠の剣
第1話
大砂漠。大陸の東西に広がる、この帯状の砂漠が、人々の障壁となっていたのも、遥か昔の話だ。大砂漠を南北に貫く谷が、発見されたからだ。
谷の底なら、吹き付ける熱砂も関係ない。水の入手も容易だ。人々は谷を削った。幅を広げ、底を均し、街道としたのだ。ルルグー大回廊である。
その大回廊の中間点に、岩と砂の都、アッサリアは在った。
アッサリアの往来の片隅、角の崩れた岩を椅子の代わりにして、アガサは座っていた。少し高台に有るここからは、谷底の道が良く見えた。
谷底の道といっても、馬車が数十台、横並びに進める幅が有る。道の両脇では、商店が軒を連ねていた。その色の多彩さは、ここが砂漠の真中であることを忘れさせる。
ふと、商人風の男が、アガサの前で足を止めた。アガサを見て、すこし戸惑い、それから声をかける。
「失礼。あんた、もしかして、歌姫じゃないか?」
アガサは黙っている。
「髪の色を見れば分かるさ」
目深に被った頭巾の隙間から、象牙色の髪が一房、いつのまにか零れていた。アガサが、慌てて髪を隠す。
「大丈夫。取って食うつもりはないさ。俺なんかより、あんたの方が強いだろう?」
商人が、口を開けて笑う。
「どうだろう? 一曲、歌って聞かせてくれよ。歌姫の歌は、それは素晴らしいものだって言うじゃないか」
アガサは、首を横に振った。
「いいじゃないか。減るものでもないだろう?」
アガサは、首を振る。
「歌姫の歌を、一度でいいから聴いてみたいんだ。なあ、頼むよ。少しでいいんだ」
「……」
「金か?」
「……」
「何だよ。さっきから黙り込んで」
「……」
「じゃあ、一言でいい。一言、こんにちは、ってさ。挨拶だろ?」
それでもアガサは、俯いたままだった。
「俺らみたいな、薄汚れた商人には、声だって聴かせるのも惜しいのか? 金持ちの前だったら、いくらでも口を開くんだろうに」
商人は忌々しそうに言った。そして、アガサが据わる岩を蹴飛ばした。一瞬、アガサの身体が、強張る。
「……」
彼女がそのまま何も言わないでいると、商人は舌打ちを一つ残し、去っていた。アガサは彼の背中を目で追いながら、頭巾を被り直す。やがて、商人は人ごみに紛れ、見えなくなった。髪は、もうはみ出していない。
「アガサ。お待たせー」
今度は、少年がやって来た。両方の手に、パンを待っている。その片方を、アガサに差し出す。
「なんか有ったの?」
アガサは首を横に振る。
「そう。なら良いけど。……早く食べなよ。温かい方が美味しいから」
少年がパンに噛り付く。白くフカフカしたパンを食い破ると、中から甘辛く煮た肉と野菜が溢れ出す。
「これ、美味いよなあ。大回廊の外でも、売ればいいのにね」
この大きなパン、一度に肉も野菜も摂れる。そして、歩きながらでも、馬車の上でも、食べることができた。時間に追われる行商人だらけのこの回廊で、大いに流行っていた。
アガサが、少年の足を蹴る。半分ほどに減ったパンを少年に突き出す。
「お腹いっぱい? もう。しょうがないなあ。ボクが食べるよ」
少年は、パンを受け取ると、もう半分も楽々、胃袋に収めた。満足そうに、指に着いたタレまで舐めている。そんな少年の脚を、アガサが蹴る。
「今度は何さ?」
蹴り、蹴り。気づけ、と言わんばかりに。
「……ん、何? もしかして、飽きたの?」
アガサが頷く。もしかしなくても、飽きていた。
「でも、これ美味しいのに。……分かった。晩ご飯は別のにするから、蹴るのを止めよう」
ルルグー回廊に足を踏み入れたその日、少年はこのパンに出会った。それ以来、少年はこのパンの虜だった。お昼ごはんを買いに行かせれば、迷うことなく、具入りの白パンを買ってくる。
疲れていたけど私も一緒に行けば良かった、とアガサは思う。
アガサは少年の方を向いて、手をチャカチャカと動かす。
( これから どうする ? )
アガサの手の位置、指や肘の曲がり具合、その全てに意味が有った。少年には、それで伝わる。
「まだ行ってない鍛冶屋もあるよね」
( 回る ? )
「うん。回る。……睨まないでよ。ボクだって嫌だよ」
二人は、頭上を見上げる。谷には、幾つも、岩でできた橋が架けられていた。段違い、筋違いに架けられた橋は、まるで蜘蛛の巣のようである。蜘蛛の巣は平面だが、アッサリアの橋は立体的なので、より複雑ですらあった。そして、それらの橋にも、太さに応じて、住居や商店、工房が載っている。
「この辺、もともとは洞窟だったらしいよ」
アガサは無言で先を促す。
「でも、洞窟じゃ不便だから、長い時間かけて、天上を削ったんだ。だけど、わざと少しだけ、削り残した。それが、この橋なんだよ」
( どうして ? )
「土地が足りないから。後は、日よけのためかな。狭い谷底で、工夫してるよ」
( 私 は 疲れる )
「風情が有るじゃん。疲れるなら、おんぶしようか?」
アガサは首を振る。
「なんで?」
( 恥ずかしい )
「へえー」
少年が、にやりと笑う。
「アガサにも恥ずかしいとか有るんだ。へえー。意外だなー。気にしないで良いのに」
アガサの、こういう反応は、少年にとって新鮮だった。旅を始めてから、初めてかも知れない。
「ん? その指の形、なんて意味だっけ」
目潰し。
「ぎょえええええ!」
少年が目を抑えながらのたうち回る。
「……こ、このボクに目つぶしを当てるとは、やるじゃないか。歌姫、止めちゃえば? 暗殺者とかどう? ボク、教えるけど?」
アガサが、少年の膝の裏を蹴る。早く行こう、という意味だ。容赦が無い。
「アガサ。こっち、こっち」
一人で勝手に歩き出したアガサを、少年が正しい方向に導く。
「それにしても、凄い人だね」
( 砂漠の 中じゃ ない みたい )
「ほんと、ほんと」
人ごみもそうだが、その種類も多様だった。肌の黒い者、黄色い者、白い者。商人風に交じって、武器を背負った者や、巡礼者ような者、乞食と、様々である。行き交う人の流れには、実にたくさんの人種が入り乱れている。
少年はふと、こんな事を思う。この人ごみの中で、自分たちはどう見えるのだろうか、と。
アガサは、砂と同じ色の外套を着込んで、頭巾まで被っている。身体の線を隠しても、華奢な事が簡単に分かる。
一方、少年はこの辺の住人たちと変わらない格好をしていた。白っぽい生地で、身体を締め付けない服だ。へそが出ている。一応腰と背中に短剣を括ってあった。
巡礼中のお嬢様と、護衛というのが妥当だろうか。
「あとは、恋人とか?」
少年が呟く。それを聞いたアガサが、彼と距離を取る。
「ごめん、ごめん。そんな警戒した目で見ないでよ」
やがて、アガサたちは、工房が立ち並ぶ橋に辿り着いた。下を見ると、先ほどの大通りが、橋と橋の隙間から見えた。
「さてと。それじゃ、この辺りから始めますかね」
アガサが頷く。頷いて、一歩下がる。アガサにとって、人と接するのは何かと面倒なのだ。
「ごめんくださーい」
少年が工房の前で声を張る。すると、おそらく見習いであろう小僧さんが出て来た。
「あいよ! 何をお求めで?」
「この工房で、刃物は扱っていますかね?」
「金物なら、なんでもございます! どんな刃物で?」
「こんな短剣なんですけど」
少年が、懐から取り出す。小さな、手の平に収まる、短剣だ。
「珍しい。これは、投げるための武器ですねえ」
見習い職人は、そう言って、鞘から短剣を抜く。
刃に、彼が写る。向かい合った二つの顔。どちらが実物で、どちらが像か、それすらも区別がつかない程に、刃は滑らかだ。
「綺麗だ……」
見習いの目線が、刃に釘付けにされた。意識まで、その中に吸い込まれそうな勢いだ。見習いの指先が、そろそろと動く。彼は、刃を撫でようとしていた。自分の意志とは関係ない。剣の魔力がそうさせるのだ。
「おっと、危ない」
少年が、見習い職人の手から、短剣を奪い去る。
見習いが、手の中を見る。そこに短剣は無かった。
「お願いだ! も、もう少し! もう少し、見せてくれよ」
「はいはい。ちょっと待ってねー」
少年は、柄の尻を摘み、見習いの目の高さまで、短剣を持ち上げた。
「綺麗だ……」
「ほい」
ぱっ、と少年が指を離す。短剣は、刃を下に向けたままで落ちて行く。やがて、切っ先が地面に触れた。しかし、そこで短剣は止まらない。地面に、するすると沈んでいくのだ。まるで抵抗など感じさせない。地面が液体に変ったか。
「え? え?」
小僧さんが地面をパシパシ叩くが、手が、沈むことは無い。
短剣は、握りの部分まで地面に埋まると、そこでようやく止まった。それは、まるで地面がバターだと言わんばかりに、突き立っている。しかし、地面は確かに、砂漠の乾いた岩だ。少年が短剣を引き抜く。地面には、ちょうど刃の形の穴が開いていた。短剣の刺さった跡だ。
「こんな短剣、作れますか?」
「む、無理だ! 無理に決まっている! こんなの、有りえない!」
「銀貨五百枚、払います。もちろん、この辺で流通しているやつで」
「どれだけ大金積まれたって、こんなのは造れないよ」
でしょうね、と少年は心の中で呟いた。この短剣には、まず間違いなく、魔法が絡んでいる。そこら辺の鍛冶屋に造れる代物ではないのだ。
見習いの騒ぎ声に、奥から親方も出てきた。彼の反応も、似たようなものだった。アガサと少年は、お礼を言って、立ち去った。
( 飽きた )
「ボクも」
彼らは、もう何度も、このやり取りを繰り返していた。短剣を見せて、驚かれる。その大げさな驚きっぷりに、いい加減、食傷気味だったのだ。
「魔法、見つからないねえ」
( もう 無い? )
「いやいや。有るでしょ」
( 帰っていい? )
「どこにさ? だいたい、歌姫様が居ないと、どうしようも無いじゃん」
( 知ってる 訊いた だけ )
少年とアガサは、似たようなやり取りを、もう何回も繰り返していた。
( 飽きた 飽きた 飽きた )
「もう半分だから」
( まだ 半分⁉ )
アッサリアは、交易の街であると同時に、鍛冶の街なのだ。近隣に、質の良い鉱石や石炭が出る鉱脈が在るった。加えて、周りが砂漠なので、毒水や鉱石屑の処分に困らない。おかげで、大小様々な工房がひしめき合っていた。
その時だ。悲鳴のようなものが聞こえた。市場の喧騒とは、明らかに違う。
( なに ? )
「分からない。……ねえ、アガサ。心なしか、君が嬉しそうに見えるんだけど?」
( そんな こと ない )
嘘だった。このお姫様は、刺激を求めてらっしゃる。
( あっち )
「いや、行かないって。変なことに巻き込まれたら嫌だし」
( 魔法が 関係ある かも )
「いや、まあ……そうかも」
無いとも言い切れないので、少年は困る。
「関係無かったから、引き返すからね?」
アガサが頷いた。騒ぎ声のした方へ、少年は、アガサの手を引く。
「……この辺だな」
( 何も 無い )
「下だね」
見れば、斜め下の橋で、砂糖に群がるアリのように、人が群れていた。高さが有るので、本当にアリのように見える。
「……乱闘みたいだね」
少年は眼を細めながら呟いた。
( 止めて )
「え、あれを?」
アガサが頷く。
「あれは魔法、関係無いでしょ。ただのケンカみたいだし」
( ごめん 正直に 言う )
「うん?」
( 飽きたの 鍛冶屋を 回るのにも 岩と 砂しか ない 風景にも )
「ボクは、君の道化師じゃないんだけどね……」
しかし、アガサの言葉には共感できた。実際、少年も退屈していた。
「でもなあ……」
( 君なら 負け ない 絶対 )
「そりゃ、そうだろうけど……」
アガサは橋の下を覗き込むと、こくこく、と頷いた。
「どうしたの?」
( たぶん 大丈夫 )
「大丈夫って、何が?」
アガサが、チャカチャカと手を動かす。
「その手の形、なんて意味だっけ?」
少年は、アガサの手まで視線を落とすと、首を捻る。
「ごめん。もう一回、やってくれる?」
アガサの指が、すぅっと右の方を指す。
「うん? 何か有った?」
押した。
「え?」
よろよろと、少年が後退る。一歩踏み出すと、そこにはもう、地面なんて無かった。
「……あれ? 浮いてる? 浮いてるの? 嘘でしょう⁉」
アガサは、静かに首を振った。嘘じゃないよ、と。
「騙されたなあ……」
少年の身体は、傾いていく。もう、止まらない。そんな少年を、アガサはじっと見ていた。二人の目が合う。アガサは、「あー、落ちてるなあ」という無感動な表情をしていた。
「流石に酷いよね?」
この横暴な、しかし予想外なアガサの振る舞いを、楽しんでいる自分もいることに、少年は気づく。彼自身も、それが不思議だった。
「でも、流石に、今回は少し怒らないと」
そんな事を呟きながら、少年は落ちて行った。埃っぽい、砂の交じった空気が、身体にぶつかる。網の目のように張り巡らされた橋が、上に流れていく。
身体を捻る。着地。まずは、つま先から。このまま勢いに任せると、足が潰れるので、少年は身体を横に倒す。膝、腰、わき腹、肩、と順番に地面につけながら、真横に転がる。下向きの勢いを、横向きに変えるのだ。
一瞬。
即ち、瞬き一回の時間。そのまた十分の一の、十分の一。その刹那を読み違えると、余裕で死ねる。そんな行為だった。しかし、少年はやり遂げた。後は転がって、転がって、転がって、勢いを殺す。カエルのような格好で、地面に這いつくばる。
今しがた、死に片足を突っ込んだ彼は、ふう、と息を吐く。このくらいで死んでいたら、歌姫の守り手は務まらないのだ。アガサも、それを分かっていてやっている。だからこそ、悪質なのだが。
少年は身を起こす。すると、目の前に、靴の裏が迫っていた。
「うおっ⁉」
慌てて身体を捻る。少年は忘れていた。彼の落下点は、乱闘の真っただ中だということに。怒り狂う群衆が、揉み合い、押し合い、蹴りと拳が乱れ飛ぶ。誰も、人が空から降ってきたことになど、気づかない。ここは工房街。血の気の多い職人の街。こんな光景も珍しくない。
「真ん中に居ることは、滅多に無いけどなあ……」
一人の暴漢が、少年に殴りかかる。どうやら、見かけない少年を、喧嘩相手だと勘違いしたらしい。しかし、そんな拳、彼には止まって見える。羽虫でも払うように、拳の横を掌で叩く。打撃の軌道が逸れ、少年の顔の横を通り過ぎて行った。
「相手が悪かったね」
運も悪かった。
少年が躱した拳は、別の男の、後頭部に当たったのだ。
「てめえ! 後ろからたあ、ふてえ野郎だ!」
「え、ボク⁉ 違う! 違う!」
聞く耳持たず、男は少年に掴み掛かる。彼は仕方なく、男の腹に、拳をめり込ませた。気を失って、倒れ込む。それを見ていた男の仲間が、敵討ちとばかりに、少年に襲い掛かる。仕方なくいなす少年。襲い掛かる職人。気づけば、彼の周りに人だかりができていた。
「はあ、はあ……おまたせ。今回のは、ちょっと酷いよね?」
飛び掛かってくる職人の群れを、何とか退け、少年は元居た橋の上に戻る。
「あの、どちらさまでしょうか?」
「あれ? あ、いや、ごめんなさい。人違いでした」
アガサだと思って声をかけてみたら。別人だったのだ。頭巾を着込み、似た背格好だったので、間違えてしまった。 れたのは、確かにこの辺だったはずだ。しかし、アガサが居ない。
「守り手様!」
背後から声がした。振り向いてみれば、禿頭の男が、少年に向かって手を振っている。その極太の二の腕は、茶褐色の肌と相まって、丸太のようだった。アガサの胴体と同じくらいの太さがある。腰に佩いた剣から、アッサリア騎士団の者だと判断する。
その屈強な男の後ろから、アガサが、ヒョイと顔を出した。指をチャカチャカと動かす。おかえり、と言いたかったのだろう。しかし、指の動きは不完全だった。何故なら、氷砂糖を持っていたから。手の平からはみ出るほど巨大な、砂糖の塊だ。様々な果物の欠片も、砂糖と一緒に固めたらしい。色鮮やかな逸品である。
少年の顔が、青く変わる。
「……そんな高価なもの、どこで?」
この二人旅、旅費はいつだってカツカツだった。食事だって、具入りの焼きパンばかりだ。たまには、座って食べれるものを食べたいと、少年は常々、思っていた。顔には出さないだけで。アガサが、隣の騎士を指さす。
「申し訳ございません。お腹をお空かせていらしたようなので、私が差し上げました」
「ボクの活躍は?」
アガサは首を横に振った。氷砂糖の中から、キイチゴを摘まみ出し、指で弾く。少年は、飛んできたキイチゴを、口で受け止めた。キイチゴは甘くて美味しかった。
「騎士さん。こんな高価なものやらないで良いですよ。どうせ味、分からないですし。甘ければ何でも良いんですよ」
アガサが少年の脛を蹴る。
「……はあ。……いい加減、ボクも疲れた。今日はそろそろ、お終いにしようか」
アガサの顔がパアッと輝く。
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