第10話 ガリ勉の地味子ちゃん
小さい頃、私はずっと「ガリ勉の地味子ちゃん」と呼ばれていた。
実際、絵に描いたようなガリ勉だったから、仕方がなかったと今では思う。
容姿は真理の比じゃないくらい無頓着だった。髪の毛は伸び放題でホラー映画の
父と母は教育に力を入れていて、とりわけ母は熱心な教育ママだった。だから私は小さい頃から塾に入り、いわゆるお受験をし、名の知れた私立の小学校に通っていた。
勉強は、嫌いだった。けれど、テストで点さえ取ったら両親は喜んでくれたから、それはそれで満足していたのだと思う。休憩時間はクラスメイトと話をするよりも机に向かって一人で勉強をしている方が楽だった。
もちろん、「ガリ勉」と呼ばれるのは嫌だった。
だけど、当時の私は勉強以外にできることがなかった。運動も会話もできない。私から勉強を取ったら、何も残らなかった。嫌いな勉強に、いつしか私の方が依存していたのだ。
そんな「ガリ勉の地味子ちゃん」から脱却しようと思ったのは、いつ頃だっただろう。
家族の介入なしに真理と遊ぶようになった頃だから、小学校三年生くらいだったかもしれない。
私は、真理に憧れていた。
あの天真爛漫で、屋外を駆け回り、本気で風呂に海を作ろうとしたあの変わり者の従妹が、心の底から羨ましかった。はつらつとした笑顔を見て、自分の陰気な性格が嫌になった。
こういった悩みごとは、身近な関係には相談しにくい。
親なんてもってのほかだし、学校の先生やクラスメイトにも言えなかった。
あれこれ悩んだ末に、私は塾の数学の先生に相談した。
「地味だと言われる原因はなんだと思いますか?」
塾のあとに相談しに行くと、タバコでかすれた声で先生は端的に聞いた。
口べたな私は、ぼそぼそと呟くようにして答えた。
「……髪の毛がぼさぼさだから、暗いって言われます」
「だったら、髪の毛を切りなさい。それで解決です」
「……あと、目が悪くて、分厚い眼鏡をかけているのも原因だと思います」
「だったら、分厚くない眼鏡に変えなさい。最近では強い近眼でも薄いレンズで眼鏡を作ることができるみたいですよ」
たったそれだけだった。相談が終わるとみるや、先生はさっさとその場を去った。
今でも覚えている。あの日は月曜日だった。私は家に帰ると同時に、部屋のはさみを手にして洗面台の前に立った。両親はどちらも外出していて、家には私しかいなかった。
鏡越しに、自分の姿を見た。ボサボサに伸びた髪。前髪が伸びすぎて、顔なんてほとんど見えなかった。その前髪を、ばっさりと横に切り抜いた。ジャリ、という髪を切る感触が、はさみごしに私に伝わり、前髪が洗面台に落ちた。
私の顔が、鏡の中からこちらを見ていた。
なるほど、私はこんな顔をしているのか、――はさみを入れた直後、私は案外冷静だった。軽くなった頭。顔を左右にふると、直線に切りそろえられた前髪がさらさらと揺れた。
その表情が珍しくて、まるで新しい世界を見たかのような気がして、しばらくの間、はさみを持ったまま鏡を見つめていた。母が帰宅し、ついに自分の娘の気が触れたと騒ぎ出すまで、私はそうしていた。
そのときは、まだ好奇心の方が勝っていたから良かった。
本当に大変だったのは、その翌日だった。
学校に行くために玄関を開けた瞬間、目に入ってくる情報の多さに私は圧倒された。これまで、前髪がどれだけ私の視野を狭めていたのか、そのとき初めて気づいた。それと同時に、自分のすべてを晒してしまっているようで恥ずかしくてたまらなかった。
俯きながら私は小学校の教室へと入った。クラスメイトの視線を浴びたとき、ほんとうに素っ裸でいるような思いだった。
「円さん、髪を切ると雰囲気変わるね」
ホームルームの前に、隣の席の石原さんが話しかけてきた。
「何かあったの?」
そのときの私は、うまくは説明できなかった。国語の作文ではいくらでも文章を書けるのに、自分の口から話すとなると、上手に言葉にできないのだ。
もじもじと、ぶつぶつと俯きながら言い訳をする私に、石原さんは笑いながら言った。
「そっちの方が良いよ。すっごく可愛いもん」
私は俯いた。顔が熱かった。
「あ、……りがとうございます」
一と〇しかない二進数のように単純だったあのころの私は、その一言だけですっかりとその気になってしまったのだった。
けれど、人との交流を避けて、ずっと勉強をしていた「ガリ勉の地味子ちゃん」は、知らなかった。世の中には、人と人とが上手に生きるための「お世辞」というものがあることを。
その日の昼休み、私はトイレの個室にこもり、手鏡を見ていた。石原さんの「可愛い」が嬉しくて、これまでろくに見たことなかった自分の顔を、私はじっと見つめていた。かわいいと言われたら、確かにかわいいように思えた。
石原さんたちがトイレに入ってきたのは、十分ほどしてからだった。個室の外から聞こえたその会話は、私の脳裏に今でもこびりついている。
「っていうか変だよね、あれ」
そのときの石原さんの声は、さっき私にかけてくれたときのそれとは全く違った。
「なんで? 地味子ちゃんどうしちゃったの?」
「しらない。なんか従妹がどうとか言ってたけど」
「なんか顔色悪すぎじゃない? 不気味なんだけど。髪の毛で隠してた方がまだよかったって」
「不健康な白さだよね」
「ていうかよく見たらあの眼鏡、デカすぎでしょ」
「それ思った。変だよね」
たぶん、取り立てて悪意があったわけでは無いのだと思う。容姿に無頓着なクラスのガリ勉が、いきなり髪を切ったら、ちょっとくらい話題になるに決まっている。
他愛の無い、――本当に他愛の無い話だったのだろう。意地悪しようなんて気持ちはこれっぽっちもなくて、ただありのまま思ったことをコメントしただけ。実際、肌は青白かった。眼鏡だってデカかった。だから、それを指摘した。彼女たちからしたら、本当にそれだけのことだったのだろう。
だけど、それらの言葉は、私の胸に強く突き刺さった。
――っていうか変だよね、あれ。
くすくすと笑う彼女たちの言葉が、いつまでも心の中に残っていた。ここで被害者面するのは絶対に間違ってると思いながらも、悲しくて仕方がなかった。誰も自分のことを悪く言わない世界に、飛んでいきたいと思った。
そして、そんな私が入り浸ったのが、数学の世界だった。
数学には、お世辞や建前のようなわかりにくくて曖昧なものはない。
どこまでも明確で、純粋で、美しい世界なのだった。
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