第5話 夏の旧校舎


 そして、この世界に恋をしてしまった真理は、自分の容姿そっちのけで、一途に自分の好奇心を追い続け、今ではこうして「変人」スタイルで、物理学者になるためにせっせと受験勉強に励んでいる。受験生になって早三ヶ月。貫禄かんろくすら漂う古い木造校舎にエアコンなんてあるはずがなく、七月の旧校舎の教室はうだるような暑さだ。


「……夏だよ」


 首輪を付けた真理が、ぼそっと呟いた。


「ねえ、数美。夏なんだよ」

「知ってます」


 私は顔も上げずに答える。六時からの塾にそなえて宿題をやっていた。


「こんなに天気がいいのに、こんな薄暗い教室に閉じこもって勉強してるなんて、もったいないって思わない?」


 なかなか手応えのある計算に取りかかったので、私は真理の言葉を無視する。


「ねえねえ、数美。ちょっとくらい息抜きしたいなーって思わない? 私、三年になってから海にも山にも行っていないんだよ。実験だって今年になってまだ一回もやってないんだよ。ほら、数美もちょっとはさ、実験したいって思うでしょ? 去年とか私の実験手伝ってくれたじゃない。ね、三ヶ月頑張ったんだから、今日は休憩にしようよ」


 無視。


「私ね、理科室に行ってすらないんだよ。塩化ナトリウムさんや酢酸さくさんさん、元気にしてるかな。今頃私に会えなくて泣いてるんじゃないかな。アンモニアさんや硫黄さんの香りが恋しいな。ちょっとくらい三階の理科室にいかない? ねえ、数美。……数美ちゃん?」


 無視。


「そうだ。せっかくいい天気なんだから、太陽光で料理とかしてみようよ。いま太陽光のエネルギーすごいからさ、ビックリするほどすぐ調理できるよ。楽しそうじゃない? ちょうどこの間、物理でエネルギー保存則の勉強したからさ、その復習にもなると思うんだよね。ほら、息抜きで勉強にも役立つ! こんないい手はないよ。そうでしょ? ねえ、そうでしょー? 聞いてるー? かーずーみーちゃーんー。実験しーたーいーよー」

「うるさいです」


 答えが出て、私は顔を上げた。極力、起伏きふくのない声を心がけて、


「さっさとその古文の例文を覚えてください。それが終わらないと次のステップに行けないんですから」

「数美!」


 真理が涙目で訴える。


「ひどいよ! 鬼なの? 数美は鬼なの? 人の心を持ってないの? 私をこんなふうに監禁して、心が痛んだりしないの!?」

「監禁ではありません。終われば外します。いいですから早く、」

「お願い! ちょっと、ちょっとでいいから実験させてよ。後でちゃんと勉強するから」

「ダメです。今は古文の時間です。そうやって勢いに任せて行動してしまうことを真理はやめるべきなんです」

「なによ! そんな数美は考えすぎて行動できないじゃない。何も考えずに飛び込むことが大事なときだってあるんだもん」

「計画も立てずに行動に移せば失敗するのは目に見えます。時間を無駄にすることになるでしょう」

「それは無駄じゃないよ。失敗して初めて得られることだってたくさんあるんだから。今の科学があるのは、莫大な失敗の元に成り立ってるんだから! 無駄なんて一つもないんだから!」

「でも避けられるのなら、避けた方がいいでしょう。失敗するのを分かっていてやるなんて、そんな愚かなことはありません」

「愚かじゃないよ! 一つでも多くの失敗を体験したらいいの!」


 私は自分の赤い眼鏡を外し、ふきんで拭く。


「――この時間がもったいないんです。どっちみちやるのであれば、今我慢してやってしまったほうがいいに決まっています。真理も実験する時間に当てることができますよ」


 だってぇ、と真理は頭を抱える。


「もう暗記疲れたんだもん。詰め込みすぎて頭がごちゃごちゃするもん。このままだとエントロピーが増大して、脳が破裂しちゃうよ」

「破裂してもいいですから、早く覚えてください」

「鬼! 数美の鬼!」


 目尻に涙を浮かべて真理が言うけれど、私は取り合わない。宿題に視線を戻して、


「早くしてくださいね。七時前には塾に行かなくてはいけないのですから」

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